Jan 2012

筋目書き(三)

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写実が真実を引き寄せるのは、人間が有機体として生きていることの背景に、無機質なものの動きを感じるときである。人間の理想と苦しみさえもが現実を写し取ることのなかに投機されるのは、人間の無機的な物質性によってこそ、経験という無垢なる生の出来事が生じるためである。心はその影であり、心が時空を一時つなぎとめる。世界を写実するとき(写真を撮るとき、あるいは音を聴くとき)同時に自らの心の動きに従うことは、もののふるまい、ものの内なる歴史を経験することに他ならない。無機的なるものへの祈りであり、ひいては人間であることへの祈りなのだ。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(二)

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情は飛び、生き動きながら住処をかえる。情を感ずるために(あるいはその怨念を逃れるために)自己を離脱して空けようとするそのとき、書いていることや思っていることは概念たりえないどころか、書いたとき思ったときはもうすでに彼方へと飛び散っている。あらわれては消えていく瞬きのように、あるときは速くあるときは滞留しながら、情の飛沫が時空を飛び散っては身体に停泊する。残された言葉は、すでに情の宿主たる身体をはるかにこえている。書かれた言葉が情そのものを示しているのではなく(あるいは言葉に綴られることを情がゆるさず)、言葉の余白にこそ情の厚く切なる声が聴こえてくる。詩の言葉というものは、容易に何かに編み込まれるのを拒む場所をその永遠の住処としなければならないのか。詩の裏に潜む行き場のない情が、さらに考えるよう、それも無制限に強いてくるのである。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(一)

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ここに言う「悟り」は「音」にいいかえられるかもしれない。「音とはひとすじに、音の力のみにたすけられて働きだす。」自らの音(悟り)にかき乱された心が、次第に音(悟り)の沈黙へとかえるとき、無心になることがある。無名性のなかに自己をおこうとせずとも、さまざまな情も迷いのすえに、やがて等しく無に帰するときがくる。情は自己を離れ、風となって時をただよう。そのときはじめて迷いのない身体の芯がうまれるのかもしれない。世界が一変しても世界は現 にあり続けるという苦しみ、赦されざることを何かに導かれて(それも自らの意図に反するように)赦していくという背理に生きる言葉。自己の赦しをもって自己を現実のなかに離脱し、何かが創造されていくプロセス。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(序)

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言葉によって行為することとは、私にとってどういうことだろうか。年末に高野山の宿坊を訪れ、冷たく張りつめた早朝の空気のなか僧侶の読経を聴いて、この素朴な問いのなかで年越しをした。それから何かがじっとして停滞している。


震災で亡くなった家族の写真が、流されても埋もれたがれきのなかから人の情の手や祈りによって家族のもとへとやってくる。津波に残された一本の木は、すべてのなぎ倒された木々を背負って立っている。

あらゆる過去の出来事は消すことができない。つくられず、語られもしなかった歴史は、行為する身体として生き続ける。過去は不意に姿をあらわす、いまを待ち望んでいる。

自分史の余白に浮かぶ他者の言葉を、私を通じた主情によせる。時がたって、この主情が離れていくときやってくる他者の言葉をふたたび白紙に綴る。文脈を剝ぎ取られた断簡零墨は、私のなかの遠い記憶かもしれないし、そとの世界や過去からもたらされる教えかもしれない。

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