granada(11), spain 2008

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彼方へと消え去った音、音が消え去る

記憶されねばならないのは
そこに生まれた音ではなく音の経験でもない
あった音が真に自由なることと表裏をなしている
そこに生まれなかった音たち

選ばれなかった写真のために
写真は選ばれる




granada(10), spain 2008

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精神的にも肉体的にもリミット間近
ふってかかるハプニング色々
冷静な判断力とスピード大事
ここぞというときエナジー最大限
しつこいくらいパッション注入
すべてをオープン化

帰宅して高橋悠治さんの「Yuji plays Bach」に聴き入る

火は火を燃やすことはできない
影のなかにそっと映っているものたちを
そのままそっとじっと見つめじっと聴く
得体の知れない混沌に向かって




granada(9), spain 2008

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「あらわれ」とはどのようなものごとなのか。 あらわれとは無論、みえているあらわれのことだけではない。さしあたりではあるが、「みること/みえる」ことと「聴くこと/聴いている」ことを上げてみる。みえるものごとのなかに、ものごとの変化を変化としてどのように聴くことができるか。聴いているなかに、ものごとはあらわれ、それは見えてくるか。その両者が渾然一体としている地点から、何かを感知していく態度はありえないだろうか。

「写真を聴く」ということをあまりに無邪気に書いてきてしまっていた感があるが、それは見ている感覚を通じて、聴く感覚におろしてそれを見ること、見る感覚を鍛えて見尽くすこと、あるいは同時にただただ見えていることのなかに、見ることがふと消滅していく過程にふとあらわれてくるような聴いている感覚を身体のうごめきの中に見い出し、聴く感覚によって写真を、そしてものごとを見ることである。

では、音を聴くことのなかに音を見ること、聴き尽くすこと、もしくはただただ聴いていることのなかに音が音でなくなり何かを見るというような感覚もまた可能だろうか。いわば光としての明るみの知を主軸としてきた世界を、もし大きな意味での現代における反省点として捉えるならば、光ー闇という対抗軸ではない場所、すなわち現代において「聴くこと」は必要だ。だが、一方で聴くことをことさらに強調することもまた同じことに陥ってしまう危険性を孕んでいる。

聴いて見る、見て聴く、聴くことと見ることがそもそも一体となっているような行為、聴くことと見ることが区別される以前の様態に身体を開放することは、記憶が記憶としてあることにより近い感覚だろう。両者は何も眼と耳という人として完成されたと思われている器官によって、外部の視点から隔てられて考えられとらえられすぎなくともよい。 正常に発育した器官としての完成系という捉え方、確立された器官とその連携という観点よりも、いわば発生段階でのうごめく身体の変化、そのような変化そのものが死を迎えるまで、さらにその後も持続し続けるという、視覚と聴覚が渾然一体となった「混沌」としての眼と耳のあり方に眼を開きかつ耳を傾けること、翻ってその「混沌」から「あらわれ」る世界を見て、聴くことという手法をとることはできないだろうか。抽象的なようだが、現実感覚としての「あらわれ」の感覚は、むしろそういった、ある種ほとんど脈絡を欠いた言葉を寄り添わせることによってより先鋭的となるように思える。

記憶を特権化してはならない。記憶は生死のはざまを常に漂っている。そして生と死の記憶を記憶としていくことは、(他者の)死によって(私の)生が支えられていることへと、それはさらに自他の問題へと直結し、対話を生み出し、そのことが生き方としての倫理へとつながる。そして記憶を記憶としていくことには、見ることと同時に聴くことが不可欠であり、さらには聴くことのなかに見ることを聴き、見ることのなかに聴くことを見ること、そして両者の「混沌」としての感覚から「あらわれ」を感知する身体を磨くことが現代に必要な一つの手法かもしれない。ちなみに「荘子」においては「混沌」は、眼や口や耳などの感覚器としての穴がない何かであり、混沌はそこに穴をあけたら死んでしまうような根本的で、形がなく、もやもやとしていて万物のはじまりのような位置づけである。

