犬山 inuyama(29)2009
仕事納め
かつてないほどずいぶん仕事した一年
かつてとは比較にならないほど多くの人と話した一年
すべてがうまくいくように望んで正気を使いすぎた
それで年の終わり
頭はものすごく疲れているが
まえと違って今年は良い気の使い方をした
明日から親戚の家のある紀伊田辺に帰って
年末年始を過ごす
犬山 inuyama(28)2009
朝夕が寒くなってきたずいぶんと 貝原益軒の「養生訓」は現代にも通ずる 仕事に疲れるとどうしてもすぐ寝てしまうし 車が移動手段だから運動不足になり体調がよくないので どうにか心と身体を改めなければならない 元来自分の身体に合わない酒もほとんどやめることにした
少し全体的な息が苦しくなったので 新潟で記念に買ってきた良寛の有名な「天上大風」の複製の色紙を壁に貼ってみた そして再び良寛を憶う 今まで読んだもののなかでは 水上勉さんの「良寛」と松岡正剛さんの「外は、良寛。」がとてもすばらしかった これらのスゴイ書物を前にしてさえも この私も自分に沿って やはり何か書いてみたいと思う
良寛の書のいいのは特にその「間」にさしあたり手がかりがあると凡庸にいってみたい 私は書に全く無知だが これだけは強烈にまず感ずるところである
特にその楷書には食い入るようにみる 一画と一画の間のなかにずいぶんと多くのものを観てとれる 細い細い線は今にも消えそうで それでも十分に筆を堪能してから消えている そこに 豊かな間が生じる 豊かな一瞬 空白 線と線の白い隙間 墨によって残された余白だ
のちに 筆の運びその微小な身体感覚のなかに 全てをかけた自然が生じてくる 偶然か必然かわからないような筆の始まりと終わりの「際」 墨の痕と跡 それによって残余する紙の白さとしての「余韻」 それらの同居した状態が延々と続いて 互いに響き合っているような感覚を抱く
一画と一画の間の空隙の密度は高く そこに何かを自然と観て聴いていくように 身体と心がバランスをとりながら筆の上を移動する
そのような運動としての軌跡 筆跡としての筆の触感がすべてを物語っているようにも思う 筆をどこで保っているのか 指先はどういう速度で動いたのか 溜められた時の 筆のにじみ ためになる「溜」 つまるのでも のばすのでもない「間」は どうやったらできるのだろう
「天上大風」に限らず たとえば手紙「天寒自愛」もすごい 書も内容も身を揺さぶられる もう少し大きく一行で観てみてそれを聴いていくと 何か微小で大きな音が流れているのに 最終的に全体をながめてみると止まって音は流れない静寂のなかにある ここにおいても静寂が白い下地が 一音を一画を支えていることに変わりなく 一画がまた全体の書を支えている 書の骨格が時間のなかにきこえだして 書の骨の密度がましてくると一つの別な線 書の脊髄が空間にみえてくる
受け取った相手はどんな気持ちになるだろう 言葉では言い表せないだろうな 良寛はそれを言葉でやっている 最も意味という制限の強い言葉で無限が言えるというのは並外れている
そうしてみていくなかに気づく 書はこちらを全くといっていいほど拒否していないことに そこに私が遊ぶことがいかようにもできるのだが それでいて私はその深さを知らないでいる そういうどこまでも近く どこまでも離れた書
という感じで その書は時間のなかにあるというわけでもなく 空間のなかにあるというわけでもない 「間」に漂っている「場」 宙を漂っていると思うと土の上にある さっきみたと思ったらそうでもなかった夢だったのか そういうような 書自体がどことかいつとか言おうとしない「場」だとでもいえばよいのか
これだけのものになると臨書もさすがに多く 贋作のなかでもいいものはとても味があって非常によい なかには本当にすごい臨書だと思うものもある けれど書の専門家が贋作だととりあえず断定したものをみると 結果論とはいえ どこか良寛にあった骨髄のようなものがかけていると思われてくる どんなにまねしてもまねできない骨 その脊髄の形こそが良寛の個を象徴しているといえるのだろうか
個からはるか遠く深くに離脱して 最後は再び個という無限に戻る過程 究極的な自己回帰といったらいいのか 離脱の彼方に良寛の自然としての個が浮かび上がる そしてその無からのさらなる「離脱(エックハルト)」のような晩期の書 今の私などには到底理解不能だけれど 何かがその「場」から駆り立てられる
これだけ執拗に絶賛してみても これらの書はそういうことには全くの無関心 そんなことはどうでもよろしいではないか そのようにすら言ってこない 書自体との対話ではなく 書というものを借りた私自身との対話だけが延々と続く こちらが暴かれるときもしばしば それが自然に受け入れられるような書
書の文字はみえていてもはじめは何もみえてこない 次第にみえてくるのは私の卑しい心 そう白状したくなってくるのだ 無の心 無からもさらに離脱させ 私の余計な考えや隠し事のようなもの そう 今日でいえばはじめに書いたような体調への不安のようなもの 覆い隠しておきたいものを 上手に麻痺させて宙づりにし私に自覚させてくれるのだ
松岡正剛さんも似たようなことを書いていたように思うが 身の震える冬の寒さがもたらす何かにどこか似ている 良寛は冬の人だ 新潟 寒い空気によって思考がうまく停止する 身体の震えがのこる 心と身体がおののく 良寛は誰かの上に立たない だがこちらの身が引き締まる 発見の場というよりも「恩寵(ヴェーユ)」の場といったほうが近いのだろうか 私にはシモーヌ・ヴェイユやマイスター・エックハルトと良寛はどこか似ているように感じられる
速すぎる故に重力と無関係に軽く遅く 白紙が墨のなかに落ち 墨が白を間とするようにみえる 言葉の意味が書かれていても意味による圧力や 言葉に宿る主体の権力がない 軽さのなかに無限の力が生まれる
身体運動の結果としての筆跡が そのまま文字の意味を浮かせるようだ 逆説的だが そのように書に文字の意味だけが残る書 方法はワープロうちの真逆 それが筆跡というその身体の触覚によってなされている 触覚に五感がのりうつって
良寛が書を書いている姿が その消息から断簡からそんなふうに「いまここ」にみえてくる 良寛という人物がかつて存在したという確かな実感とともに
犬山 inuyama(27)2009
近くの各務原航空基地の飛行訓練が増しているのだろうか 犬山の上にも今日はいつになく何度も戦闘機が飛んでいた 今日もまた何かまた徒然と浮かんだことを 記していくべき日だろう
あとからここに付記すれば 今日はすべてがあまり脈絡のない単文のようになった だが言葉はとぎれずにどこまでも続く 瞬時に消え去るものをとどめようとするなら すべてはメモ書き 身体的痕跡だ
写真は独房を再現した建物のなかでとったものだ 歴史外の生から呼ばれるもの あるいは 権力からの逸脱 ということから何か書き始めよう
権力的な何かによって初めてあらわれる主体 主体のなかに形成される権力 そうした主体のなかにある複数の他者をみいだしていくことによって 権力自体のもつ欲動を揺さぶろうとする主体
権力の発現様式のあとがき その死のあとを綴る歴史ではなく 強いられまた自ら何かに適応するように生き また能動的に主体の変化を意思し続け 変容していく反復のなかにずれを感じ 構造的な何かから遠ざかるように進む そこに生まれでてくるような 歴史の外側の生 その数々の死の亡霊たち
歴史以前の始原の重みをいまここへと その記憶を求めて 哀しみと笑いという感情へと もう一つの生の連なりを感じる契機
あるいはまた 構造的な何かを俯瞰した場所 主体とは離れたもう一人の私から あるいは何らかの形から遠くはなれていく過程において 何かの到来を待つ
権力からの逸脱として 偶然が侵入するそのときのその構造の変化を待ち受け そこに身体を委ねていくことによって 人間の権力という重みから身体的に解き放たれること 自由という名の希望への契機
