犬山 inuyama(24)2009

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あたりは紅葉の絶頂期となった 満月が城を照らしている 半分ばかり上ったところで 山をゆっくりと下りていく 上っていたときにはみえなかった風景をみながら 上ったときに踏みつけた葉 もう落ち葉はそこにはないかもしれないが 土壌のなかにうまっている 他の葉が芽生えている 葉の色は変わり 森もまた変化している 下りる ある葉の上から違う方向へ 知らなかった風景へ知らない路をつくって進むよりも 一度踏んだかもしれない葉を拾い 何かを償いながら まわりの風景を見渡してみる 笑いとともに 

写真は失敗をもろともせず成功のなかにも失敗がある 原因とその結果があまり意味を持たない そしてやはり今なお音楽もまたかくあるべきではないかと考えるのだが 疲労し切って挫折的失敗を重ねるよりも 今はじっと 上りに踏んだかもしれないが そのときは見えなかった落ち葉を拾って その落ち葉を我がものとせず 償いをもって自らを笑いながら落ち葉がつきつけてくる問いを自らに重ねていく その過程そのものとして 次に何かがあるのではないか 当たり前だけれど私はこれまでこの世での生き方を考え出会いを大事にし失敗とそして時に幸運な成功をしながら自己実現をしてきたような感じもするが 本当にそうだろうか それは結果としての自己の姿 その時間的経過をみているにすぎないのだと この一ヶ月 急激におもわれるようになった それとは違う 私をみる別な私 それは一体どう生きていたのか 生きていなかったのか 生まれていなかったのか そういう私が都会のなかでさえも思いもかけず重層化し私をみているはずなのに 私には別な私が本当にはみえていなかったのだ こうして私は 今度は私をみる私とともに 私とは違う次元で今度は山をおりていかなければならない この際においては 実際におこっているものことを事実や現実とするだけでなく 想像する力や果てしない悔恨やものごとの触感 静寂のなかのひそひそとした語らいのなかにも みえにくいが確実な事実や現実が聴こえてくることを 実感として いまの私はこの身体に認めうる この実感をもとに振り返るなら それはわかっていた とは全くいえない だがどこかでわかろうとしていた だろう それはごくごく当たり前のことかもしれないが この両面の事実や現実を出発点として 今やはり置かなければいけない 私がむかしむかしへと さかのぼる くだる先 身体が空気を押し出す縦断面に ふとみえる落ち葉を拾って 絵画や古典文学残されたものもまたその落ち葉として 迂回するのではなく直接落ち葉を拾いながらこの現実に直面して 横の世界を眺めてみるように写真を撮り 音がだせたらいい 何一つ知らなかった身体が 落ち葉の記憶をたよりに まずは地上に戻ることができるだろうか そこからまた違う山が あるいは海が眼前に開けるのだろうか 

この美しい紅葉を前にこれまでの私が ひどく気恥ずかしくて仕方がない気持ちが今日はしている 子供用のCDを車できいた 昔から伝わってきた子守唄の旋律と決してうまくはない声の節に今日は強く魅かれた 社会における あるいはこの世界における存在や権力と別の次元がある 当然のことだろう 言葉も音も風景も私が生まれる前から私のなかにあると言っても過言ではない 当然のことだろうとも 権力から離れるところ 何か生まれる それは人間の現在の社会構造の問題 生物多様性の問題と深いところで関わっている それらの問題からある契機を経てここへときたのだから やっとこの凡庸な私もここまでこれたという安堵感もまたこみあげてくるのだが 別な私がまた私を笑っている そしてこの笑いはほとんど嘲笑に近いものとなった




犬山 inuyama(23)2009

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写真や音楽から
今どんどんと
離れていっている 
明らかに 
後ろを向いて歩いている 
オオムラサキの拍動を
停止させたこの手 
手への償いのようなものが残っている
もう一人の私の
私への笑い
その裏には 
私の償いがある
そうであるから
心は落ち着いている
なにがしかの強い
実感だけが残る 
生きていることを
そうである当のものを
あらわしていく以外にない
そうでなければ
本当に私が生きることにはならないだろう





