出雲崎 izumozaki(2)2010

Pasted Graphic 28

人間が生きていくための尊厳、その運命のかかったこの重大な時期。ためていたものがためきれずに、いつともしれず爆発していくその反発力にかける自分がいまここにあるように感じている。

春になり、こもりがちだった冬の寒さがとけて、家のおもての空気が吸いたくなる。楽器を少し弾いてから西日の傾く夕方に前の道にでてみると、暖かい昼間の熱気がまだ冷めない空気のなか、鶯の声が今春もまた竹の風にしなる音とともにどこからかきこえてくる。それは彼方からきこえてくる風の運ぶ素晴らしい音。夕日は山の際に沈み、山は生き生きとした灰色に染まる。

そうして音にきき入っていると、これにまさる音はどこにあるのだろうか、そのとき、耳はすでに風をきいていはしない。連関されて思いおこすのは、いつも夏に延々と複雑に音を出す蝉の群の音。一つの蝉が一つの蝉をよぶ運動の集積は泣きやむまで続き、延々と続いた音も一つの蝉がおわり次がまた終わるその余韻のなかへと溶け込む。そうして世界は閉じ、深くて新しい眠りが次なる目覚めをもたらす。

音に感じ入るという感覚は、 言葉が他の言葉をもってして言葉が制されて言葉でなくなることによっているのではなく、 言葉としての人間が言葉を全く外部の音をきっかけにして不意に忘れ、動物的な本能と生物的記憶を身体の底から拾い出してくるような作用によって、言葉が音の「縁起」によっておのずから身をひそめて消失していく過程に通じている。

こうした過程を経て、あるとき自らがふと目覚めたとき、覚りの言葉が内部に生じているという過程、とても長いような、とても短いような一連の出来事といったらいいのだろうか、そうしてこの世界が示しだし、この世界によって与えられた言葉はもはや沈黙ではない。沈黙を打ち破る運動の力そのものだ。

言葉の始まりはそのようにしてあるのだと思うのだ。「花開いて世界起こる」ということは、音を聴くという単純な行為によっても、よりよくもたらされるだろう。道元も風鈴についてどこかでふれていたのは、そうした覚りの運動が風鈴というものにあるからだろう。

耳が全ての音にひらいていくことは大事な経験であるが、それに付随するように、耳が一つの巨大な音の渦、静寂、あるいは巨大な沈黙のなかに開きながらも、全体が全体として受け入れられていく受容の過程のなかで、全体として閉じていくことによって、言葉が飽和するのではなく、言葉が徐々に消失したところに再び自らが開示される。そうした繰り返しの過程のなかに、言葉と音の、人間と音楽のずれと反復がある。その反復自体が生の波動を呼びさます。

大地震がおきてからというもの、人の人間性と音の音楽性、あるいは人間性とその人の音楽性はもしかすると絶対的に異なる場所にあるのではないかと疑っている。人間の日常は言葉からもはや逃れられず、音は人間であることの、人間の言葉の、きっかけにすぎない。そう思いながらも、言葉と音の影たる音楽が接近して、深いところでわずかなずれを保ちながらも微細に交差していく過程を、鶯の声と竹のしなる音のなかに今日も夢みていた。

私にとって音楽は、そのようにして遠くにいながらにして、みえない人に寄り添い交差していくところに、人間をたとえほんの少しでも照らしだすものでなければならない。それは夢かもしれないし、それは実際きこえ届く音ではないのだし、言うまでもなくとても難しいことかもしれないのだが、音楽という具体的でしかも得体の知れないような、どこかを運動しながら彷徨い続ける、か細くもまた太くもあるその運動の力にかけずして、いまここで音を出す意味はない。道元のいう「縁起」とはそういうものだろうと信じて。

そうしたときその根底を見つめただすならば、日々の世界の、このざわめきと夜の静寂、とりわけ無人地帯の死者の沈黙のなかに、じっとみみをかたむけ、何かの声を聴くというただ一つの態度を貫くことだけが、自らを欺かないための許された道であるように思われる。毎日やっている仕事もそこから反射された何かを愚直に現実に即し具体的な行動にうつす行いとしてありたい。

人間にとってどうすることもできない天災の果てしない厳しさは、涙も涸れるまで泣きはらし天を恨み、天を受け入れることによってしか最後には乗り越えられないのかもしれない。人間の生活する陸地、海の恵み、しまいには地球が地球であることのなかに人間がいる。 今求められるものは行為の各々の価値評価なのではなく、まず何よりも、あらゆる生の運動への力であり、力をもたらすための眠れる夜だ。