音を聴くことのなかに音を見ること。バッハの時空間はそのような点からもほぼ完璧にできていると感じるが、現代においてバッハの音楽をどのように弾いたとしても現代を語り得ないことが何かあると感ずる。(そのことを時代が違うという点において当たり前とする観点はまず退けられるべきだが)、それは音の響きが、常にある固着した理性を備えていることだ。理性のなかにもあまりにも豊かな詩的な響きがあるのだが、その響きは必ずその理性のなかに返還されてしまうような様相をバッハは帯びている。これを脱するための手段はないとはいえない。それはその一つの固着した様相に対し理性的であり、かつ理性的でなく弾くことだろう。裏返せば理性的でもなく理性的でなくもない演奏の方法を、その「対照軸」となるバッハの固着した理性の様相によって、まさに現代的に学ぶことができるということになる。それはバッハの音楽が現代に「あらわれ」ることに他ならないだろう。その演奏方法の実現は相当に難しいが、それは私が現代を生きているということに忠実になることから始まる以外にない。翻ってそのことを可能としているバッハとは一体何ものなのかと驚嘆する。しかしそれでもなお、現代においてバッハの音楽をどのように弾いたとしても現代を語り得ないことが何かあると感ずるのはなぜだろうか。やはり少しづつバッハを弾いていけばそれでいいということではないのだ。

ではそのバッハに語り得ないこととは何だろうか。それはバッハの理性の固着の様相が決して「揺れない」点にあるだろう(揺れようとして弾くとかえってまずいことにもなりかねない)。聴くことと見ることの「混沌」は混沌である点においてもやもやとし、形がなく揺れている。バッハには常に形があるように聴こえ、ある空間を見ることが要請されており、そのことを「対照軸」とすることによって鏡としての現代(私)があるのだった。過ぎ行く、揺れていく一つの音と一つの音をどのように思い、意思していくか、あるいは形を崩しつつもどこかに局面を見出し、さらにその音の空間を見つつ、そこからさらに揺れる音を聴きだしていくような方法をいかに創出できるか。それは、今にこだわり続けることそのこと自体によって、今を脱していくような混沌の「あらわれ」を聴き、見ることであり、作曲したものではなく、完全なる即興でもない手法のなかにあるのかもしれない。それはどのように可能なのか。

先ははるか遠い。頭の中に浮かんでくることが早すぎて文章が追いつかない、 ましてや経験も全くと言っていいほど追いついていない、今は、と言っておこう。明日はまた違うことを考えているだろうし、さっきは次々と考えが浮かんできたというのに。だが文章にしてみると、決定的なひらめきや具体的な演奏へのちっぽけなイメージが消え失せ、何か当たり前のようなことに読めてくるのが少々辛い面もあるが、書かなくては消えてしまうのだ。 このようなとき、言葉は何らかの詩を必要としている。言葉の詩の側面から得たちっぽけなイメージを今ここで演奏に役立たせよう。




granada(8), spain 2008

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記憶についてこのごろ思いを巡らせていた私は、10/17に「記憶は一つの倫理性を帯びている」と書いていた。私は大学時代に倫理学で高橋哲哉先生の講義をよく聴いていた。学生時代に読んだことがあった高橋氏の「記憶のエチカ」(岩波書店)を急に思い出し今日ひも解いてみた。この本は ホロコーストと関わりつつレヴィナスやハンナ・アーレント、京都学派などの抱える問題点を浮き彫りにし、記憶について書かれた高橋氏の初期の論文集である。スリリングかつ真摯な高橋先生の生の授業を学生時代に真剣に聴いていたのも、もう十数年前になる。「記憶はある倫理性を帯びる」とほとんど自然に書くことができたのも、この授業あってこそかもしれない。「われわれのすべての能力の中で最も危うく気まぐれな記憶」を少しでも鮮明なものとするために、改めて読んだ同書からいくつか引用しておくことにしたい。

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*もともと<記憶>や<証言>の本質には、<死者に代わって>ないし<不在の他者に代わって>という構造が属している

*たしかに生者のあいだには「希望」が残る。死(者)の記憶を保持し、死者に代わって証言しつつ、生の「希望」を育むよりほかに途はない

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ひとつもない
声たちーひとつの
晩いざわめきが、時ならぬ時、おまえの
想いにさずけられる、ここで、はじめて
呼び起こされるーひとつの
目の大きさの、深い
刻みめのある果葉、それが
脂をしたたらす、傷口は
癒えようとしない

*(パウル・ツェラン「声たち」から)




granada(7), spain 2008

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私はつまるところ大学時代から、音というものの倫理についてどこかずっと思っているのだと、今更になってわかる。