犬山 inuyama(22)2009

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何かを実感してそれを言葉で断定しそうになるとき 既に次の問いが生まれている そうである あるいはそうであった が それで どうなのかと 重ねていくことが 具体的な私にとって大事なことであるように思われる 時間がないと思っていたがそうではなく 時間は意外にも長い だが 人生は、はかない 身体が楽になってきたと感じだすと 笑いに近い感覚がでてくる やはり疲れてはいても かれこれ二十年間つきあっている慢性病も 少しよい感じがする そこはかとない笑いのなかにそれを受け入れているからか 嘲笑ではないが どこかにいるもう一人の私が 私を笑っている 別段否定的というわけでもない 別人の私がそう言っている 山のお寺に登ってきた 頂上で紅葉と月をみて本当に笑ってしまった 何を笑ったのか 月にみる私をだ 階段をくだりながら 笑いということについて深めなければならないと感じていた なぜかこれまで非常にとっつきにくかった源氏物語も 読めるような気がしてくるのだった

話は変わって とある雑誌の表紙写真を任されつつある 頼まれたのもあるが私はボランティア 対象はふだん忙しく働いているような人 だとおもう 縦位置の奇麗なデジタル写真ばかり これはこれで面白いと思えるようになった これは甲乙つけがたい二枚の写真といわれ さあどうすればいいか こちらが甲というイメージで こちらが乙というイメージです という笑えない冗談ではなくて 優劣をつけるには まずはもう一人の私が 心底から現象としてのこの私を笑わなければ 甲乙をつけることはできない 

話は転じて 古典になじんでこなかったとはいえ 上田秋成の特にその文体にどうしてか強烈に魅かれたのはおそらく 今にして思えば このような笑い飛ばしのような感覚を彼自身の作品に対してもっているからだったのだろうか 彼の笑いの感覚は笑いを否定しさらにそれを否定した冷めた暖かい笑いなのだ イギリスのガーデニングから日本の庭園をみて笑うようなものか 無論 馬鹿にしているのではない 猫をたくさん飼っていたという国芳の得意な猫 私の別人とは国芳にとっての猫だろう 英泉は少し技術に傾き過ぎ ものすごくうまいけれど 北斎は笑いの魔術師 本当に凄い 天才とは北斎のことだ


さらに笑いと関係なくなるかもしれないが今日書いておきたい 昨日は知人の受験相談をしてずいぶんと語った 少なくとも受験を控える不安な高校生の心には響いていたように思い 懐かしくまたうれしかったのだ 具体的な入試問題についても考え方のイメージ 物質や光の振る舞いのイメージまで話した こういう受験問題というのはある意味においては簡単のようにも思われる 大きいか小さいか 速いか遅いか 曲がるかまっすぐか そんな単純なことのように思う 理屈はあとから難しくついているだけ 理屈を学ぶのがめんどくさいけれど論理的な思考は大事だ 方法をつくるためのさらなる手段 だが根本はイメージがわかれば 点数にならなくとも解けたも同然だ そう思っていたが 私の場合これが甘かった 幾何学の補助線こそ美の極致と思っていた だがこれでは現実が許さない 試験というものは点数で決まる こういう怠惰な性質は今の私にもあるから反省しないといけない そうして何度も受験に失敗したが最後には役立っている 世の中には最低の決まり事というものがある 子供が隣のうちに入り冷蔵庫を勝手に開けて食べるようではやはりいけない 大人ならなおさらそうである 身をわきまえるべきときを誤ってはいけない 子供のしつけは大事だ 教育はますます困難になってきている

受験時代の私はと言えば 高橋正治先生という予備校でお世話になった古文の先生の思い出がある 二十歳くらいのときに出会った クリスチャンで私立大の国文学の教授だった 先生の教育セミナーは「人間の位相」と題されたもので 数百人は入る会場で浪人生は私一人 あとは中年の方々が四人だけ 学生は私以外誰もいないという先生だった それでも今日はきてくれて感動したとおっしゃってから 感動とはどういうことかということから始まり イスラム哲学から仏教 古典へといざなう真に心打たれる講義だった 今もときどきひもとく井筒俊彦氏の「意識と本質」を読み出したのもこの講義がきっかけだった この本はいまでも相当難しい あのとき終わらないでほしいとずっと聴いていたかった 最も印象に残ったのは 定年を迎え六十歳から一つの本を書き始めるときがやっときたという告白だった 会場に数人だったからかもしれない だが先生は数年後に海岸で 何かに導かれるように急に容態を崩してかえらぬ人となった 集大成はならなかった もう一度その大学に会いにいこうと思っていた この最後の授業を今でも忘れずにいる 胸の内にいつまでも秘めておかないほうがよいとこの身体が あるいは別の私が要求するので 今ここに書いている

尊敬する高橋先生もどこか不真面目で 面白かった 特攻隊の生き残りとしての生かされた命 その命において溌剌としていて 笑いに満ちていた 墓に入ったらまたお会いしたい