さしあたりこう書いてみると いわゆる西欧思想でいえばドゥルーズ/ガタリの「差異」 井筒俊彦を師としたというデリダの「亡霊」 アルチュセールの「偶然性」などが思い浮かぶし それらの遺産は参照に値する アガンベンの「開かれ」も曖昧なる「間」という問題を提起しているように思われるし 昨今少し読んだジュディス・バトラーの暴力の問題も 私の今の問題意識とある場所で共通しているように思う
しかし 言葉の構築しきれない場所に身を浸して そこから問いを発し続けるという思想のもつ文体 言葉のあり方そのものが求められているような気もしてくる
それは言葉による詩ということだろうか そうとも言えない気もする こうした意味で東洋独自の表現形式である「書」に学ぶことは大きいかもしれない 書が古典的で矮小な形式から本質的に脱して 書であることの書の生命というものから 何かの新しい形がみえる気がする
良寛に魅かれ それを何かの基礎としたいという思いにかられるのはそのためかもしれないが 書は書くことであり掻くことであり描くことであって それによって何かを欠くことでもあるだろう そこに不完全な間が生ずる その間から今度は文字を書く その文字をみて考えることができる
書でなくとも 構造の主体的破壊ではなく 構造の形そのものを他者としてそこから逸脱していく その契機が 例えば写真自体であり音自体である また偶然の到来 一瞬における時間的密度がひらく時空のなかに 新たな次元をみいだし 再びそこからまた逃れていく運動 それが生自体によってもたらされている それもまた音をだし写真をとることのなかに発見されるだろう その繰り返しとずれを続けていく
そのような運動のなかに身をおく 過去を写した写真 過去に奏でられた音楽 音の記憶 そのすべてが今ここに問われるとするならば 過去は今であり あそこはここである 逆転させるなら今ここから 今でもここでもない場所へ 今ここが常に初々しく問われる運動であること そのようになるだろう
さらにそうしていって何がもたらされるのだろうか いまだにはっきりとわからないのだが 何かに要請されている それは遥か彼方から連綿と続く音の生命のようなものがあるからなのか 書に書の生命を強く感ずるのは 文字が言葉を通じて人間と切っても切りはなせないからだろう 音でいえば歌という形になるのだろうか
そしてこのような運動の概念 それを音や写真のなかに表現していくのではなく その概念の言葉を身体に降ろしていく過程において音や写真を発現していくとき 音楽のテーマや写真のテーマというものはここには存在せず その運動だけがあるといっても過言ではないだろう
言葉や思想の陳腐な表現 作品に対する作者の解説が横になければ いかにいい写真か という写真集は意外と多い 写真が作者の特に陳腐な概念に縛られるとき あるいはとってつけた解説があるとき 写真は生命を失うことも多いのだが 言葉でもってしか 何かを考えてから行為する そういうことはできないだろう
写真への行為が純粋であっても 純粋ではないあるいは十分な動機に支えられない言葉は 写真を欺くことにしかならない その自覚を欠いた言葉は他者を無意識的に傷つけるとさえいえるだろう
言葉のあり方を磨くことは考えのあり方を深めることであり そのあり方自体が世界に対する態度や距離感となるのだが それが安定しだすことを私は求めていない だが言葉を発すること 言葉のあり方を常に変化させること
何を弾くか 何をとるかから 何が動くか ものからことへの契機 ものとことの多様性を含み込んだ一瞬という間へと侵入して 間を無限へと近づけること
精神は精神か 物質は物質か 偶然は偶然か 必然は必然か そのようなぎりぎりの間にある問いの交差する場所 間隙へとたつように 写真と音の運動のなかにたっていること
あたかもシモーヌ・ヴェイユの空しさから到来する「恩寵」というような 一瞬への多層的で多重的な瞬間的凝集や エックハルトの説いた無ということからのさらなる「離脱」というあり方 この身に響かせるかのように
もし音の生命というものを仮定するなら 音そのものがまだ生き延びようとしている 音の欲望と写真の欲望という事実だけがある そこから導かれて今を生きるわれわれがどのように運動していくのか
運動自体は語ることが難しい 言葉の結論めいたものを写真や音を通じてそこに表現しているだけでは何もならない 何も そうではない音と写真のあり方自体を言葉がその前後から検証していく 言葉はそのようになければならない 言葉で語れないものは必ず残る 身体である音はすでに想像の先 今現在の言葉の表現の先をいっている
だが 語りうるものは語りうるとして 言葉を書いていかなければならない 今の時代には他者を思考しながら 自らが何者であるのか思考していく態度が必要なのである 音そして写真にその契機を 過去からの要請を求めながら 今ここを反省していくなかにやっと現実としての生の力 生きた未来があらわれる
そして他者というもののなかに否応なく「権力ー倫理ー暴力」の共犯していく領域が潜んでいることに自覚的であること それは所有できない不可能性としての死を今ここに感ずること そのために今ここから死の淵に近づくその始原へとむかい そこからまた今ここを問うてくる
現在はこのような意味において過去から 過去の身体的記憶から呼び起こされる その問いの持続の運動のなかに未来が溶解しだす 未来を作るというよりも時の塊そのものが溶け出すように未来がたちあらわれる
暴力というものに それは自らのなかに潜在化する権力 そしてどこかで構築されようとしている倫理からも忍び寄る この側面に身体が十分に自覚的でなければならない
危機的な状況だとおもった 今日という日 戦闘機の訓練の轟音を聴きながら しかしまさか町が襲撃されるとは まさか思っていないようなのだが どうだろう
戦争という悲惨その日々をかつて送った また現在進行形で送っているどこかの世界を ひとかけらでも この音からこの身が想像することができるのか これからこの世界はどうなっていくのか
犬山 inuyama(26)2009
考えてみれば写真や音というもの そのいずれもが 「今ここ私」たる場所 今ここに私がいるという疑い様のないこと デカルトも唯一これだけを信じ あれだけの創造と想像を働かせることができたこの場所に 知らなかった記憶を蘇生させる役割を担っている
音になった 音にした あるいは写真に写し出した 写し出された記憶は 身体のなかで何かを共鳴し惹起させる その反復によって次々と連鎖される身体的ずれが 無限と言ってもよい時空をその写真に その音に 記憶を連結させていく 間隙からみた時空の重なり 昨今重なりとよんでいたものは そうした一瞬の密度ある時空となって 音や写真という具体的な形として今ここにあらわれてくる
それらが密度を増して私に語りかける時 写真や音という他者のなかに他ならぬ私が重なる 一面を言っているにすぎないにしても そうした動き自体のために それらの行為はあるといってもいいのだろうか それは時間の概念を別な視点からみることによって いわば瞬間という間を時空の重なりその凝集へと広げることであるかもしれない
一枚の写真を見てそこから連想したり 一音のなかに自己を感じたりすることは もうそれだけで複雑な過程のなかに身を投じていることになる それを読み解きながら考えていくことよりも その連鎖を連鎖のままに感じつつ 一音や一枚の写真を一つの起点として遠ざかっていく過程に 新たなる自己が感じ取れる それは私が生きていること そのことを感じることだ そこにもう一人の私があらわれる過程 その次々と生ずる反復とそれまでの自己とのずれ その続いて終わることのない変化こそ生きることと考えられなくもない
そうしてみるならば 一瞬を生きたものにしながら持続していこう そこに何かを発見していこうと捉えるのではなく 瞬間が広い重層化された時空の溜まり場としてある そのなかに私がもうそこに生きている そのなかに何かが発見されてくるとみていく方が 今の身体感覚に近くなってくる 一瞬のなかにうごきを見いだしそれをとらえようとするのではなく 一瞬が動いているのはむしろ生そのものがあるからなのだ そのようになる
