犬山 inuyama(6)2009
上田秋成展をみに行った京都の帰り際
少し高いところにある寺へ足をのばすと市内を見下ろす位置で足が止まった
蝉が次々と重なるようにないているのにひきこまれて木陰で腰を下ろす
真昼の地獄のごとくの暑さのなか蝉たちの発しているに違いない運動の連続体
儚い蝉の命とひきかえに云々
羽の素早い摩擦の速度とリズムそして強弱 共鳴する腹腔の空洞云々
想像したくなってもどうにかこらえて冷冷とただずっと聴いていた
蝉の鳴き声なのではなくないている蝉でもなく蝉をきく私はなく私が蝉をきいているのでもない
わかっているようでわかっていないあの領域あの間のなかの何か
考えていても考えてはいない意志していても意志してはいないあの曖昧な何か
だが何もしないであるがままに聴き入りそこからどこかへ導かれていくように
ありのまま実体のない何かが実体のないどこかへと時空に入っていくことが
一つの存在の真理を呼ぶそうしたとき
まさにこの真理に抵抗するかのようにふとどこかから
私のなかの意志がわき上がり今ここに私という覚醒の連続が訪れてくる
覚醒そのものが時空に溶解しだす
我に返る
音という事柄は一つの真理
時に暴力的なまでの真理を呼ぶための
ふとした契機をなすようにあって
音に対して謙虚になることが一つの真なる何かへの導きとしてあるにしても
そのようにして存在という次元に降りていくとき
存在の真理のなかに完全に没入しようとしない私
おそらく権力ということと絡み合う私の意志がそこにあらわれてくる
それをふり払おうとすることよりも
その意志を他ならぬ私のなかに受容する
受容する意志のなかに私を再び意志していく
その動きのなかに私という人間としての個体の
自然の真理が出現してくるように感じられる
蝉と私の関係性のなかにはなく
あの広大な無意識の領域にもない
鑑賞のなかにも想像や創造のなかにもない
だがどこかで働いている一つの動きが生じて
蝉を聴いたという偶然が存在から独自の形を与えられて必然と化した
創造者も鑑賞者もないところから
あらわれてはきえていく何か
三次元的に達観することを避けつづけて
二次元的に存在そして自然とむき合って何かを行為していくことは
自らのうちにある権力とそのあり方について徹底していくことに他ならない
そこから三次元へと偶発的に紡ぎだされる何か
あるいは達観せずにかつ三次元的に何かを紡ぐ
自らに受容された意志から生ずる何か
表現し行為することは
存在という一つの絶大なる力への抵抗であると同時に
人間が今を生きるための切実な世界の構築でもあるだろう
少しずつではあるがバッハを相変わらず
何度も同じ曲を飽きることもなくひいていると
蝉との出会いの経験のような音の動きを自らの身体に発見しつつも
とある身体の方法から逸脱できない
さらに逸脱することがひとつの大きな足かせになる
方法を方法として大事にしつつ方法に縛られないことが唯一の方法であり
つまりはただ弾く
意志を受け入れる意志を貫く
このことの困難さがいつも課せられていると気づく
くねくねとしまりのない音や言葉にしていくことも
一つの方法であり過程でありつづけるしかないが
振り返ってみればそれも仕方がないというよりは
存在に対峙する意志の持続としてあるように思えてくる
上田秋成「雨月物語 白峯」
その出だしの西行の同行描写はあまりにも見事だと思う
そこには言葉だけが
時空のみがただ存在しているようにみえる
だがそれはいわば言葉が生ずる手前のインファンスの身体の無垢なる純粋さなのではなく
人間の意志と存在・実存としての運命との
二次元の水平方向の葛藤が自ずから三次元へと垂直に踏み出す
その人間の自然の力によって言葉がただ紡ぎだされ
深い経験と広い学習から言葉が推敲され構築されているからである
人間の道を歩むというよりも
人間の自然を変化しながら貫いて死した秋成がそこにいる
その勇姿は存在そして権力ということを深く通過して
いわば古代へと通ずる姿を彷彿とさせる
だが存在と拮抗しあるいは抵抗する秋成の意志をその内側から経由せずして
雨月から異なる時空へと
古代へと導かれることはない
雨月には意志を受容する意志が透徹して貫かれているがために
その意志をみることなく
すなわち強烈にすぎる抵抗をみえない暗部に秘めながら
ただただゆっくりと
存在の裂け目
生死の境界
あの豊穣にして深遠などこかへと導かれてゆく