犬山 inuyama(21)2009

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私は竹やぶのなかにいて私の身体がみえなかった 私の意識は西日の強い逆光に負けていた 影に入った だがそれは新しい世界を経験することではなかった 負い目に満ちた意識を影の身体に投影して ちょっとだけ頭に描いた体裁をたもちながら とある愚痴のような言葉や音を大概はこぼしていただけだった 唯一何の作為も加えることのない写真だけが 世界をいつも一つの冷静な切り口で写し出していたのかもしれない それでもこの身体は少しは楽になったのだった だが 竹やぶの竹の幹のしなりとしなりをうながす風を聴いて 竹やぶのなかなから西日を垣間みて太陽の光をみた だが太陽を太陽として 月を月として 風を風として 感じながら どれのなかにも私をみることが本当にできるようだと身体が気づいた時 月と風と太陽は渾然一体とし重なりあっていた こうした重なりのなかにいると感じて 一つの伸び縮みする巨大な生き物のなかに生死もだきこまれている こういう感覚が自由にのびていくと その一点にのっている私が世界のうちがわにあるという覚醒に それはつながっている かつてはこんなことを言っても本当の実感はなかった 考えることは放棄していなかったがそれも小さな切り口に過ぎない 言葉の重なりも生きた身体 音の重なりも生きた身体と知れば 重なりの切り口を一つ一つ体験していくことが生きていくという営みの楽しさにちがいない 一つの切り口 自他という切り口のなかで 切り口を見続ければ克服される三次元的な何かがある そのようにして実体のない何かをみて何かを慰めようとようとしていたにすぎないのだけれど ただ焦っていたそれでは行き詰まるだけだった だが本質的なことかもしれないものは 逆に複数の切り口があるというそのことだった 複数の切り口をひとつづつ あるいは 真に才能に恵まれた稀有な人なら 同時にみていくことによって身体はますますのびのびとしだすだろう たとえ現実が苦しくとも 楽でいられて ある切り口からもうひとつの切り口へ自由に移行することができる こうした自由な移行や移動 往来のなかに 音と音の対話や 光と光の対話 事物と事物の対話が生じて それらは強大な生物の内側を形成しながら 終わることがなく 続く こちらに来る前に陶淵明にあこがれた 巨大な魚だと思った 大きすぎてみえない 刺身にして食えないどころか何度切っても違う姿があらわれる だけれど不可解ということがなく こちらが安心していられる そんな医者にこれからでもいいからなっていきたいと ときには若々しく溌剌に言ってみよう だが私の生の末期は音楽によって生きたい 生かされたい なぜならば音楽は あの音の溜まりの宝庫からやってくるみえない巨大な魚の息のように思うからだ 背筋が凍るような経験をこの身に実感し 小さな町のなかで暮らしながらも 多数の重層化された時空の 多数の切り口の面にふれていかなければならない 今はこの世にない木々は いつかみえない魚の息を私にふきかけようとしているものと信ずる この恩を忘れてはいけない 木々の倒されたあとにはレクリエーション施設へと続く道路ができた となりの道は封鎖されている 農業の用水路は埋められた 何のためにそんなことをしたのか 私はこの推移を見守る必要がある 新しい木をどこかからもってきて体裁よくしつらえた 自然のなかで遊ぼうとうたわれたレクリエーション施設 このなかで楽しそうに子供が遊んでいる 大人もきれいねといって癒されている それでよいといえるだろうか 私自身も ささやかかもしれないが重大なこの破壊的行為に 自分自身のかつての そして現在まで続くあやまちをみていたのだ 我々は今 一つの極めて危うい平面のなかにいるのだ すべての世界の切り口その平面の織りなす混沌とした味を身体のなかに知っている子供を 今こそ この与えられた既成の一つの平面のなかに閉じ込めようとしてはいけないと私は思う 子供の眼はいつでも自由なのかもしれない だが時空の重なりを子供の眼がその意識のなかに発見し これをみて何かを感じながら 成長とともに大きな何かに触れながら主体的に創造していく機会を本質的に奪ってはいけないと私は思う