理屈で言ってしまえば当たり前だが これは一つの身体的覚醒に近い 瞬間に永遠が写るようにみえるのはそのなかに無限の反復とずれをそもそも含んでいる このためだろう こちらにきてからすぐにどこかこの身体は感じていたが そのときそうとはわからずここに綴ってきた内容 反復とずれの感覚 そのことにも合致しているように思う
止められた瞬間という時空 それは写真の一つの大きな側面だが そのなかに生じている溜まりはクロニックな時間とは無関係あるいはこれに垂直な磁場をつくる それは無限に広い時空間といいたくなる 時間を止めるのではなく 止められた時間にみる時空の重なり そこに凝集される生 それは得るものではなく そこによばれるものだ だからその生なる時は遠く長くて 一度よばれれば儚く映るだろう
「微明」において行ったような一音を持続させるという行為 これもまた予期せぬ瞬間を一瞬一瞬持続させている その一音から生じる何かの発見というよりは 一音の持続の その始まりから終わりまでが まさにひきのばされた瞬間 多層なる時空の凝集 そのように考えた方が今はしっくりくる それが時間のまとまりと昨今感じて言っていたものだろう ここにおいては静寂から一音を弾いて静寂のなかに音がやむという その行為自体その過程自体が 瞬間という時空 多層なる時空の重なりの場 それに相当するのではなかろうか 「凪風」において行ったこともまたその展開と比喩としての位置を身体的にそこにあらわしていたものと 振り返るならばそう言ってもいいのかもしれない
こうしたとき 一曲を弾くということのは音の継続されたまとまりと捉えるのではなく そもそもがまとまった音の塊のようなものを内部に常に宿しながら一音を弾いていく行為 逆を返せば 一音の状態のなかに常に全体の音のまとまり 一曲というものを感じて弾いていく 瞬間のなかに入って 瞬間を担っている多層な要素をそこにみつつ 自らの身体が記憶とともに生きていることを確認していくこと 発見しながら自己の生を持続させる過程のみならず 限界ある与えられた生のなかでよりどのように この身体が記憶を反映して生きるのかという行為へと近づく
与えられた一つのまとまりとしての楽土 その土地の上に生きる音楽 死から死へと向かうための音楽 始原から始原へと向かう途上に呼び起こされる音楽 そのように単純だが複雑に様相の展開する音楽 それは瞬間という一つの時間の凝縮されたまとまりが無限に開く時空の多層化 そういうような次元にあるという気がしてくる 生は一つの死と死の間 儚い束の間 それは記憶の幾重にも重なった時空 そのなかに生きている
診療もよく遭遇する疾患を単にパターン化し 外部の科学的情報に基づいて決まった処方を反復していくのではなく 身体的記憶の引き出しから何かを取り出してきて それを介して行うようにすると 反復のなかにずれの感覚が生じて ずれを立証していこうとする態度とずれをずれとして身体的に捉える態度が新たに生じてくる 一瞬の短い時間においても ずれのなかに身を置いた診療 それは身体的個を大事にするような診療ができるようになると思われる こうしたことに写真や音を出すということのすべての行為 その意味を求めていくこと その過程が役立っていると確信できるのが何より幸せでうれしい
犬山 inuyama(25)2009
1ヶ月間かけていろいろメモしてきて いや 昨年の個展からのたまりをみてみれば1年だと思う 少しは新たな課題がみつかってきたからとにかく楽器を演奏してみている 楽器の一番下で弦を根本から支えているテールガットがだめになって付け替え 少し調整もしてみた このホームページ用のソフトの調子もどうも悪いので ブログも少しだけ文の書き方をかえてみよう 文体とか書き方というのは本当におもしろい
練習の仕方は前よりもよりずいぶん 丁寧になった とおもう ひきなおし方もいやみではない ひとことでいえば 前よりもかなり 焦らなくなった 例えば 音がゆっくりでも速くても同じことをしているという感触がやっとでてきたようだ 私をみているもう一人の私がいなければ 一人でいい演奏などできないだろう 特にソロが難しいのは 一つには自ら弾いた音を徹底的に他者にしていかなければならないからだろう 他者にこそ自己を見いだすことがやっとできる 音に善悪の執着があるとそれだけでもう音の成長がとまるという感じがする
弾けるということはある曲を目標として定めて それをとてもうまくひけるようになることを単純に意味せず 根本的な時空が広がるということ そのなかに一つの曲や題材というものも単に位置しているだけだ 広がるということは視点がぼやけていくこと ぼやければ何かがわからなくなってしまうのではなく ぼやけていくことに集中していくことで 時空のなかにある支点のような 音の質感のようなものが自然にでてくる それがいまここを象徴する音なのだろうか
ペソアは言っている 「人は二つの人生を生きる」 この言葉に幾度となく魅かれ励まされてきたことか ペソアの研究家で作家のアントニオ・タブッキの「インド夜想曲」をアラン・コルノーが映画化したのだが この映画でもペソアのこの言葉を語らせている この言葉の意味するところがまた一つ 私のなかで深まりつつある
第二の人生ではなく 二つの生の重なり このことを実感して 今生きているような気持ちがしている 自分なりに精一杯やった東京での仕事の内容も新たに反省する時が来るだろう 私は何かを自らの意思で捨ててきたのだから それがどういう決断だったのか 音を通じて本当に気づくときがくるだろうと思う
犬山 inuyama(24)2009
あたりは紅葉の絶頂期となった 満月が城を照らしている 半分ばかり上ったところで 山をゆっくりと下りていく 上っていたときにはみえなかった風景をみながら 上ったときに踏みつけた葉 もう落ち葉はそこにはないかもしれないが 土壌のなかにうまっている 他の葉が芽生えている 葉の色は変わり 森もまた変化している 下りる ある葉の上から違う方向へ 知らなかった風景へ知らない路をつくって進むよりも 一度踏んだかもしれない葉を拾い 何かを償いながら まわりの風景を見渡してみる 笑いとともに
写真は失敗をもろともせず成功のなかにも失敗がある 原因とその結果があまり意味を持たない そしてやはり今なお音楽もまたかくあるべきではないかと考えるのだが 疲労し切って挫折的失敗を重ねるよりも 今はじっと 上りに踏んだかもしれないが そのときは見えなかった落ち葉を拾って その落ち葉を我がものとせず 償いをもって自らを笑いながら落ち葉がつきつけてくる問いを自らに重ねていく その過程そのものとして 次に何かがあるのではないか 当たり前だけれど私はこれまでこの世での生き方を考え出会いを大事にし失敗とそして時に幸運な成功をしながら自己実現をしてきたような感じもするが 本当にそうだろうか それは結果としての自己の姿 その時間的経過をみているにすぎないのだと この一ヶ月 急激におもわれるようになった それとは違う 私をみる別な私 それは一体どう生きていたのか 生きていなかったのか 生まれていなかったのか そういう私が都会のなかでさえも思いもかけず重層化し私をみているはずなのに 私には別な私が本当にはみえていなかったのだ こうして私は 今度は私をみる私とともに 私とは違う次元で今度は山をおりていかなければならない この際においては 実際におこっているものことを事実や現実とするだけでなく 想像する力や果てしない悔恨やものごとの触感 静寂のなかのひそひそとした語らいのなかにも みえにくいが確実な事実や現実が聴こえてくることを 実感として いまの私はこの身体に認めうる この実感をもとに振り返るなら それはわかっていた とは全くいえない だがどこかでわかろうとしていた だろう それはごくごく当たり前のことかもしれないが この両面の事実や現実を出発点として 今やはり置かなければいけない 私がむかしむかしへと さかのぼる くだる先 身体が空気を押し出す縦断面に ふとみえる落ち葉を拾って 絵画や古典文学残されたものもまたその落ち葉として 迂回するのではなく直接落ち葉を拾いながらこの現実に直面して 横の世界を眺めてみるように写真を撮り 音がだせたらいい 何一つ知らなかった身体が 落ち葉の記憶をたよりに まずは地上に戻ることができるだろうか そこからまた違う山が あるいは海が眼前に開けるのだろうか