学生時代、私にとって哲学や倫理の授業で講義がおもしろかったのは、昨夜すぎてから書いた、当時は新進気鋭であった高橋先生くらいだった。高橋先生には哲学特有のおごり高ぶった匂いが全くなく、語り口がとてもよかったのだ。そして机上の空論という感じが全くしなかった。レポートは自由課題で自分をぶつけるように音の倫理性について書いた。他にも気になる人はいたけれど、よく聴けば、寄せ集めの倫理や哲学の解説、あるいはセンチメンタルかつナルシスティックな領域を超え出るものではなかった。

医学にも生きた倫理が必要だと感じていたことに間違いはない。医者がどんな職業かは何となくではあるが想像できていた。学生の頃、それを身体に具現化する役割を担うのが私にとっての音楽であったが、なかなかうまくいかなかった。写真も同じく、挫折感もあった。医学では生命倫理学というものがやっと導入され始めていたが、その倫理には本来的な生がなく、大きく捉えれば、結局は医学の内部に閉じた形式的な匂いを多分に感じていた。(医学的技術開発とその所持自体が一つの権威となり、権力集中を促して経済と結びつくその構造自体に、生死とは「どう定義され、どうあるべきか」というような外側からの概念化された屍の論理が絡んでいく契機が、内側からの生きる身体としての生死そのものが疎んじられる契機があるだろう。)

そして十年以上の時が経った今、私は何をどう為すべきなのか。その間、色々な他者から様々に影響されつつも、同じようなことについてずっと考えているのがわかる。ただ、医者になって働いていること、そして音を出そうとしていること、写真を撮って展示しようとしていること、これらは全てが通じ合って、互いが互いを照らし合いつつ影を生んでいる。

2つであれば相手の影は隠れて見えないことも多いかもしれないが、3つであることは影を間接的にみたり聴いたりすることが可能で、互いが互いの落とし穴を見張るような関係性を保つのには適しているかもしれない。医学は医学の内部からのみでは十分に捉え考えられないと同じように、音楽も写真もそのようなものとしてある。単に3つを時間をかけて深めていけば良いということではなく、そうしつつも互いが互いの見えない影を照らし出し、その影を気づかせるような役割を担うことが大事なのだ。だがどれにも通底している問題として、現代ということ、倫理ということ、生死ということが避けられないだろう。




granada(6), spain 2008

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先日亡くなられた俳優の緒方拳さん

今朝NHKの追悼番組を起きるなりやっていて、布団のなかでそのままみていた。8チャンネルのドラマ「風のガーデン」今週はみれなかったことに気づく。木曜日は何があったのかすら思い出せないほど疲れていた。それでもブログをこんなにも書いていたのかと自分に唖然とする。

今朝の番組の録画の最後に、緒方拳さんがこのようなことを言っておられた。
ほどよい疲れの残る身体にしみじみとして、その言葉とインタビューに答える表情とが入ってきた。

演技することは演技しないことにつながってくるのですよね
最後は「思い」だけなんです
「あいつはほんとうに下手だねー」といわれることが最大の賛辞なんですね

人の「思い」ということにすべてがあるように聴こえた。私はそのことを昨今「意思」と捉えているのかもしれない。けれど私のその意思はこの年になってまだ始まったばかり、ごつくて固いものにすぎないのだろう。緒方拳さんが最後にやっておられたという一人舞台は(今日の録画をみたにすぎないけれど)、ほんとうに底の深いやわらかいものを感じた。




granada(5), spain 2008

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ただあらわれるということ
空しい心に

気と記憶への意思すらもつことなく、とも断ずることもできずに、ただやればよいのでもなく、あらわれる何ものかをひたすら大事に

あらわれる自然が、あることを感ずるため、自然を身体が知るために

心を空しくするためではなく、心が空しくなることに導かれるための場を心にかけて

だが身体の功利主義という身のまわりの現実の空虚さに浸されつつ、心と身体に対する経済的な、効率的なあり方に対処するために、私が私であることを決してやめることがもはやできないことをも同時に覚悟しなければならない

なぜなら私は今まさにそうした現実と日常のなかに生きているからであり、どっぷりとそれに浸かって心と身体が動いているからである

それはある意味において無垢であり、ある意味において無垢から遠くかけ離れた、一つの社会的現実に著しく制御された心と身体なのであるが、その両刃の身体を身体そのままに、引き受けることから始めるのが、この期に及んでもやはり一つの方法と思う