犬山 inuyama(20)2009

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一日の二回目の出勤 午後の出勤は強い西日を受けての運転から始まる 信号すらみえない逆光のなかでうろたえずにそのときいられるかどうかが これまでの一日の一つの基準だった 落ち葉を掃き始めてからは 自己を照らすもう一つの基準ができつつあったのだが これは一体どういうことだったのか 今日はどのように落ち葉を掃くことができたか はいているときの加減や落ち葉と落ち葉のたまり場の距離と位置がいかにあるかによって その日 私が時空のなかにどのように存在しているのかを推し量ることが可能になってきた どういうわけか元来ものとものの距離や位置に関しては相当細かい性分なのだが これがここになければならないという感覚がざわついてくると それがしっくりくるまで何度も置く位置をかえてみる さらにややもすると病的なふうになってくると 時間のあるときには落ち葉の位置が納得いくまで掃きつづけるのではないかという不安にかられてやめる 時空が変化していくのをみることはできるが どこかに頑固にもあり続ける一つの焦燥感が 固着されている 自らの動きが本質的にそこにないのだった これではどうしても何かを払拭できなかった バッハを何度もひいて確認したかったのもいかに自分が動くことができるかという方法だったという面がある 一度で決まらない日は多いのであるが 家のまえの落ち葉の状況を把握しどこから手を付けていくか どういう落ち葉をどこにためていくか 方法は無限にあるので定まらないということ そのこと自体を楽しむことができないのだった しかしほうきで落ち葉を掃く行為をいかなる視点でみていくか その視点の転換によってバッハの演奏もおそらくかわる バッハは都合が良い偉大な代物なのだ 時空の重なりということに思いを寄せていくと ある結果と次の結果さらに次の結果そうして無限に続いていく落ち葉を掃くという行為が一つのまとまった行いとして立ちあらわれてくる ある局面とある局面がどちらが先にあったのかを完全に忘れ 落ち葉の変化の局面の重なり 野球の表裏やサッカーの前半後半のような あるポイントを区切ったまとまりでもよいのだが 原因と結果ではなく 結果からみた過程でもなく 過程の具体的推移ではなく 過程そのものといったらいいのか だが将棋の駒で王様を追いつめていくような過程とはまるで違った すべてが動きつつ調和した時空の重なりのなかに 自らの気配が消えていく 自らが時空のなかに溶け込む姿をみることがある 今日は風がとても強く 家の前の竹やぶからはじめて竹の葉がかなり揺れて落ちてきた 紅色や黄色や橙色に染まった桜と混じってひとつの美しい幻想的時空が目の前にはじめにあった そのなかへ入ってそれらを掃いてためていくなかにも 次々と新しい奇麗な落ち葉が舞い落ちてくる かれこれおそらくは一時間くらいはそうして外を掃き続けていたのだが 舞い続けてくる地面の落ち葉を掃くことは心をむなしくするということをもたらすと同時に 時空のなかの相対的な自己を正確に感じ取ることをもたらす 自己が時空の隙間に入っていくということは 風と竹と桜と凸凹したコンクリートや竹箒という道具の使う感触そうした時空をつかさどっているすべての運動の一部として 私がそこにいる そうした手応えとともにある 神であるとか循環であるとか輪廻であるとか思想を学び そこから新しい概念や観念を形成したとしてもこうした手応えはやはり薄い だがこれもまた時空の重なりから生じた大いなる思想にちがいないのだ しかし実感からはじめること本当の実学とは何か臨床とは何か 何かをわかっていくということは何かがわからないとわかることにつながっている 有限と連続した無限こそが気付きの極み 落ち葉を掃いて集めたり散らしたりすることは 最も身近で時空の重なりのなかに身を入れることのできる無限の手段 そうしたとき何かを楽しむという行為が本当に可能になるのだと頭ではないこの手がわかってきた 落ち葉を掃いているときのように演奏ができないだろうか バッハはこの家の玄関の前にもいる 東京からもってきたバッハの立像モニュメント 家の前に置いていたのだが 落ち葉とバッハもまた一つの重なりをここにおいて示した 身体はそのことを知っていた 竹箒は弓 弦は落ち葉 コントラバスは土であったらよい 今も何もない時空に一枚の葉が落ちているだろう その葉こそが時空の間隙をただよう波なのだ  バッハは今日もずっと 風に舞い落ちる落ち葉をみていただろう  


今更になって何を言っているのか私は何とお粗末な都会のぼうやたることか 今や最先端といわれているものこそ最も遅れているのかもしれない 人間は幼い反抗期から脱さなければならない 人間は成熟することができるだろうか 滅亡するにしても最後は老化した人類として世界の調和とともに子孫が人間を経験することがあるだろうか その時どんな世界が生じているだろうかと夢想は膨らむばかり