この美しい紅葉を前にこれまでの私が ひどく気恥ずかしくて仕方がない気持ちが今日はしている 子供用のCDを車できいた 昔から伝わってきた子守唄の旋律と決してうまくはない声の節に今日は強く魅かれた 社会における あるいはこの世界における存在や権力と別の次元がある 当然のことだろう 言葉も音も風景も私が生まれる前から私のなかにあると言っても過言ではない 当然のことだろうとも 権力から離れるところ 何か生まれる それは人間の現在の社会構造の問題 生物多様性の問題と深いところで関わっている それらの問題からある契機を経てここへときたのだから やっとこの凡庸な私もここまでこれたという安堵感もまたこみあげてくるのだが 別な私がまた私を笑っている そしてこの笑いはほとんど嘲笑に近いものとなった
犬山 inuyama(23)2009
写真や音楽から
今どんどんと
離れていっている
明らかに
後ろを向いて歩いている
オオムラサキの拍動を
停止させたこの手
手への償いのようなものが残っている
もう一人の私の
私への笑い
その裏には
私の償いがある
そうであるから
心は落ち着いている
なにがしかの強い
実感だけが残る
生きていることを
そうである当のものを
あらわしていく以外にない
そうでなければ
本当に私が生きることにはならないだろう
犬山 inuyama(22)2009
何かを実感してそれを言葉で断定しそうになるとき 既に次の問いが生まれている そうである あるいはそうであった が それで どうなのかと 重ねていくことが 具体的な私にとって大事なことであるように思われる 時間がないと思っていたがそうではなく 時間は意外にも長い だが 人生は、はかない 身体が楽になってきたと感じだすと 笑いに近い感覚がでてくる やはり疲れてはいても かれこれ二十年間つきあっている慢性病も 少しよい感じがする そこはかとない笑いのなかにそれを受け入れているからか 嘲笑ではないが どこかにいるもう一人の私が 私を笑っている 別段否定的というわけでもない 別人の私がそう言っている 山のお寺に登ってきた 頂上で紅葉と月をみて本当に笑ってしまった 何を笑ったのか 月にみる私をだ 階段をくだりながら 笑いということについて深めなければならないと感じていた なぜかこれまで非常にとっつきにくかった源氏物語も 読めるような気がしてくるのだった
話は変わって とある雑誌の表紙写真を任されつつある 頼まれたのもあるが私はボランティア 対象はふだん忙しく働いているような人 だとおもう 縦位置の奇麗なデジタル写真ばかり これはこれで面白いと思えるようになった これは甲乙つけがたい二枚の写真といわれ さあどうすればいいか こちらが甲というイメージで こちらが乙というイメージです という笑えない冗談ではなくて 優劣をつけるには まずはもう一人の私が 心底から現象としてのこの私を笑わなければ 甲乙をつけることはできない
話は転じて 古典になじんでこなかったとはいえ 上田秋成の特にその文体にどうしてか強烈に魅かれたのはおそらく 今にして思えば このような笑い飛ばしのような感覚を彼自身の作品に対してもっているからだったのだろうか 彼の笑いの感覚は笑いを否定しさらにそれを否定した冷めた暖かい笑いなのだ イギリスのガーデニングから日本の庭園をみて笑うようなものか 無論 馬鹿にしているのではない 猫をたくさん飼っていたという国芳の得意な猫 私の別人とは国芳にとっての猫だろう 英泉は少し技術に傾き過ぎ ものすごくうまいけれど 北斎は笑いの魔術師 本当に凄い 天才とは北斎のことだ
さらに笑いと関係なくなるかもしれないが今日書いておきたい 昨日は知人の受験相談をしてずいぶんと語った 少なくとも受験を控える不安な高校生の心には響いていたように思い 懐かしくまたうれしかったのだ 具体的な入試問題についても考え方のイメージ 物質や光の振る舞いのイメージまで話した こういう受験問題というのはある意味においては簡単のようにも思われる 大きいか小さいか 速いか遅いか 曲がるかまっすぐか そんな単純なことのように思う 理屈はあとから難しくついているだけ 理屈を学ぶのがめんどくさいけれど論理的な思考は大事だ 方法をつくるためのさらなる手段 だが根本はイメージがわかれば 点数にならなくとも解けたも同然だ そう思っていたが 私の場合これが甘かった 幾何学の補助線こそ美の極致と思っていた だがこれでは現実が許さない 試験というものは点数で決まる こういう怠惰な性質は今の私にもあるから反省しないといけない そうして何度も受験に失敗したが最後には役立っている 世の中には最低の決まり事というものがある 子供が隣のうちに入り冷蔵庫を勝手に開けて食べるようではやはりいけない 大人ならなおさらそうである 身をわきまえるべきときを誤ってはいけない 子供のしつけは大事だ 教育はますます困難になってきている
受験時代の私はと言えば 高橋正治先生という予備校でお世話になった古文の先生の思い出がある 二十歳くらいのときに出会った クリスチャンで私立大の国文学の教授だった 先生の教育セミナーは「人間の位相」と題されたもので 数百人は入る会場で浪人生は私一人 あとは中年の方々が四人だけ 学生は私以外誰もいないという先生だった それでも今日はきてくれて感動したとおっしゃってから 感動とはどういうことかということから始まり イスラム哲学から仏教 古典へといざなう真に心打たれる講義だった 今もときどきひもとく井筒俊彦氏の「意識と本質」を読み出したのもこの講義がきっかけだった この本はいまでも相当難しい あのとき終わらないでほしいとずっと聴いていたかった 最も印象に残ったのは 定年を迎え六十歳から一つの本を書き始めるときがやっときたという告白だった 会場に数人だったからかもしれない だが先生は数年後に海岸で 何かに導かれるように急に容態を崩してかえらぬ人となった 集大成はならなかった もう一度その大学に会いにいこうと思っていた この最後の授業を今でも忘れずにいる 胸の内にいつまでも秘めておかないほうがよいとこの身体が あるいは別の私が要求するので 今ここに書いている
尊敬する高橋先生もどこか不真面目で 面白かった 特攻隊の生き残りとしての生かされた命 その命において溌剌としていて 笑いに満ちていた 墓に入ったらまたお会いしたい
犬山 inuyama(21)2009