意思とは意志によって何かを特別に志向することではなく、身体の思考に押し出されてただ心に思うこと、思考することもまた身体の一部に過ぎないとしつつ、思考の過程をそのまま身体の知におろすこと

心を空しくする特別な技術があるわけでもなく、ある心理的な技術によって心が空しくなるわけでもなく、それはある道としてあるだけだ

今の現実がある種の虚構的な空虚の上にあるとたとえ断ずるとしても、私の個という一つの外部から私自身を俯瞰しないために、今の身体を引き受けることは不可欠なのであり、それは言い方をかえれば、今を生きる責務だ

きわどくバランスを保っている身体を引き受けることのなかに、何かがあらわれてくるかもしれない
そのあらわれを聴くことができるかどうかが、今年の個展の意味かもしれない
昨年は総じて、聴こうとすることにやはり終始していたのかもしれない
聴こうとすることではなく、聴くことそのものが新たに課せられている

何かしらのきわどい均衡のなかに音と写真を聴くこと、たとえば即興か作曲かということでもなく、音に対して一歩づつ深くなるための、身体の道と過程をそのまま踏むことである

こんな手始めのようなことでよいのだろうかと思いながらも、その微かな過程そのものが「明」であると信じ、音の糸口は脈絡のないような脈絡において意思していくことのなかにふと生まれて、糸が音となっていく過程を、そして日常の問いそのもの、問いに対する回答ではなく問いが発せられる速度の変化と過程を、大事にすることから、最初からまた始めよう

休息をできうるかぎり大事にして、残された日常を何よりも生きることだ


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追記

日常の私を疑うということは常に必要だ。まして個展の前だからそういうことは不可欠である。まだ一ヶ月前だから、あるいは一ヶ月前というのに漠然としている何かが大いにある。個展にあたって、あって当然ともいうべき技術が追いつかないという面もあるが、それ以前の根本的問題がある。雑多に忙殺されざるをえない毎日ではあるが、弦を一年半ぶりにかえたことが個展に向けて考える契機となった。それは個展にむけて、どこかに渦巻いていて最終的にたどり着かないような何かを、身体が感じ取るための契機だった。たどり着く目的地を求めるのではなく、その契機のなかに根本的な問いが眠っている。

ブログは、その日に即して何かを考えるための訓練の場としてあるが、結果を第一義的に求めない点が良いし、時折は恥を忍びつつもどうにか、とにかく実直に書き連ねてきている。個展もそのようなものとしてありたい。ポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアがブログを知っていたらどう使うだろうか、滑稽で使わないのだろうかと時々想像してみる。会場に、今の私には過分かもしれないが、何かしらのペソアの詩を添えたいと思う。私と私のまわりにある現在のために。

昨日ガレリアQにおもむき、今回の個展のダイレクトメール作成を牟田さんから紹介いただいた佐原さんにお願いした。佐原さんは十分な時間をかけて写真をみてくださって、久々にこれほど自分の撮った写真をみてくれた方がいたということに心を動かされた(無論どの方にもそうしていらっしゃるのだろう)。終電ぎりぎりまで中身のある話をして楽しかった。昨年もそうだったが、こういう場は私にとって本当にうれしく大事な場である。

スリリングであるはずの写真という場が、なぜどこかしら軽薄なものになってきてしまっているのか。写真という一枚の紙の向こう側にみえるものまでをも、みようとするのもまた大事ではないか。そこには撮影者と世界との関わりと対話が必ずある。撮影者とは何ものなのか、何ものでもないのか、世界はその撮影者に対してどのようなものごととしてあらわれてくるのか。その対話のなかにやっと、写真は写真であることができる。




granada(4), spain 2008

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日常のマンネリ化は知らず知らずやってくる
マンネリ化した日常は、淡々と日々を送る日常や、一定のリズムある日常とはまた異なるところにある

弦を張り替える
弓と松脂を色々試す
音は変化し
弓をもつ手の感触と耳の肌触りは揺れては落ち着く

これだけで日常のマンネリ化がいかなるものか感じ取ることができる
楽器を大事にすること、そして音を大事にすることだ




granada(3), spain 2008

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観光地として名高いアルハンブラ宮殿には、いわば記憶の水路が巡らされているように感じられた。それは気の漂流とも似ている。気は科学的物質とは完全に無関係に働く充溢と拡散の運動である。気を免疫機構や細胞のアポトーシスをあげてその運動を比喩しうるかもしれない。だがそれは気の実態ではないだろう。