犬山 inuyama(19)2009

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重なりについて書いているのだからたたみかけるように書いてみてはどうかと 今日もここに座っている 木戸敏郎氏著の「若き古代」に眼を通していた 本の最初の方 御神楽の現代的意義のなかで 時間の停止と同じ旋律の反復が 実は反復ではなく重複あるいは堆積としてあり 音の堆積は密度を高めていくこととしてあると書いてある この表現法を言い表す用語がないことはこのような表現方法を概念として把握していなかったとされている 驚いて背筋が凍る  まさに今感じていることそのものに近い指摘と言及だった 何かを発見できたうれしさを超えた感覚 この本はコントラバス奏者の齋藤徹さんのブログの紹介から昨今教えていただいたものだが 当時絵や書をみようとに躍起になっていたため 興味が及ばずに心を砕けない部分は飛ばして読んでいた それだけ当時は音楽に迷いがあった 時間のない音の空間性の重複という趣旨で 時空の間からみる時空の重なりということとは少しずれてはいるものの  飛躍すれば 数日前 私は腐葉土の手の感触のなかにほぼ御神楽をみていた といっても決して誇張しすぎにはならないだろう 身体とはおそろしい記憶の塊 記憶の重積であった そして土もまた記憶を宿している 頭では想像していてもこうしたものの実感は私のような凡人にそうは経験されないから本当に大事な感覚としていかなければいけない すべては木々が倒されたということから始まっているのだった 重積された記憶と重積された記憶の連鎖 それは時空と時空の空隙に触れることによってもたらされるのではないか ここで思い起こされたのは スペインのアルハンブラ宮殿 同様の感覚が襲ってきていた あのとき 今思えばアルハンブラは世界の堆積したくぼみのような魅惑的で詩的な場所だった どこに存在しているかはっきりしないほどの時空の密度 ガルシア・ロルカがみていたものはそのような生活空間の密度そのものだったはずだ あのときから いや ずっと以前からそうした時空間の濃度というものに魅かれ続けていたのかもしれない 写真にはそれが必ずと言っていいほど写っている フェルナンド・ペソアの世界にも不可思議な時間の堆積をみることができる ここ数年間の写真展ではそんなことはわからないでいた 生死という側面から考えるよりも時間の蓄積されたあるまとまり それらが生死を貫いている そうであれば生死という二分法も人間と自然という二分法も 貫かれた時空の重なり その堆積によって打ち砕かれるのだ 部屋に置いた竹の色の変化が生から死への転換がすぐにはされないことを如実に示しているではないか ある時空と異なる時空のあいだこそが我々の意識の世界なのではないか 身体は身体がわかってはいても理解できていないことを先取りしてやっていく そこに経験していくことが 次々と重なって密度を増す 移動してもそれは変化しながら蓄積し重なり合っていく その時間のまとまりの重なり具合 それはものすごくゆっくりとしていてみることができない この時間的感覚とは相容れないような猛烈な速度であの木々が倒された そのことへの身体的拒否反応がないはずがないのだ ここへきてやっと私が私でいられる気もちがする そしてあの木々の霊魂へ何らかの音を捧げるために 私はどこまでいけばいいのだろうか 音作りはできない もっと待て 時空の蓄積を待て 言葉と写真とともに 私が私になるために意思を強く貫け




犬山 inuyama(18)2009

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東京へ少し行ってきたが今回はなぜか大きな疲労感があった 体調不良だったせいもあるかもしれないが 昼過ぎに恵比寿の写真美術館へ行ったがまわりはビルばかりだった エイズの周辺にまつわる写真展がひらかれていた すぐに連想され何度もみたことのあるロバート・メイプルソープが今回はなかったのがよかった エルヴェ・ギベールの写真は 自己の孤独を外から見続け 自己の内部を通じて外側の光景を反転させているその感覚に 私を勝手に重ね合わせてみていた エイズの友が死んでゆく姿を淡々と捉えていた写真には はじめのうちは病の人々をどうしても撮ることができない私とは異質な感触をみたが 最後には認めてみることができた そこへもって崖から転げ落ちるバッファローの写真には心を打たれた その時空と重なるように訪れた新宿のサードディストリクトギャラリー 友人の牟田さんの写真展のなかには自らの入院中の姿を自らを自らが知らないうちにシャッターを押していたという一枚の写真 酸素マスクをつけていた どうやって撮ったのかはじめは聞くこともはばかられたが そこにいた誰かが当人に聞いてくれてはじめて知った そして眼が見えない患者がこちらに視線をむきだしている写真 そうと聞かなければわからなかった これらは衝撃的な写真だった 病院のなかで何かにせき立てられるように自らの役割その責任を果たすべく忙しくはしりまわっていたころの私が 妙な感触とともに写真にさらに重なってみえた 一体なんのためにあれだけあのとき働いていたのか 患者のためと言い切ることができるだろうか その問いにまだ答えることができない空虚感 対抗していた権力がなくなりそれが離れれば消滅してしまうような空虚なもののなかに私はいたにすぎないのだろうか 