私は竹やぶのなかにいて私の身体がみえなかった 私の意識は西日の強い逆光に負けていた 影に入った だがそれは新しい世界を経験することではなかった 負い目に満ちた意識を影の身体に投影して ちょっとだけ頭に描いた体裁をたもちながら とある愚痴のような言葉や音を大概はこぼしていただけだった 唯一何の作為も加えることのない写真だけが 世界をいつも一つの冷静な切り口で写し出していたのかもしれない それでもこの身体は少しは楽になったのだった だが 竹やぶの竹の幹のしなりとしなりをうながす風を聴いて 竹やぶのなかなから西日を垣間みて太陽の光をみた だが太陽を太陽として 月を月として 風を風として 感じながら どれのなかにも私をみることが本当にできるようだと身体が気づいた時 月と風と太陽は渾然一体とし重なりあっていた こうした重なりのなかにいると感じて 一つの伸び縮みする巨大な生き物のなかに生死もだきこまれている こういう感覚が自由にのびていくと その一点にのっている私が世界のうちがわにあるという覚醒に それはつながっている かつてはこんなことを言っても本当の実感はなかった 考えることは放棄していなかったがそれも小さな切り口に過ぎない 言葉の重なりも生きた身体 音の重なりも生きた身体と知れば 重なりの切り口を一つ一つ体験していくことが生きていくという営みの楽しさにちがいない 一つの切り口 自他という切り口のなかで 切り口を見続ければ克服される三次元的な何かがある そのようにして実体のない何かをみて何かを慰めようとようとしていたにすぎないのだけれど ただ焦っていたそれでは行き詰まるだけだった だが本質的なことかもしれないものは 逆に複数の切り口があるというそのことだった 複数の切り口をひとつづつ あるいは 真に才能に恵まれた稀有な人なら 同時にみていくことによって身体はますますのびのびとしだすだろう たとえ現実が苦しくとも 楽でいられて ある切り口からもうひとつの切り口へ自由に移行することができる こうした自由な移行や移動 往来のなかに 音と音の対話や 光と光の対話 事物と事物の対話が生じて それらは強大な生物の内側を形成しながら 終わることがなく 続く こちらに来る前に陶淵明にあこがれた 巨大な魚だと思った 大きすぎてみえない 刺身にして食えないどころか何度切っても違う姿があらわれる だけれど不可解ということがなく こちらが安心していられる そんな医者にこれからでもいいからなっていきたいと ときには若々しく溌剌に言ってみよう だが私の生の末期は音楽によって生きたい 生かされたい なぜならば音楽は あの音の溜まりの宝庫からやってくるみえない巨大な魚の息のように思うからだ 背筋が凍るような経験をこの身に実感し 小さな町のなかで暮らしながらも 多数の重層化された時空の 多数の切り口の面にふれていかなければならない 今はこの世にない木々は いつかみえない魚の息を私にふきかけようとしているものと信ずる この恩を忘れてはいけない 木々の倒されたあとにはレクリエーション施設へと続く道路ができた となりの道は封鎖されている 農業の用水路は埋められた 何のためにそんなことをしたのか 私はこの推移を見守る必要がある 新しい木をどこかからもってきて体裁よくしつらえた 自然のなかで遊ぼうとうたわれたレクリエーション施設 このなかで楽しそうに子供が遊んでいる 大人もきれいねといって癒されている それでよいといえるだろうか 私自身も ささやかかもしれないが重大なこの破壊的行為に 自分自身のかつての そして現在まで続くあやまちをみていたのだ 我々は今 一つの極めて危うい平面のなかにいるのだ すべての世界の切り口その平面の織りなす混沌とした味を身体のなかに知っている子供を 今こそ この与えられた既成の一つの平面のなかに閉じ込めようとしてはいけないと私は思う 子供の眼はいつでも自由なのかもしれない だが時空の重なりを子供の眼がその意識のなかに発見し これをみて何かを感じながら 成長とともに大きな何かに触れながら主体的に創造していく機会を本質的に奪ってはいけないと私は思う
犬山 inuyama(20)2009
一日の二回目の出勤 午後の出勤は強い西日を受けての運転から始まる 信号すらみえない逆光のなかでうろたえずにそのときいられるかどうかが これまでの一日の一つの基準だった 落ち葉を掃き始めてからは 自己を照らすもう一つの基準ができつつあったのだが これは一体どういうことだったのか 今日はどのように落ち葉を掃くことができたか はいているときの加減や落ち葉と落ち葉のたまり場の距離と位置がいかにあるかによって その日 私が時空のなかにどのように存在しているのかを推し量ることが可能になってきた どういうわけか元来ものとものの距離や位置に関しては相当細かい性分なのだが これがここになければならないという感覚がざわついてくると それがしっくりくるまで何度も置く位置をかえてみる さらにややもすると病的なふうになってくると 時間のあるときには落ち葉の位置が納得いくまで掃きつづけるのではないかという不安にかられてやめる 時空が変化していくのをみることはできるが どこかに頑固にもあり続ける一つの焦燥感が 固着されている 自らの動きが本質的にそこにないのだった これではどうしても何かを払拭できなかった バッハを何度もひいて確認したかったのもいかに自分が動くことができるかという方法だったという面がある 一度で決まらない日は多いのであるが 家のまえの落ち葉の状況を把握しどこから手を付けていくか どういう落ち葉をどこにためていくか 方法は無限にあるので定まらないということ そのこと自体を楽しむことができないのだった しかしほうきで落ち葉を掃く行為をいかなる視点でみていくか その視点の転換によってバッハの演奏もおそらくかわる バッハは都合が良い偉大な代物なのだ 時空の重なりということに思いを寄せていくと ある結果と次の結果さらに次の結果そうして無限に続いていく落ち葉を掃くという行為が一つのまとまった行いとして立ちあらわれてくる ある局面とある局面がどちらが先にあったのかを完全に忘れ 落ち葉の変化の局面の重なり 野球の表裏やサッカーの前半後半のような あるポイントを区切ったまとまりでもよいのだが 原因と結果ではなく 結果からみた過程でもなく 過程の具体的推移ではなく 過程そのものといったらいいのか だが将棋の駒で王様を追いつめていくような過程とはまるで違った すべてが動きつつ調和した時空の重なりのなかに 自らの気配が消えていく 自らが時空のなかに溶け込む姿をみることがある 今日は風がとても強く 家の前の竹やぶからはじめて竹の葉がかなり揺れて落ちてきた 紅色や黄色や橙色に染まった桜と混じってひとつの美しい幻想的時空が目の前にはじめにあった そのなかへ入ってそれらを掃いてためていくなかにも 次々と新しい奇麗な落ち葉が舞い落ちてくる かれこれおそらくは一時間くらいはそうして外を掃き続けていたのだが 舞い続けてくる地面の落ち葉を掃くことは心をむなしくするということをもたらすと同時に 時空のなかの相対的な自己を正確に感じ取ることをもたらす 自己が時空の隙間に入っていくということは 風と竹と桜と凸凹したコンクリートや竹箒という道具の使う感触そうした時空をつかさどっているすべての運動の一部として 私がそこにいる そうした手応えとともにある 神であるとか循環であるとか輪廻であるとか思想を学び そこから新しい概念や観念を形成したとしてもこうした手応えはやはり薄い だがこれもまた時空の重なりから生じた大いなる思想にちがいないのだ しかし実感からはじめること本当の実学とは何か臨床とは何か 何かをわかっていくということは何かがわからないとわかることにつながっている 有限と連続した無限こそが気付きの極み 落ち葉を掃いて集めたり散らしたりすることは 最も身近で時空の重なりのなかに身を入れることのできる無限の手段 そうしたとき何かを楽しむという行為が本当に可能になるのだと頭ではないこの手がわかってきた 落ち葉を掃いているときのように演奏ができないだろうか バッハはこの家の玄関の前にもいる 東京からもってきたバッハの立像モニュメント 家の前に置いていたのだが 落ち葉とバッハもまた一つの重なりをここにおいて示した 身体はそのことを知っていた 竹箒は弓 弦は落ち葉 コントラバスは土であったらよい 今も何もない時空に一枚の葉が落ちているだろう その葉こそが時空の間隙をただよう波なのだ バッハは今日もずっと 風に舞い落ちる落ち葉をみていただろう
今更になって何を言っているのか私は何とお粗末な都会のぼうやたることか 今や最先端といわれているものこそ最も遅れているのかもしれない 人間は幼い反抗期から脱さなければならない 人間は成熟することができるだろうか 滅亡するにしても最後は老化した人類として世界の調和とともに子孫が人間を経験することがあるだろうか その時どんな世界が生じているだろうかと夢想は膨らむばかり
