別府 beppu(8)2009

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間近でみる浮世絵の色の深さに魅せられ伊藤若冲の筆跡と墨の濃淡にいたっては心打たれるあまり
何も手が付けられなくなるしちょっとした自然光ですらいかに豊かであるかを絵が知らしめてくれる
そのような光はやはりそのままありがたく感受するのがよい
自然と太宰府でやっていたチベット美術の見事な仏像の数々の姿が思い起こされる
チベット美術において伝統はやってくる未来であった
国芳や芳年も江戸後期という時代と真摯に戯れ格闘している
死んでも死にきれない想像力が言葉の光となっていまここに次々降ってくる
浮き彫られる影

此岸と彼岸は存在形式が異なる現実の二つの形である
秋、川の土手にさく彼岸花はそれを一つの統一された現実の姿として知らしめてくれた
禅においては山が山である地点から山が山でない地点へと向かい非常に興味深いことにそこでは終わらず
言葉の力動そのものによって言葉の文節がほどけた形で山が山であるという次元へとさらに戻ってくる
山はそうした過程を経て混沌のなか再び山として観られる
そうした場所が写真のなかに垣間みえるとき写真もまた言葉を通過しているだろう
音もそうした過程を長い時間をかけて経ているように思える
節目節目は切実な転換点でありつつも虚ろな結実点にすぎない
そして行く先は全くわからない

もう一つ最近身近で強く感じて気になっていることは
律動はつめられた間でありこの点においても無音が大事になるということくらいだろうか
木曽川の冬
木々の葉は枯れている
春の芽を待つ言葉をときどき連ね連ね




別府 beppu(7)2009

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新年を迎えて伊勢神宮に初めてお参りしたりしてはや二週間余り

偶然のことだったが今日生まれて初めて琵琶の弾奏を聴いた
たまたま聴き手は家族三人だけで六畳の畳部屋
千利休が切腹させられた日の憂いや怖れなき心を詠んだ自作のうたと即興を二十分ほど
七ヶ月になる子はたたかれた音の迫力に終始身をたじろぐようにし今にも泣き出しそうだったが
泣くことはできない場と小さい身体が察したのか奏者が泣かせなかったのか最後まで泣かずにいた
私はじっと聴いていたが私の呼吸にあわせて奏でていたとおっしゃっていた
こういうものは本来琵琶奏者というような職業という意識でやられているのではないのだろう
ご本人も土木関係のお仕事とおっしゃる
代々琵琶をひきついできたということ
音のはじかれる質感と微妙な変化とリズム
それらがうたを支える音の流れの基本となっているようだったがとにもかくにも凄まじい音
一つの手本のように思えた

自作のものを少しずつ作りたいという気持ちが強まる
題材から詩からすべてこの小さい身体を通してくるものがよい
だがそれだけのものがあるのか
もうなにもないところからもなにかがあるのかないのか
そうした瀬戸際に立たなければいずれにせよなにもないだろう
こういうことには単に人前で奏でるということよりも
生きるためのもっと大事なものが含まれている
今日の琵琶の方も一曲作るのに歴史から掘り起こして三年とおっしゃった
そして利休の墓前へ参って奏でてのち京都のお寺の許可のようなものをうけてここに弾くにいたっており
ごく小さな場所で人前で弾くのは今という時代にただ何か大事なものを伝えたい気持ちだけだという

こうしたあり方と一対をなすようにバッハはやはり日常の自己の鏡となる
そのことがバッハを弾いていくうえで私にとって大事なのだと思う
コントラバスのなかにはどちらもが対にそこにある
補完の関係でもなくどちらかがどちらかを超えたり
どちらか一方が身をひいたりせずにいるし主張のしあいでもない
自己分裂せずにあるがままそこにある音の姿楽器の姿がそう感じられる
そもそもの音が重い楽器だからだろうか
今日の琵琶も音の高低というよりも
音そのものの質にあらわれる低い重心がうたを支えていた

そうしたことを思っているとますます
この音はこうでなくてはならないとすることが困難なものとして映ってくる
ますます後退するばかりなのだがその果てにあるものが最も切実なものだろう
さらに続けてそのプロセスを経なければいけないが
そのさらにあとがいかなるものとして残るのか
過程のさらにあとにあるであろう契機を何か一つ見いださなければどこか踏み出せない
一つの契機のために相当な時間をまたかけなければならない
これまでのような他者の参照の仕方ではなく
そして写真も言葉も独立しつつも音と同じような過程のなかになければならないのだろう

聴くことと観ることと考えて言葉にすることがとりわけ今いかに大事かということから
そして心がいかにあるかということからまた今年も始まったように思えるが
それにしても何を聴いたり何を観たり何を読んでも
通過しなければならないものが最終的に自己をおいて他にないということ
そうした自覚のあり方はここ数年と多少は異なるかもしれない

こちらの土地の四季の変化と基調をなす静けさが
自己の微々たる変化をそれだけ
尺度大きくみつめさせてくれているのだと日頃から感じている
そして東京で行う個展はそうしたなか
具体的な心の摩擦や身体の意味としてあらわれてくるものと感じる
同じ日本といってもどうしてこう違うのだろうか
東京を離れてみて私にとって東京とはいかなる土地であったのか
そういうことにも数年先には触れてみたいし避けて通れない気もしている