帰りの新幹線では重なりというのはどういうことを感じているのかと思っていた 少しビールを飲んだが半分吐きそうになった 新宿でずっと昔にニューヨークでとったものの写真展を開いたとき 写真家の土田ヒロミさんと話をさせていただいたのを思い出していた それとはなしに話題に上った 何かが次々と重なってくるのを君は写真に求めているのではないか  あまり意識していなかったけれど それは今になってやっと本格的に意識にのぼってきたように感じられるが なぜこのような長い時を要したのだろう あのときは瞬間をどう生きたものとするかが自分の最大の関心事だった そしてそういうことで焦りながら生きてきた 音楽でもなかなか何かからの焦燥感から抜け出せなかったが コントラバスを続けることで何かより大きな時間のようなものをどこか保ち続けていた そしてこうした瞬間に対する一つの思い込みはこれまでずっと続いてきたのだが 何らかのずれを含みつつ動いていた いまになって写真的空間把握としてではなく 時間のまとまりという少しずれた様相においてあらわれてきた 住む空間が変化したということがおそらく大きいのだろうが それは時間概念がないという状態とも異なっていて 観念的で概念的な時間に対する物理的時間という枠がない事態 それは時空間同士を連結しているそのおそらく間にあって その地点に立つことができれば私というものもそれほどぶれないものになりうるのではないか それはおそらく実感としてより大きく広いもの 観念と情念の身体にからむ場所 そんな場所に何とはなしに私自身が近づきたいのではないか 時空間は全くもって一つではないこと 日本的な間という問題とも絡むかもしれない だがこうしたことも観念にすぎず ちょっとした契機を得たくらいで本当に実践できるものではない たとえば腐葉土の手の感触からえられようとしている直接的な実感 そうした直接的な感覚こそが根本になくてはならない この衝撃は強かった 身体に大きく働きかけた 誰もがすでに知っていたが忘れ去られたもの あるいははるか昔からあるようなものであるが追放されたようなもの そのようなものを我々はまた認識しなければならない 確かな感触とそこかしこにうまく張り巡らされた時空からの身体的退歩 それがある重層化され淀んだ密度ある時空を復権させ いまここに何かを再びもたらすならば




犬山 inuyama(17)2009

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コントラバスだけ弾いていて あとは生活の機械音のほか 大体が周りの静寂と鳥や竹やぶ あるいは家族の声といった自然の音という状況下において 解放弦の音程に対する耳の高さの感覚もときどきずれてくる もうここまでやってきたのだから自由でよい 大体ソといえばこの高さだ想像することはできるが 個々の演奏家によってコントラバスの解放弦のソといったとき その言葉に対する一音に抱いている内部感覚は違う 耳の特殊な訓練を通じた技としてそれをできうる合わせることによって開ける音の時空間よりも わずかなずれから生ずる隙間のなかに身を投じていく 同様にソとレとラとミの内部感覚は同じ楽器や同じ個人のなかにおいてもかなり異なる性質を含んでいる ガット弦を用いているとまわりの環境や時によってかなりずれてきて その都度音の高さを拾い直すのだが 音のイメージは今でもまるで固定されていないことに気づく すべての音を肯定する気持ちで弾いていくなら弾いてみるまでは何がおこるかわからない                   こうした不確定さや曖昧さのなかで 一音から始めるという基本をいつもくずさないように弾き始めるのだが 一音の深さは時間を抑制するように抗うだけではなく 時という事態に垂直な性質を含んでいるように思われてくる 我々は時間を抑制して空間から退行し さらにどこかへと行かなければならない時代に生きている 持続された音のなかに徐々に変化の妙や深さを見いだしていくやりかたと共存して 時のまとまりをあらかじめ予兆として感じ取ることで 時とは違ったベクトルに向かうことができないだろうか それは空間的重なりや時間的重なりでもなく 時空を超えてということや 存在の否定された何かから生ずる無のようなもの そこから生ずる神秘 実際そのようなことはあるのだが 空間の入り口と時間の入り口同士を結ぶ線上にどこかにあるようなある感じ                            それは実は 原初的なものごとを感覚としてまるごとつかみ取るという古い古い土壌の上にある 他ならぬ土は眠っている年月の堆積されかつ循環された過程のなかにあって その感触こそが古い土壌 土を握りしめたあの鮮烈で繊細な感触を 自分にとって絶対的とまでいえるかもしれない解放弦のあの単純にして豊富な音の土壌 解放の音で一度つかむことはできないだろうか つかみとって手放すために 土なら横にあればいつもつかむことができる 庭において雨の日には雨の土を握ってみれば余計にいい                       土を大地に返すように音を時空に放り投げたとき 何かの間隙のようなものが姿を現す 間隙から時空の重なり あるいはとなりの隙間をみることは我々の今を我々の将来からみることだろうか そんな予感がしているのに 土に親しんでいくような生活などどれほどしていなかったか 宇宙飛行士が地球に帰り畑を耕しているという心境もわかるような気もする  それだけ頭の空想が働いたといえばそうかもしれないが 失敗もあるが静かで苛烈な思いをして何かを徒然の極のように書いて そうして弾いていけば それなりの発見と予兆の到来もあるだろうかと あやうく不安定な綱の上に立ちつつもどうにか 今ここを信じながら今日もまた竹とともにある