犬山 inuyama(19)2009
重なりについて書いているのだからたたみかけるように書いてみてはどうかと 今日もここに座っている 木戸敏郎氏著の「若き古代」に眼を通していた 本の最初の方 御神楽の現代的意義のなかで 時間の停止と同じ旋律の反復が 実は反復ではなく重複あるいは堆積としてあり 音の堆積は密度を高めていくこととしてあると書いてある この表現法を言い表す用語がないことはこのような表現方法を概念として把握していなかったとされている 驚いて背筋が凍る まさに今感じていることそのものに近い指摘と言及だった 何かを発見できたうれしさを超えた感覚 この本はコントラバス奏者の齋藤徹さんのブログの紹介から昨今教えていただいたものだが 当時絵や書をみようとに躍起になっていたため 興味が及ばずに心を砕けない部分は飛ばして読んでいた それだけ当時は音楽に迷いがあった 時間のない音の空間性の重複という趣旨で 時空の間からみる時空の重なりということとは少しずれてはいるものの 飛躍すれば 数日前 私は腐葉土の手の感触のなかにほぼ御神楽をみていた といっても決して誇張しすぎにはならないだろう 身体とはおそろしい記憶の塊 記憶の重積であった そして土もまた記憶を宿している 頭では想像していてもこうしたものの実感は私のような凡人にそうは経験されないから本当に大事な感覚としていかなければいけない すべては木々が倒されたということから始まっているのだった 重積された記憶と重積された記憶の連鎖 それは時空と時空の空隙に触れることによってもたらされるのではないか ここで思い起こされたのは スペインのアルハンブラ宮殿 同様の感覚が襲ってきていた あのとき 今思えばアルハンブラは世界の堆積したくぼみのような魅惑的で詩的な場所だった どこに存在しているかはっきりしないほどの時空の密度 ガルシア・ロルカがみていたものはそのような生活空間の密度そのものだったはずだ あのときから いや ずっと以前からそうした時空間の濃度というものに魅かれ続けていたのかもしれない 写真にはそれが必ずと言っていいほど写っている フェルナンド・ペソアの世界にも不可思議な時間の堆積をみることができる ここ数年間の写真展ではそんなことはわからないでいた 生死という側面から考えるよりも時間の蓄積されたあるまとまり それらが生死を貫いている そうであれば生死という二分法も人間と自然という二分法も 貫かれた時空の重なり その堆積によって打ち砕かれるのだ 部屋に置いた竹の色の変化が生から死への転換がすぐにはされないことを如実に示しているではないか ある時空と異なる時空のあいだこそが我々の意識の世界なのではないか 身体は身体がわかってはいても理解できていないことを先取りしてやっていく そこに経験していくことが 次々と重なって密度を増す 移動してもそれは変化しながら蓄積し重なり合っていく その時間のまとまりの重なり具合 それはものすごくゆっくりとしていてみることができない この時間的感覚とは相容れないような猛烈な速度であの木々が倒された そのことへの身体的拒否反応がないはずがないのだ ここへきてやっと私が私でいられる気もちがする そしてあの木々の霊魂へ何らかの音を捧げるために 私はどこまでいけばいいのだろうか 音作りはできない もっと待て 時空の蓄積を待て 言葉と写真とともに 私が私になるために意思を強く貫け
犬山 inuyama(18)2009
東京へ少し行ってきたが今回はなぜか大きな疲労感があった 体調不良だったせいもあるかもしれないが 昼過ぎに恵比寿の写真美術館へ行ったがまわりはビルばかりだった エイズの周辺にまつわる写真展がひらかれていた すぐに連想され何度もみたことのあるロバート・メイプルソープが今回はなかったのがよかった エルヴェ・ギベールの写真は 自己の孤独を外から見続け 自己の内部を通じて外側の光景を反転させているその感覚に 私を勝手に重ね合わせてみていた エイズの友が死んでゆく姿を淡々と捉えていた写真には はじめのうちは病の人々をどうしても撮ることができない私とは異質な感触をみたが 最後には認めてみることができた そこへもって崖から転げ落ちるバッファローの写真には心を打たれた その時空と重なるように訪れた新宿のサードディストリクトギャラリー 友人の牟田さんの写真展のなかには自らの入院中の姿を自らを自らが知らないうちにシャッターを押していたという一枚の写真 酸素マスクをつけていた どうやって撮ったのかはじめは聞くこともはばかられたが そこにいた誰かが当人に聞いてくれてはじめて知った そして眼が見えない患者がこちらに視線をむきだしている写真 そうと聞かなければわからなかった これらは衝撃的な写真だった 病院のなかで何かにせき立てられるように自らの役割その責任を果たすべく忙しくはしりまわっていたころの私が 妙な感触とともに写真にさらに重なってみえた 一体なんのためにあれだけあのとき働いていたのか 患者のためと言い切ることができるだろうか その問いにまだ答えることができない空虚感 対抗していた権力がなくなりそれが離れれば消滅してしまうような空虚なもののなかに私はいたにすぎないのだろうか
帰りの新幹線では重なりというのはどういうことを感じているのかと思っていた 少しビールを飲んだが半分吐きそうになった 新宿でずっと昔にニューヨークでとったものの写真展を開いたとき 写真家の土田ヒロミさんと話をさせていただいたのを思い出していた それとはなしに話題に上った 何かが次々と重なってくるのを君は写真に求めているのではないか あまり意識していなかったけれど それは今になってやっと本格的に意識にのぼってきたように感じられるが なぜこのような長い時を要したのだろう あのときは瞬間をどう生きたものとするかが自分の最大の関心事だった そしてそういうことで焦りながら生きてきた 音楽でもなかなか何かからの焦燥感から抜け出せなかったが コントラバスを続けることで何かより大きな時間のようなものをどこか保ち続けていた そしてこうした瞬間に対する一つの思い込みはこれまでずっと続いてきたのだが 何らかのずれを含みつつ動いていた いまになって写真的空間把握としてではなく 時間のまとまりという少しずれた様相においてあらわれてきた 住む空間が変化したということがおそらく大きいのだろうが それは時間概念がないという状態とも異なっていて 観念的で概念的な時間に対する物理的時間という枠がない事態 それは時空間同士を連結しているそのおそらく間にあって その地点に立つことができれば私というものもそれほどぶれないものになりうるのではないか それはおそらく実感としてより大きく広いもの 観念と情念の身体にからむ場所 そんな場所に何とはなしに私自身が近づきたいのではないか 時空間は全くもって一つではないこと 日本的な間という問題とも絡むかもしれない だがこうしたことも観念にすぎず ちょっとした契機を得たくらいで本当に実践できるものではない たとえば腐葉土の手の感触からえられようとしている直接的な実感 そうした直接的な感覚こそが根本になくてはならない この衝撃は強かった 身体に大きく働きかけた 誰もがすでに知っていたが忘れ去られたもの あるいははるか昔からあるようなものであるが追放されたようなもの そのようなものを我々はまた認識しなければならない 確かな感触とそこかしこにうまく張り巡らされた時空からの身体的退歩 それがある重層化され淀んだ密度ある時空を復権させ いまここに何かを再びもたらすならば
犬山 inuyama(17)2009