記憶は体内に固着しつつも底辺で静かに変化し続ける時間であり、気と記憶は異なるレベルを有しているように思われるが、両者は死によって生がもたらされるという揺るぎない事実から成立し、両者は心と身体に宿って次なるもの他なるものへと繋がってゆく。

現代においては、気や記憶もまた一つの消費として扱われる。気は科学的分析を施されその実体のなさを冷笑されることすらある。そして記憶は形骸化されヴァーチャルに消費される。

アルハンブラの滞在は、ヴァーチャルではない記憶そのものの実体が滲み出た時空間を心と身体にしみ込ませる夢の経験としてあった。記憶の持続と変化がそこにあった。 このとてつもなく多くの観光客が訪れるアルハンブラで、現代にはある確固とした意思が求められているのだと感じる。 気と記憶の実体を感じ増幅した欲望との均衡をたもつために、正常と異常を分けずにはいられず、みなが正常であろうと思わなくては生きれないような正常の強迫観念という空虚な現実に、実体のある気の通り道を通すための一つの風穴をあけるための意思。死を死として位置づけ、みつめることを恐れないための、記憶を風化させないための意思。

悪しきシステムのなかにどっぷりとつかってはいても、気は充溢と拡散を止めず、記憶は蓄積される。この空虚な現実につかりながらも、そうした気と記憶を身体と心のなかに宿し、意思をもってその均衡をたもつつべく医に向き合わなければならない。それは、 西欧の方法を単に否定することではなく、西欧的な概念として身体を捉える分類に従って、正常と異常を区別するあり方の負の面を意識した上で、死そのものに対する身体と心の感受性をもう一度養うこと、そして気と記憶への意思を医学に正当に持ち込むことである。




granada(2), spain 2008

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記憶は深い時の眠りだ

記憶は意識でもなく無意識でもなく両者より奥にあって
記憶は音でもなく写真でもなく両者より前後にあるが
記憶は意識と無意識そして音と写真に寄り添うようにある

記憶はイメージでもなく夢でもなく両者より時間的で
記憶は海馬でもなくヒトでもなく両者より非生物的であるが
記憶は生物時間に寄り添うようにある

身体に依拠した記憶があって心に依拠した記憶がある
記憶に依拠した心と身体があって記憶は心と身体の臍の緒となる

記憶は命そのものでもなく死そのものでもなく
記憶は
存在から非存在への
非存在から存在への
架け橋である
記憶は存在と非存在のあいだに溜まった
時間の眠りからやってくる
記憶は非存在からの音と光景のない呼び声である

記憶そのものは音や写真によってあらわすことはできない
記憶はじっとしてあるが記憶を何かであらわそうとしたとき既にそれは記憶ではない
音そのものは音の記憶とは異なるが
記憶そのものは音であらわすことができない
音の記憶によって次の音が導かれるのではなく
記憶そのもののうごめきのなかに音なき呼び声を感じる
その結晶が音と化すのだ
だがその音はもはや記憶そのものではなく
その音を音として聴くことが
記憶への愛となる
記憶を探るように表現するのではなく
記憶に寄り添うイメージないし記憶の夢を音とし写真とするのではなく
記憶の眠りそのものの結晶が音となり写真となる
記憶の結晶はいわば記憶なき記憶からしか真にうまれ得ないのだ

記憶は意思によって愛がそれに介在するような
一つの倫理性を帯びている
身体とはどこか違う場所からやってくるようで
心とはどこか違う場所からやってくるようだが
記憶の呼び声の木霊を心と身体のなかに感じることだけが
許されているように
記憶はある
記憶はそのような場所で
連鎖し点滅し消滅してはまた眠りから醒め
微かに異なる様態を帯びてあらわれる

記憶は哀しみ喜びを死へと誘い
心と身体を微かにゆるがし
死から次なる命が宿るその場所で
別なる心と身体へと受け継がれる
時の眠り




granada, spain 2008

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記憶は埋もれている

停止した時間のなかに動く
ミトコンドリアの詩

死によって受け継がれる命
身体の海底で眠る命

記憶の眠りを
呼び起こすでもなく
待つでもなく

記憶はやってくる
記憶は命と死の愛




málaga(6), spain 2008

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当直帰宅後に写真を延々とやっていて頭も回転していないけれど、 写真プリントの合間の一息に書き出してみる。ひとまず明日までに一通り個展用のプリントを終えようという目標をたてている。そうしないとできても一年に一度の自分にとって大事な発表の場の時間が、薄まってしまうのが嫌なのだろう。私の場合、期間中とかその直前に何が起こるかわからないこともあって、今くらいがちょうどいい。あんまり前にやっても集中しにくいし直前にあわててもよくない。文字通り忙しいけれど、環境はこれ以上ないだろう。ありがたい。