犬山 inuyama(16)2009

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今日もまたわずかではあるが何かに積極的な身体がある この久しぶりの目覚めのような新鮮な感覚はどこから生じたのか 毎日家の前の落ち葉を竹ぼうきではいては一枚一枚の桜の落ち葉の色の変化を確かめ その微細さと多様さに驚嘆してみては 土の暖かさ腐葉土のまさにほどよい湿り気をこの手に感じ その土がなくてはならないという手の感触そのもの 言葉では言い当てることのできないある感じを 本当に久しぶりに力強い手応えとして感じているからだ 落ち葉の複雑さやこの土を握ったときの感触は身体の何かを呼び覚まし記憶と通じ合うのだが その過程で生じる途方もない言葉の空想や妄想のなかに 演奏への現実的な手がかりがあるように思えるのはどうしてか すべては間接的に身体を媒介してあらわれてくるようだ     音の次にこの音がくるというやりかた 音のいわば微分が時間を生み出して次の音が自ずからおとずれてくるというやり方 予期せぬ音に導かれるという器から離れて あるいはまた つくった音のはじめからのまとまりの姿 その積分を捉えつつ次の音を待つような作曲のやり方とも違って 音の和音でも連なりでもないように思えるが 音と音のぎりぎりの重なりそのものに時間に対するもう一つ垂直な次元が開いているように思われてきている 錯覚かどうかはっきりしないような臨場とでもよべるかのような 瞬間でもなく持続でもなく 問いが続くような音のあり方のさらに内側に入ることがどのようにできるだろうか       写真をとっているものであれば 数十分の一のなかに流れる滝と 静止しているようにみえて実は動いている木々 そしてそれらを撮って息を止めてかまえている身体の震えから 写す写されるの関係を超えた自他の同質性を 自他の区別を限りなく消滅させて観ることができるかもしれない この同質性のようなものから重なっている うまくいえないが 存在ということや いまここということとはまた違ったある入り口のあり方がないのだろうか 世界がいかにみえるかということや 世の中で生じているものごとに対する立ち位置や意識とともに歩く写真 私は世界をどう見たのか そういうことも大事だろうけれど 今の関心事は自然の重なり様その具合がいかに生じているかということかもしれない 写真もずっとああでもこうでもないと撮りあぐねている 今わかっているものや少しわかりかけているものと違うことをしてもどうかと思う       重なっている やはり不協という和音ではなく 和音ということからはなれた音の重なりのようなものどのように意識的に実現することができるのだろうか 人が自然のなかであらゆるものと重なっている その重なりそのものを象徴的に音のなかに体現していくことできるのか 偶然や必然の時間的展開 時間のアナクロニックな側面から生ずる 発見されるように経験されていく音が 人間にとってのみえなかった気づきをもたらすとするなら 音と人間の重なりのようなものから深まるものはあらゆる時間的ベクトルのうちにはないだろう それはやはり音を素材として扱うことでは全くできない そうした態度とは百八十度異なる位置にある 重なりと何度いってもしっくりこないのだが 土や落ち葉の代え難い感触からやってくるもの それはどこにあるのか        さしあたりのありふれた空想をめぐらせば いつどこを問わず あらゆるものともの ものとこと こととことのあいだ もっといえば間隙を漂っているといえばよいのだろうか 間隙から何かの重なりのようなものがみえる 夏ころからどこか思っていたような間隙に立っていること うまくいえないが 重なりとはあらゆる現実や世界が遠くなるような「私」の病 離人症と全く逆にあるあり方 私ー世界 人間世界をくつがえす あるいはそうしたくくりをなくす 自己とは無関係の強烈な手応えといってもいいのだろうか それに近いと思われるけれど 単なる身体反応でもないようだ




