出雲崎 izumozaki (17)2010

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ヤマトシジミの銀青色の
幻想のはばたきが
現実を掠めとり
霧もやが晴れかかった
澄んだ空気を裂いて
一筋の弧を描く流体のように
ゼフィルス
西風の蝶のように
よろめきながら舞い上がっていった
その新鮮で無垢な驚きから
音をだした
旋律のように一時なったが旋律にしばられない
音が旋律を目的とせず
そういう音の動きであるとき
瞬時のひらめきと
場すらが設定されない偶然の動きの中で
いま生まれるとき
再現のきかない
だが即興だけでもない
無垢のまま ー無垢に使役することはできないー無垢は無垢のままに無垢たれ
時間の影にしたがって
時は不意にあらわれて
音は終わる
定着された音の記憶は
まるで写真のように
静止していた

ゴマダラカミキリは
顔を動かさず眼をとめたまま
時空を飛行する
自主的で礼節があり
微妙で活発な飛行の軌跡は
何も寄せ付けず個の飛行である
開かれた音の魂は
生体にとってのぶれない顔をもち
空間を浮遊し
木にとまり羽を休める
悪党のようにごつい装飾をした肢体のカミキリもそうして
遊ぶ目的のない遊びを
自発的に象っている
この偶然の目撃のなかに
写真の時間と音の時間の混在
その対話を見いだすとき
どの空間もどの時間も
切ってみればおのおのが個別でありながら
個別であることによって世界が繋がっていることが
いまここに示されるのを
ふたたび知る

微明の時空のなかの自発的旋律
音の写真的旋律は
チョウやカミキリムシの行動のごとく
まったく派手ではなく
ひっそりと埋まっているがゆえの
瞬時の輝きを放っている
生体の機械的運動における
肉体のずれの妙技に支えられて
ビオラダガンバのしばらく放置された鉄線の共鳴弦の不均等な残響にも似て
楽器という高度で複雑な肉体的機械の内側から
自発的に今日の世界を指し示す

ガンバの共鳴弦にたよらず
自らの肉体からそうした音を出すための
肉体の技術的訓練と修行がいる
もうずっと前からそのことだけをやろうとして
そういう時間がずっと自覚的にも無自覚的にもすぎていった
そうやっていずれ自分も死んでいくだろう
だがそういうことに死ぬまで魅せられているだろう
私という何らかの生体の軸の
決して決まらない変相と変奏によって
私は今日ここに生きて
いまここに生き返っている




出雲崎 izumozaki (16)2010

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連休に車で東京に帰った
高速道路もそうだが首都高からみえる巨大ビル群が
今回もまたほんとうに異様に映る
都会もさらに退廃しているようにみえた
何かがすごいスピードでうすまってしまっている気配だ
だが東京のいいところは飲屋街と路地のざわめきのなかにまだあって
さがせば人間の濃い感覚がのこっているようにも感じるが
いい店はどんどん潰れているようだ

戦後は金がもはや権力をこえて宗教と化して
国というものと一体化し
怪奇な教条のようなものによって
人間の自発性がいまだに覆われているように思える
これほど大きな天災がおこって
これほど大きな原発事故がおこっても
妄信から目覚めない
いん石の一つでも都会に落ちてこなければ
本当には目覚めないのだろうか
それもSFやたとえ話ではすまない現実の話だという

東京では久々に旧友との再会
音楽やら写真やら雑多に話してとても楽しかった
機械にも魂が宿る
旧友がそういっていたのが耳の奥にいまも残る




出雲崎 izumozaki (15)2010

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色の変化する緑の木々と流れのとまらない川に囲まれて、幸せな生活をいましているとおもう。すぐ近くの小さい釣り店ではカブトムシとクワガタが売っている。

そんななか、ユベルマンのアンジェリコのまえに、アウシュビッツのイメージ論を少しずつ読むことになった。手に取って読み始めてしまったからどうしようもない。読みたくない心理に反するように、どんどん眼が字をおっていく現実がある。 和訳は読むのが難しいが、引き込まれる。そして夜には何かしらの悪夢のようなものをみる。朝は多少辛い感じもあるけれど、それでも、読んだ先がその日の某かの未来の出来事のなかにあるような不思議な感じにおちいる。仕事にもなぜか身体の底から粘りのような力がわいて出る。

「イメージとはもはやいうまでもなく希望の別名にほかならない」とする田中純(この人に大学でドイツ語を教わっていたことがあって懐かしかった)の本の帯の解説も、いつになく読みやすいし自分にもよくわかる。ユベルマンは無論、精密で大胆な大思索家だが、着想と結論への方向性は自分の求めているものと似ているという感じもしている。

