筋目書き(三十五)雨月2 白峯の現

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雨月の音を、夢と現のあいだにみて弾いてみながらおもうのは、時代的に近しい精神的故郷である江戸の音楽で主立った楽しみ方は、おそらく間と音色だっただろうということだ。捨てられた故郷へと、それもありありともどるような感じ。子供がうたっていた一つの民謡の単純な旋律を弾いてから、次第にコントラバスの一本の解放弦にある複雑な倍音の音色へこの旋律を照らし出すと、はじめの旋律は、音色のみが鏡となった差異と反復によって、無限な形で心に響きだした。音の具体は心の空と表裏をなしている。雨月のあとに対照的に書かれた「春雨物語」において秋成は此岸に集中し、あの世を否定して仏教には手厳しいというが、これらの音は雨月の此岸と彼岸の円環する音楽への手がかりかもしれない。律動は生活の支えで、旋律はまだみつからない性をうたい、音楽にはじめも終わりもなく構造はいまのところないにひとしい。構造を借りた旋律の変奏や荒々しい情念の息の吐露による緊張の持続ではなく、音色の変相を鏡とする心象が自在に変わりながら、各々の性をみつめさせ、間のもたらす断続的緊張のなかに息をついてゆく音楽が、ながれながらも止まっていまここにある。空は方法によっては容易に達成されない彼岸で、此岸の方法や欲によってではなく、そこにそうあることによって、そこになかったものが思いがけずあらわれることといえる。一方で、「白峯」において西行の呼び出した崇徳院は空の具体だろうが、空そのものを描くのではなくて、空の具体を描くという此岸の水準が確かにあって、そこには具体的な方法もあるだろう。空は写真にも音楽にもあらわれうるが、この水準における方法は、写真ではなくて音楽がふさわしいと知る。…写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(三十四)雨月1 雨月への旅

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大晦日に訪れた熊野古道での静寂とどこからともなくふかれる風、葉の擦れる掠れた音は音の抽象への入り口ではなく音からもたらされる身体への具体的な響き、肌への触覚だった。演奏することの具体性は確固としてある。写真がそこにある何かを写すように、存在の具体を経なければ音はやはり浮わついているように感ずるし、音は一見抽象的であるようでも、思想や観念を常に逸脱するいまを生きているそのことのあらわれ、極めて具体的なものごとでもある。一方の輪をまわしても、もう一つの場所に眼をやらなければ音をまともに弾くことはできない。写真はおそらくその具体というものの肌触りに限りなく近いということもできるが、だからこそ写真の抽象論も必要になる。写真の具象世界と抽象的把握は写真の宿命であり、写真の矛盾ではないだろう。それにしても写真論も音楽論も抽象的存在論はこの日本の現状にいたってむなしい。道元的な悟りのように「何か」というしかないかけがえのない一瞬がある一方で、同じく「何か」としか言い様のない、だが決してなにもないという抽象ではないなにかある具象、生の具体的時間とは何だろうか。モノがカタル身体性とはどういうことか。…写真と本文へ… to photo and read more…