犬山 inuyama(15)2009

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心のなか あるいは外側のきっかけに呼応して ある思いのようなものを音の形にしていくためには 少し離れた場所から何かの動きを観ることのできる空間があればよほどいいと思い 空間を横切る微小な変化を体感するために 少しだけみえるように細い枝をした苗木 影の庭にその苗を植えて雨風に揺られる苗の枝の内側のふるえる寒さや 風になびく紅葉した葉の動きその風の呼吸とのずれを感じながら 部屋のなかで直立し少ししなっている不動の竹とともにある 倒された木の年月 竹林にさしこむ隙間の夕陽を竹は何度感じてみてきたのか こうしたような一つの観想を言葉にせずに身体のどこかに溜めておくようにあいまいに言葉に漂わせる 言葉は音楽を引き寄せるためにあるのではなく 音を言葉で制限しつつ浮かび上がらせるためにあるのではなく 外側にあるものに動かされて何かに向かう内側の意思の変化を自覚するためにありメモにすぎないのだが 言葉が私という殻の内側から外へ出ていって外の音をつれてくるように働けば 何か生産的な音の連なりや気づきが生まれるのではないだろうかと ほのかな期待をよせながら今日は気の向くまま書いている それは目新しいものでなくとも どのような道筋を通ってやってきたものであるか体現された音の形であれば開かれて 形がまた音をよんでいくだろうと想像しながら 言葉は読まれ音は読まれずに  楽器をさわる手の経験上の感触とともにどこかから聴こえてきて それらは相互に作用し合っているのだが 実際弾かれた音の耳ざわりはそれ以上の予測できない形をまた導くようにあって 形を内側から洗練させなければ形は風化して幹はくずれてしまうが 音は外側にある  洗練が音によって予期できない変貌となり 形自体が時間に溶解することによって一度忘れ去られ 離脱しては脱皮しちがう匂いにおいて反復されていく 自然を自然としてみるのではなく じねんそのものを感ずるというよりも 自然やじねんの観念からの離脱を促すように 言葉を音の変化のようにとぎれとぎれて連ねていくのも またおもしろいが 今日は合間合間思い起こすたびに ただあの倒された多数の木々が痛々しくて 怒りに身を震わせながら 罪深い人間を代表して霊をなぐさめていた といえば笑われるかもしれないが おととい拾ってきた風に倒れた竹に象徴化させ これから彼らの霊魂を音の形にしてゆかなければ 彼らも人間も浮かばれないと本気で思っているようだ 思えば 今日の書き始めはそのような思いからだった




犬山 inuyama(14)2009

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真夜中を過ぎて外は激しい雷雨
鳥たちも騒いでいる
今は人間が反省するときだ

一年間同じ道の横に見続けてきた生き生きとしていた木々たちが
開発のために目の前で次々とあっという間に根こそぎ伐採されていくのをみるのは辛い
少しは命というものを敬ってはどうだろうか
環境やら生物多様性やらいってそのうちなくなるのか
自然と人間の共生と国家間でうたってみても
ラディカルにいうなら
この世界史が記憶そして強い反省のもとに一挙に神話化されるくらいでなければ
何もかわらないのではないか
自然と人間とが共生していく 妙ないい方にきこえる
自然か人間か つまりはそういっているに過ぎないのではないか
都合の良い必要なものを選び 不都合で要らないものは単純に抜きとる
管理の仕方ひとつとっても反省すべきことはいくらでもある
世界に対して古来の自然観や多様性に恵まれたこの豊かな自然を
日本は今 真に誇ることはできない

今日は雨のなか突如思い立って
風に倒れた竹を拝借してきて
部屋の片隅の掛け軸の横
動かないように
部屋の床から天井に貫くようにたてた
青緑色をしているがだんだんと色褪せて朽ちていくと思う
節のこぶはこぶでありつづけるだろうが
風貌をともにし友としていきたい気持ちだ
そしてこの竹は今の私を照らしている鏡だ