コントラバスだけ弾いていて あとは生活の機械音のほか 大体が周りの静寂と鳥や竹やぶ あるいは家族の声といった自然の音という状況下において 解放弦の音程に対する耳の高さの感覚もときどきずれてくる もうここまでやってきたのだから自由でよい 大体ソといえばこの高さだ想像することはできるが 個々の演奏家によってコントラバスの解放弦のソといったとき その言葉に対する一音に抱いている内部感覚は違う 耳の特殊な訓練を通じた技としてそれをできうる合わせることによって開ける音の時空間よりも わずかなずれから生ずる隙間のなかに身を投じていく 同様にソとレとラとミの内部感覚は同じ楽器や同じ個人のなかにおいてもかなり異なる性質を含んでいる ガット弦を用いているとまわりの環境や時によってかなりずれてきて その都度音の高さを拾い直すのだが 音のイメージは今でもまるで固定されていないことに気づく すべての音を肯定する気持ちで弾いていくなら弾いてみるまでは何がおこるかわからない こうした不確定さや曖昧さのなかで 一音から始めるという基本をいつもくずさないように弾き始めるのだが 一音の深さは時間を抑制するように抗うだけではなく 時という事態に垂直な性質を含んでいるように思われてくる 我々は時間を抑制して空間から退行し さらにどこかへと行かなければならない時代に生きている 持続された音のなかに徐々に変化の妙や深さを見いだしていくやりかたと共存して 時のまとまりをあらかじめ予兆として感じ取ることで 時とは違ったベクトルに向かうことができないだろうか それは空間的重なりや時間的重なりでもなく 時空を超えてということや 存在の否定された何かから生ずる無のようなもの そこから生ずる神秘 実際そのようなことはあるのだが 空間の入り口と時間の入り口同士を結ぶ線上にどこかにあるようなある感じ それは実は 原初的なものごとを感覚としてまるごとつかみ取るという古い古い土壌の上にある 他ならぬ土は眠っている年月の堆積されかつ循環された過程のなかにあって その感触こそが古い土壌 土を握りしめたあの鮮烈で繊細な感触を 自分にとって絶対的とまでいえるかもしれない解放弦のあの単純にして豊富な音の土壌 解放の音で一度つかむことはできないだろうか つかみとって手放すために 土なら横にあればいつもつかむことができる 庭において雨の日には雨の土を握ってみれば余計にいい 土を大地に返すように音を時空に放り投げたとき 何かの間隙のようなものが姿を現す 間隙から時空の重なり あるいはとなりの隙間をみることは我々の今を我々の将来からみることだろうか そんな予感がしているのに 土に親しんでいくような生活などどれほどしていなかったか 宇宙飛行士が地球に帰り畑を耕しているという心境もわかるような気もする それだけ頭の空想が働いたといえばそうかもしれないが 失敗もあるが静かで苛烈な思いをして何かを徒然の極のように書いて そうして弾いていけば それなりの発見と予兆の到来もあるだろうかと あやうく不安定な綱の上に立ちつつもどうにか 今ここを信じながら今日もまた竹とともにある
犬山 inuyama(16)2009
今日もまたわずかではあるが何かに積極的な身体がある この久しぶりの目覚めのような新鮮な感覚はどこから生じたのか 毎日家の前の落ち葉を竹ぼうきではいては一枚一枚の桜の落ち葉の色の変化を確かめ その微細さと多様さに驚嘆してみては 土の暖かさ腐葉土のまさにほどよい湿り気をこの手に感じ その土がなくてはならないという手の感触そのもの 言葉では言い当てることのできないある感じを 本当に久しぶりに力強い手応えとして感じているからだ 落ち葉の複雑さやこの土を握ったときの感触は身体の何かを呼び覚まし記憶と通じ合うのだが その過程で生じる途方もない言葉の空想や妄想のなかに 演奏への現実的な手がかりがあるように思えるのはどうしてか すべては間接的に身体を媒介してあらわれてくるようだ 音の次にこの音がくるというやりかた 音のいわば微分が時間を生み出して次の音が自ずからおとずれてくるというやり方 予期せぬ音に導かれるという器から離れて あるいはまた つくった音のはじめからのまとまりの姿 その積分を捉えつつ次の音を待つような作曲のやり方とも違って 音の和音でも連なりでもないように思えるが 音と音のぎりぎりの重なりそのものに時間に対するもう一つ垂直な次元が開いているように思われてきている 錯覚かどうかはっきりしないような臨場とでもよべるかのような 瞬間でもなく持続でもなく 問いが続くような音のあり方のさらに内側に入ることがどのようにできるだろうか 写真をとっているものであれば 数十分の一のなかに流れる滝と 静止しているようにみえて実は動いている木々 そしてそれらを撮って息を止めてかまえている身体の震えから 写す写されるの関係を超えた自他の同質性を 自他の区別を限りなく消滅させて観ることができるかもしれない この同質性のようなものから重なっている うまくいえないが 存在ということや いまここということとはまた違ったある入り口のあり方がないのだろうか 世界がいかにみえるかということや 世の中で生じているものごとに対する立ち位置や意識とともに歩く写真 私は世界をどう見たのか そういうことも大事だろうけれど 今の関心事は自然の重なり様その具合がいかに生じているかということかもしれない 写真もずっとああでもこうでもないと撮りあぐねている 今わかっているものや少しわかりかけているものと違うことをしてもどうかと思う 重なっている やはり不協という和音ではなく 和音ということからはなれた音の重なりのようなものどのように意識的に実現することができるのだろうか 人が自然のなかであらゆるものと重なっている その重なりそのものを象徴的に音のなかに体現していくことできるのか 偶然や必然の時間的展開 時間のアナクロニックな側面から生ずる 発見されるように経験されていく音が 人間にとってのみえなかった気づきをもたらすとするなら 音と人間の重なりのようなものから深まるものはあらゆる時間的ベクトルのうちにはないだろう それはやはり音を素材として扱うことでは全くできない そうした態度とは百八十度異なる位置にある 重なりと何度いってもしっくりこないのだが 土や落ち葉の代え難い感触からやってくるもの それはどこにあるのか さしあたりのありふれた空想をめぐらせば いつどこを問わず あらゆるものともの ものとこと こととことのあいだ もっといえば間隙を漂っているといえばよいのだろうか 間隙から何かの重なりのようなものがみえる 夏ころからどこか思っていたような間隙に立っていること うまくいえないが 重なりとはあらゆる現実や世界が遠くなるような「私」の病 離人症と全く逆にあるあり方 私ー世界 人間―世界をくつがえす あるいはそうしたくくりをなくす 自己とは無関係の強烈な手応えといってもいいのだろうか それに近いと思われるけれど 単なる身体反応でもないようだ
犬山 inuyama(15)2009
心のなか あるいは外側のきっかけに呼応して ある思いのようなものを音の形にしていくためには 少し離れた場所から何かの動きを観ることのできる空間があればよほどいいと思い 空間を横切る微小な変化を体感するために 少しだけみえるように細い枝をした苗木 影の庭にその苗を植えて雨風に揺られる苗の枝の内側のふるえる寒さや 風になびく紅葉した葉の動きその風の呼吸とのずれを感じながら 部屋のなかで直立し少ししなっている不動の竹とともにある 倒された木の年月 竹林にさしこむ隙間の夕陽を竹は何度感じてみてきたのか こうしたような一つの観想を言葉にせずに身体のどこかに溜めておくようにあいまいに言葉に漂わせる 言葉は音楽を引き寄せるためにあるのではなく 音を言葉で制限しつつ浮かび上がらせるためにあるのではなく 外側にあるものに動かされて何かに向かう内側の意思の変化を自覚するためにありメモにすぎないのだが 言葉が私という殻の内側から外へ出ていって外の音をつれてくるように働けば 何か生産的な音の連なりや気づきが生まれるのではないだろうかと ほのかな期待をよせながら今日は気の向くまま書いている それは目新しいものでなくとも どのような道筋を通ってやってきたものであるか体現された音の形であれば開かれて 形がまた音をよんでいくだろうと想像しながら 言葉は読まれ音は読まれずに 楽器をさわる手の経験上の感触とともにどこかから聴こえてきて それらは相互に作用し合っているのだが 実際弾かれた音の耳ざわりはそれ以上の予測できない形をまた導くようにあって 形を内側から洗練させなければ形は風化して幹はくずれてしまうが 音は外側にある 洗練が音によって予期できない変貌となり 形自体が時間に溶解することによって一度忘れ去られ 離脱しては脱皮しちがう匂いにおいて反復されていく 自然を自然としてみるのではなく じねんそのものを感ずるというよりも 自然やじねんの観念からの離脱を促すように 言葉を音の変化のようにとぎれとぎれて連ねていくのも またおもしろいが 今日は合間合間思い起こすたびに ただあの倒された多数の木々が痛々しくて 怒りに身を震わせながら 罪深い人間を代表して霊をなぐさめていた といえば笑われるかもしれないが おととい拾ってきた風に倒れた竹に象徴化させ これから彼らの霊魂を音の形にしてゆかなければ 彼らも人間も浮かばれないと本気で思っているようだ 思えば 今日の書き始めはそのような思いからだった