そして同時に、自分が大事と思うものを自分のやり方で自分の頭を使って、そして何よりよき他者の知恵と助けを借りて貫いてきた、そうしてきた自分にこそまず誇りを持たなくてはならない。そうした他者の知恵の言葉は、一体誰のどのような言葉だったか、思い起こしてみれば、私の場合、あまり目立たない人たち、たとえ社会的に上にいようがいまいが、影で何かを支えているような方々の言葉だ。私が生きる道を失っているとき、私を信じて本気で心配してくれていた人たち、私にそうではいけない、そうではない、それでいいとささやくように語りかけてくれた人たち(言葉を持たない他者も)、そういう方々の親身の言葉たちに私は支えられて生きている。これからもそうだろう。そうだから、たとえどんなことが起こったとしても、少なくとも自分自身の納得しうる最低限のことを始まりそして終わるまで精一杯しないといけない。

たまたまここに生まれた、たまたま生まれたからこそ無限の生の重みを持っているはずの自分が生きてきたこと自体が、よくよくしてみれば奇跡なのだ。人はそれぞれ誕生し、死んでいくまでにその人の生としか言いようのない時を生きる。 字面の感傷に甘んじるのではあまりにも茶番劇なのだろうが、人生という劇場の裏側にあって、それを支えている根底的な生そのものの哀愁、そういう思いをこの機会を通じて十分にかみしめることの方が断然、私の真実に近い。 人生劇場が下手をすれば茶番劇となり、上手くすればその劇場に花を添えることもあるのかもしれないような、いわゆる「作品」の善し悪し、他者の評価めいたものを得るか得ないかということよりも。

写真のために、音のために、その真実に再び分け入っていこうという思いで、今こうしている。




málaga(5), spain 2008

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途方もない毎日が続く

あまりに美しい光景
グラナダへの道は
まだ遠い

つもりつもった時間の蓄積
記憶を腹にためていく
そのような時間を大切にして
消化は違う身体で自然にする
といいたいところだが
身体は一つ

今週日本人ノーベル賞受賞で世間はにわかに騒がしかった
どなたかがインタビューに答えていた
文化としての科学を大切に
という言葉が印象にのこる

一つの権威をもって
近くにいる誰かに
遠くにいるかもしれない誰かに
のしかかるような重たい空気を
血の通わない冷酷な荷を
背負わすことのないように

聴く耳をもつことのできない
自己を顧みることのできない
腐食された権威をやりすごしつつ
通り一遍の成果主義から身を守り
通り一遍の能力主義に抗して
利己的遺伝子にまるごと支配されず
惰性に陥ることなく
他人の夢を我がものとせずに

生きなければならない技術をなくすための
生きるための技術を切磋琢磨すること

投げ出さずに闘い続けること




málaga(4), spain 2008

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バッハを繰り返し練習していてメモと反省。身体を労ることを怠らない程度に。まずは楽器を弾くこと。そうでなければ何も始まらない。

楽器を弾いてうまくいかなかいときにこそ、次なる段階が待っている。それは突然開けるから、何がどうあれすぐにあきらめない忍耐力は必要かもしれない。下手でも良いということではいけないが、うまく弾こうと思わなくともよい。いやうまく弾こうとすることのなかに大きな落とし穴があるといっても過言ではない。それでうまく弾けるようになったと思い込むくらいなら、下手であっても私が生きている内実をともなう方がよい。

音と音の真のつながりは音を聴くことのなかに生まれ、それは身体へと直結していく。そう書いてしまえば単純なことのようだけれど、大事なことを含んでいる。

音を流してはいけない。流している音のなかには自分の無意識があるのは確かだが、無意識を意識化するレベル、これはまだまだ浅いレベルなのだ。それに固執してしまうことも全く違う。