論理は前提と結論の穴埋めをする方向を担うだけで、常に言葉の渦巻く人間の混沌があらゆる文章を支えている。ユベルマンもまた同じく文にすさまじい力がある。フーコーの「臨床医学の誕生」あの精読を課される論理の明晰の極みのようなすばらしい営為とは別な形、音のまえで広がるイメージ、その想像の力と似た形で論理が展開され、ひきずられて読むような感じがある。

こうして本を読んでいるその身体で、腕の痛みがだいぶとれてきたが、痛いときは左手で弓をもってひいたりした。楽器はもう、一音だけ弓を擦って弾いていればいいという感じがする。弓を二本もって弦をはじくように弾くのもおもしろい。間と音色だけ。楽器と弓と自分の腕にのっかる身体。

手がうまくつかえなくて、足に意識がいったために、荘子に書いてあるように床に着く足の着地のあり方が演奏に大事だともわかってきた。間というのも音と音のあいだということではなく息の流れの間合いに近くなった気もする。まわりの静けさと自然の変化があるからこそ、こういうことができるのであるとわかる。ジャコメッティが立体が面に、面が線に、線が点に、彼の行為の方法と重なるようにも思う。

この弾き方やり方だけは、自分にとってもう変わらない基本的な態度かもしれないとわかりつつあるし、こういうことは、ーアウシュビッツからもぎ取られた4枚の写真ーそのイメージの行方ー そういった重い話題を考えていてさえも、無理なく臆することなく弾くことができる。ほとんど可能性のないほどの絶対的な絶望的な淵、それも外部を契機とした淵において、場が生まれ変わるための行為。

自分が何かの音楽をやりたいという感じがどんどんうすれている。音を通じて私になりたいのか、音を通じて他になりたいのか、そのあいだで、聞こえない音が聴こえてくる、そういう音がどこからかもれて聞こえる音となって変化している、それによって別な何かが聴こえる。

無意味な音のもたらす意味作用ともいえるその繰り返しと差異が微明のなかにあるだけ。その音がある言葉の感触を導くように音が言葉につながる通路の中をうろうろ動いているだけ。それでも、それだけでいいという確信が私の内部にいまある。その行為はあらかじめ目的のない意味を生む可能性があり、そのためにこの一見何にもならない、どうしようもない行為があるからだ。

音を弾く行為が、あらかじめみえない可能性に常に身体をかける行為であること。たとえ可能性の実体が未来においてみえないものであっても。写真がその痕跡であるために、世界のなかでそのときそこに立つこと。

分析的態度、学問の態度と大きく違うのはそこだろうか。 社会からあらかじめ隔離されているような場所の無意味な音が、人間を支える音となり、それが人間の社会を一つ一つ動かすことにつながるかもしれないものと思う。写真の一枚の痕跡、その生きた力は、写真家がそのときそこにいた、だが写真には写されていない写真家の死をかけた身体、楠本亜紀がブレッソン論で書いたような「不在の一点」のうちにあるのだろうと思う。

こういう行為は何の商品価値をもともと求めたものではありえないし、今のように生き方が多様で情報にあふれすぎた時代、教祖のように唱えふるまうこともあまりにも荒唐無稽だが、創造とまではいかないにしても、消費や布教とは異なる行為、生のエネルギーから生きる為の何かを産出する一個人の行為であるにちがいない。仕事ー趣味ということとも全く違う。

医者という臨床の行為もまた同じくあるべきであり、社会的行為としてみればいろいろ難しい面があるが、本来的には臨床の場におけるふるまいもそういう何だかわからない領域の、「生の可能性にかける」ような、突き動かされる何ものかによって支えられなければならない。それは決して感情ということだけではない。医学的知識もそうしたふるまいのなかではじめて本当の価値が生じるものだろうと、思いを新たにしている。

地震後も、こういう自分自身の世界への態度は変わらないようにみえるのだが、それがより自分にとって大事な、ゆるぎのない視点として深まっているのではないかと感じられるのは、せめてもの救いであり、自分にとっての希望でありうるかもしれない。行為することへのぼやけていた霧も晴れてきたようにおもうし、甚大な量の放射線物質漏れという受け入れがたい物質的世界の変化もあるが、自然と人間のトータルな世界のあり方と価値の場所が明らかに変化した。