出雲崎 izumozaki, japan, 2010

Pasted Graphic 29

桜がほぼ満開に近くなった犬山城は多くの人で今日も賑わっていた。城に久々に登ってここに来たときのことを考えていた。犬山での生活を始めようかとはじめてここを訪ねたときも、城にのぼってこの地の生活が将来の自らを形成するのを想いながら、何かの手ごたえを感じた。そうして大学の医局を辞した。

引っ越す前の休みには、 当時祖母も百歳を迎えて、 自分の出自を模索する最後の機会だと思い、母方の故郷の群馬県の前橋市をとても久しぶりに訪ねた。何代かまえの祖先に近いところには、日本史の教科書に載るような軍事行動の首謀者がいれば、前橋の生んだ萩原朔太郎に影響を受け、萩原恭次郎や西脇順三郎らと親しい詩人も身近にいて、その時代の言葉を発していたということをはじめて知った。

そのとき私は、戦争の爪痕を少しではあるが実感をともなって垣間みるというはじめての経験をした。そうした風土や戦争という時代をひきずりながら、親が子を産み、やがて自分が生まれて今に至っているということを強烈に実感し、いろいろなことを思った。 戦争が少し身近に感じられた。戦後の経済や政治の本も、少しは私の身体の体験として読むことができた。

人間の歴史はひたすらに長い。余儀なく襲いかかってくる現実を、その都度引き受けて生きなければならない。道元の生きた時代も苦しい時代だったという。それぞれがそれぞれの人生のなかで、その時代を生きてきた。 何かを何かの行為によって伝えるということを、改めて考えなければならない。大本をたどるなら、たとえば釈迦は、ついに沈黙を打破してまで、何かを言葉で伝えなければならなかった。

そして、戦後の焼け跡の日本と経済成長を通じて達成された日本は大きく異なっているのだろうが、このたびの震災と原発事故、この自然災害と、連関されて生じた悲惨な人災から、私自身は何を学ばなければならないのだろうか。

福島では、隠蔽と人間のずるさそのものが暴露された上に、放射線にさらされ、死にさらされた人々が今もほとんど休まずに働いているという事実を思っては、毎日愕然とする。だがこの現実を考えるとき、そこに照らされた自分自身の態度こそを内側にむかって凝視しなくてはならない。そのことが今の私にとってやはり最も大事だ。

私は東京に育ち、離れてみると東京への愛着がとても深いとわかる。時折両親や兄から東京の今の模様をきく。だが一方で東京中心の世界も終わりつつある。学問という手法の限界も大きく問われるだろうと思う。これまでの私の何が大事だったのか、何が大事でなかったのか、今はどうなのか。私自身が一日一日を生きていくというその行為を、今は内的にみつめることしかできない。





瀬戸 seto(6)2010

Pasted Graphic 30

大地震、続いて生じている原発事故についてあれこれ思ったり、被災者はもとより東北沿岸の被災地の現場に残っている医療従事者の、果てしない労苦を毎日想っている。

大学でお世話になり、南相馬市で開業された知人の医師の安否をめぐっては、一時は自らの心臓がとまるほどの日を。そして10年前に事故で亡くなった友人の写真家の関美比古さんのことを。彼は95年の地震後、「神戸市街地定点撮影」をのこした。

自分の身の丈にあった仕事を、いつも通り続けているのではあるが、 一方では尊敬していた人がもはやどうにも信じられなくなったり、私個人のこれまでをどこかで回想していたりして、きっとくだらないことなのだが、避けられなかった自慰的なことどもについても、頭のどこかでさめざめと考えざるをえなかった。

日々はあまりにも遅く過ぎていき、桜の開花や付近の草花の芽生えとともに、脳裏で生じていたある種の混乱から目覚めてみると、これまで考えもしなかったような人々のことが、ひどく身近に感じられるようになっていた。

昨日今日と犬山祭で、懐かしい人間くさい賑わいを感じて、冷たい春風に 遅咲きではあるがもう無数にみえてくる花びらが 少し散って沁みる風情、山車からのかけ声やあわせ声を聴いて、少しは言葉が出てくるようになったように思った。

道元の言葉を借りるなら「花開いて世界起こる(正法眼蔵/梅花)」ということをいま思っている。同じく「縁起」ということを思うと同時に、答えのみえない問いを私もこれからまた生き続けなくてはならないのだと、いま切に思っている。