そんなレベルもやりすごしてまず音を流さないこと。流さないことのなかに(私の)問題点が浮き彫りにされる。それは楽器を弾く身体技術の問題点なのであって、意識無意識の問題ではない。できないことは閉じ込められやすい。できないこと、不可能なことを開放してやる技術が必要なのだ。それは「知の技法」ではなく、いわば「身体の技法」だ。




málaga(3), spain 2008

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写真はピカソ美術館の裏手にある大きな無花果の木
静かに佇んでいる

バックとカメラを預けてなかに入る
いい中庭

部屋に入ると
絵がそのまま額のなかにある
額縁はマットで縁取られていない
絵の周りの空間は
場をなしている

そして食い入るようにみる
ひいてみて眺める
みるみるみる
時間を最後まで惜しむように

そうしてもう一度
生まれたての筆づかい
ピカソがたった今書いたように
そこに絵がある
完結しない動き
あまりにも見事で感極まる

とくにひきつけられるのはデッサン
その筆に感じられる動きは
遠く深くあまりに人間的なために
完成されている状態その全貌をみることができない
細部のなかに
きっとさっと描いたに違いないその筆を感じ
一筆の数センチのなかに
さらに書き出しの
数ミリ単位の筆の
厚みと変化に感じ入るのだ
その筆と紙の接触のなかに
私の身体が入る
それはそう、


誕生

  色彩の
  形の
  物質の

  「アル」の

  音の


その筆は一気に円を描きモチーフを形作る
そこへいくあいだ
一人の人間の全存在が連なり
それはピカソの全身全霊を担った動き
意思と苦悩と
何時も何時も
生まれたての身体

創造と持続

昨日横浜美術館でみた源氏物語展
桃山時代の書の
筆圧と形のあまりの微細さと繊細さ
無論ピカソと同じではないが
両者を突き動かしているのは何か

人間であること

代表的な研究本は何冊か読んだことがあった
しかし私はピカソを知らなかったのだ
これまで何度もピカソの絵をみたが
本当には知らなかった
ということは
本当に感じてみていなかったのだった

今私はマラガの大気と光に囲まれている
ピカソの生誕地マラガ
歴史を背負った大気
生活の周りにある大気

ピカソはおそらく
他者を含み込んだピカソの生の現実すべてから学び
すべてをその絵に結晶し
ピカソを変化させてピカソを常に創造した

マラガ
他のどの地でみるよりもピカソの絵に惹き付けられるのは
多分あのピカソもまた一人の人間であったからだろう
ピカソの創造は文字通り
計り知れない

私はこの美術館で本当に幸福なときを過ごした





málaga(2), spain 2008

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夕方、初めて看護専門学校で講義をした。 必死に作成したスライド100枚を解説し、ひとまず役割を私は果たしたかどうか。講義の基本的知識に将来の実践がどこかで結びつくような、頭の片隅の片隅、記憶の端っこの末端にずうっとこびりつくような講義を心がけたけれど、私にとってはすぐに90分終了してしまった。学生さんたちには長かったかもしれない。再び記憶とはどのように形成されるのかと想う。学生さんたちは、熱意があっていい顔をしていて少し控えめ、そのような感じのよい方々が多い。なかには社会人を経て再度入学された方も多いと聞く。真剣なまなざしを数人から感じながらしゃべることは、自分によい緊張感を生む新鮮な経験で、我が初心を思い起こさせてくれた。

夜は看護師さんたちと勉強会をした。話しあって問題を共有し解決していくことが社会的実践においては求められている。 ほんの小さな勉強会も大きな意味と原動力を予備している。 医療には刻々と変化する現実に対応し、不確実な未来を予見予聴し、変化に身を投じ判断していくまさに「即興的」態度が求められている。さらに複数の人々が関わっているから、このような場には、人としてコミュニケーションをどのようにとるのか、それぞれの個人の信念と信念に裏打ちされた謙虚さ、他を想像し敬う心が大切であることは言うまでもない。 人間関係のあらゆるあり方を感じつつ模索することのなかに、自分に固執しつつも自分に固執せずにそこに身をおくことのなかに、 それぞれが中心でありながら中心がないような生きた運動の場を作っていくことが必要と思う。

私にとっての音楽や写真の実践は、一つには、社会的実践においてこのような場の形成を促す予備力としてあるだろう。 小さな勉強会もまたそのような場としてあるべきであるし知識の確認とはいえ、それは知り理解することのなかに一つの運動をもちこむことだ。それは人と人が対話することのなかの具体的身体であり、一人で本で頭に知識を貯える行為とはまた違う意味がある。