最後にそんな変化を直視できない政治のレベルは低くなる一方だし、少なくとも一部の政治家の人間性は確実に、あまりにも恐ろしいほど低く、政治の怠慢もいち早くやめてほしい、そうした政治家を選んで結果的に野放しに容認してきた責任もあるが、それ以上に想像を絶するほどの非人道さをもって国民を裏切り続ける犯罪的ともいえる政治的陰謀と政治的怠慢、こんな悲惨なことが目の前でおこっているのに、一体なぜなのか、これまででもかという大企業との癒着、視野の狭すぎる経済偏重主義はいったい何なのか、政治は裏切られるもの、政治に期待しないといっても、このむなしさをむなしさのままにしてもいられない、こうした政治というものがなぜこのままに許されてきたのか、問い続けるべきだ。こうしたことを考えだすと、医療も、あるいはいろんな分野の構造もまた似ているのに気づく。つまりは足もとからすべてを見直す契機とするべきだ。




出雲崎 izumozaki (14)2010

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保育園の七夕の願いごとが風に吹かれてゆれていた
健やかに育ちますように
楽しい2歳が過ごせますように
子供たちがみんな元気で暮らせる世の中になりますように
きれいな海と大地がもどりますように
苦難が知らず知らずふりかかってきても
子供はそれぞれすべてを正確に感じながら
素晴らしい夢
みえない世界のなかを
生き生きと生きている

たとえばそんなふうにいつもいつも
心底おもっていられるような身体になって
知っているようで知らないような隣人に
いつもいつも接していられるだろうか
そのためには
そのつどそのつど
ことの始まりにかえって
ごく普通で豊かな自然の態度で
少しでも時をわかつ感じをもって
話をする、しない
その人といたという感触が
わずかでもその場にのこるように
繰り返し繰り返し
ある振幅のなかの
だが変化に富んだ
身体の受けこなしを
もらい与えながら
続けられるかどうか
そうやって日々を生きているのだけれど
繰り返し繰り返してもあるとき
出会うことのできた一千人のなかの
たった一人との出会いが
続けて育ててきた何かとの別れ
一人との出会いが
すべてをはじめからやり直させる
それでもそうやって
その次の見知らぬ隣人と
深く接することができる
そしてまた一千人と出会い
また一人といつか出会う
そうして継続して育て上げられるような
決してみえないものが
いったいどんなものか
私には想像できないでいる

こうして書いているだけでは何も形に残らないのだが
毎日たくさん書いているカルテは記録であり臨床の場そのものではない
だが書いたものの見返しによって肌の症状の記憶の肌理が蘇生する
その繰り返しまた繰り返し
決して聴こえない音楽がそのとき、ある音楽を導き
決して撮られない写真がそこで、ある写真を導く
そういう感触、記憶の肌理の出来事について
最近はずっと思っているようだ
クレーはその決してみえないものをみえるようにすることを重んじたという
彼の作品はすべて過程のなかにあるということだ




出雲崎 izumozaki (13)2010

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ディディ=ユベルマンがフラ・アンジェリコについて論じていると思われる「神秘神学と絵画表現」という絶版本を注文する決心をして読もうと思っている。毎日たいへんたくさんで、集中できる時間も余裕もないのだが、楽しみである。

「アウラ・ヒステリカ」やジャコメッティも論じているユベルマンが、フラ・アンジェリコについて書いていて、さらにその翻訳があるとは知らず、ちょっと驚いてわくわくしながらいる。これにともなってベンヤミンもまた読まなくてはいけないだろうと思われる。

イメージということについて何となく思っていたのも、フラ・アンジェリコが何となくそうさせたような気がするし、アンジェリコに思いが至ったのは、この腕の痛みのためである(一時間かけて通っている歯科でも手術をうけたばかりだった)。

ユベルマンは「イメージ、それでもなお」を著している。これはすでに家にあるのだが、話題が重く気が進まずまだ読んでいなかった。震災をうけ、我が国の政治への忸怩たる思いと、自らの社会責任ということを重ねて読まなくてはいけないだろう。この心の動きは、自分にまつわるここのところの事象が連関された当然の成り行きといってもよいのかもしれない。

しばらくまずはアンジェリコを通じて、これを契機にユベルマンの翻訳されたものもできれば読んでみたい。ちょうどフォトグラファーズ・ギャラリーの雑誌の今回のものが彼の特集のような形になっているようで、ユベルマン自身の著作の翻訳ものっているようなのでこれも一読してみたいのだが、すべて、徐々に徐々に読んでいくしかない。