犬山 inuyama(14)2009
真夜中を過ぎて外は激しい雷雨
鳥たちも騒いでいる
今は人間が反省するときだ
一年間同じ道の横に見続けてきた生き生きとしていた木々たちが
開発のために目の前で次々とあっという間に根こそぎ伐採されていくのをみるのは辛い
少しは命というものを敬ってはどうだろうか
環境やら生物多様性やらいってそのうちなくなるのか
自然と人間の共生と国家間でうたってみても
ラディカルにいうなら
この世界史が記憶そして強い反省のもとに一挙に神話化されるくらいでなければ
何もかわらないのではないか
自然と人間とが共生していく 妙ないい方にきこえる
自然か人間か つまりはそういっているに過ぎないのではないか
都合の良い必要なものを選び 不都合で要らないものは単純に抜きとる
管理の仕方ひとつとっても反省すべきことはいくらでもある
世界に対して古来の自然観や多様性に恵まれたこの豊かな自然を
日本は今 真に誇ることはできない
今日は雨のなか突如思い立って
風に倒れた竹を拝借してきて
部屋の片隅の掛け軸の横
動かないように
部屋の床から天井に貫くようにたてた
青緑色をしているがだんだんと色褪せて朽ちていくと思う
節のこぶはこぶでありつづけるだろうが
風貌をともにし友としていきたい気持ちだ
そしてこの竹は今の私を照らしている鏡だ
犬山 inuyama(13)2009
冬の訪れは新しい友の訪れのようだ
一昨日は竹林の間に沈む潰れた太陽のように
地面すれすれ透明に輝く欠けた月があらわれた
昨日の小庭の石はだんだんと雨に濡れて光り
微かに白く色づいていた
今日の竹は風にしなり薮は空に吠えている
時は想っているより
遥かに長い
静けさのまんなかに身が
一つひらかれていく
一歩外へ出て
冷たい大気に触れてみれば
孤独の香りがそこらじゅう漂って
からだにしみわたる
時に身を浸すことができればきっと
冬の香りと語り合うように
たっぷり寝ることができるだろう
犬山 inuyama(12)2009
空間が変化することによって
同じ空間内において時間の溜まりが生ずる
この時間の溜まりが押し出す力は圧倒的に思えるし
個人の力は及ばないところにあるようにみえる
音楽でいえば音の色彩変化やリズム
写真でいえば写された画面の密度のようなものだろうか
瞬間の持続
どこかで暗躍しているこうした意識あるいは無意識を
もう放棄してもいいのかもしれない
今ここという場所と瞬間を刹那的に狭く捉えながらどうにか持続させて未来へつなげていくことは
現在を乗り越えるための一つ一つの挑戦の積み重なりでありうるが
人的作為、自家中毒的な持続のまま終わりかねない
一塊になった現在というまとまりとその重なり
時の連なりからためだされた
時の重なりのなかへ潜ってみれば
現在と判然とは区別できない過去という時間の運動から
ありうべき現在が自ずから抽出され如実にあらわれるかもしれない
現在とはより広いものである
そして現在を広く視野に入れつつ
柔軟に過去を呼び起こしていくことは
ある慎ましさを生活に呼び込むように思える
慎ましさは
瞬間の持続や時間的連続の日常の裏側にある時間の澱みと溜まりを
生活空間の一部に感じることから生ずる
空間的変化はその時間の性質を端的に最も体感させる
思えばもう20年以上前から生物多様性の問題と環境問題が指摘されていた
このことについても権力ということと同じようにくすぶり続けていたのだが
環境問題も人を取り巻く空間的変化においてようやく
人の生活意識にあらわれるようになってきているのかもしれない
昨今取沙汰されるようになった生物多様性の問題の主題は大きく分ければ
人間が環境の一部として空間に過剰に介入していること
生物が空間のみならず時間的過程において複雑に存在していること
ごく基本的なこの二点を今ここにおいて地球に問うことだろう
しかしながら少し聞くだけでも問題は複雑を極めていて見通しは極めて暗くみえる
ある少女が代表会議で訴えていたように
大人たちは利害関係で頭がいっぱいで
ものごとの本質を単純に捉えることがなかなかできない
一つには
みえない場所からみえない資源を搾取することでゆとりを得ている場所ほど
生活における本質的な慎ましさということを意識して
それぞれがそれぞれにおいて実践していくことだろうか
慎ましさをもって時間を過去にさかのぼり
個々人が現在を様々に照射してみなければならない
犬山 inuyama(11)2009
本人が生前望んでいなかったとしても
一つの権力の頂点に立った人の追悼会には数多くの人が集まる
そういう偉大な方が亡くなっても
個人的な付き合いやその位置関係のなかで在りし日の姿が
各々の胸の内で各々の形で思い起こされているに違いない
だがこのときその姿は自分のなかの記憶にすぎないのだろうか
そしてそれは二度とやってこない過去の感傷のうちに溶け込むのだろうか
身体は亡くなっても心のなかにその人が生き続ける
それだけのことなのだろうか
そうではない
人の死は過去ということそのものを提起させる
権力者の死はとりわけそうかもしれない
このとき過去は同時に
いわば時間の犠牲としての姿をみせている
明日の彼岸花は今日の彼岸花だろうか
今日の彼岸花は昨日の彼岸花だろうか
ものごとの変化が時間を本当に規定するのだろうか
そうとも思えない
変化そのもののなかにある大いなる一つの動き
動きという静止
動きの否定としてでなく
時間の否定としてではない
時間が自ら犠牲となって化身した静止体
それが過去というものの感触に近い
時間は動く静止体
そこに一つの世界が存在しているのだ
ノスタルジーとは時間の犠牲
過去の一切の分け隔てのない世界そのものだ
過去が時間の犠牲として
自ずから一つの世界を形成する
その末端かどうかすらわからないどこかに
ある余韻を残しながら今がある
権力機構の全く存在しない人間社会はないだろうが
犠牲は権力の最も凶悪な形式である暴力と様々な意味において対をなしているだろう
決してこの社会のなかで私の時間が犠牲にされたのではなく
犠牲にされた時間すなわち過去への単なる郷愁でもない
本質的で決して回避できない
不可逆的な時間の犠牲
さらに犠牲の不可逆性が
そこにただあるのだと気づく
しかし時間の犠牲としての過去に一つの世界を感じ
その世界の痛みを感じたとき
今という時間の生を分かち合うということが
はじめてあるのではないだろうか
一人の死を追悼することは
その死を悼むことのなかにこのような静止された犠牲としての過去
経験されたそして想像しえたすべてと余白
その総体を受け止め
今ここをみなが分かつことなのではないだろうか
写された写真は過去を今に映しだす
影を撮る行為は過去を時間の犠牲として今に送り返すことだ
それは光の犠牲としての影に再び光を与えること
時間の犠牲としての過去を今に分け与えることではないか
いかなる映像もそのことを離れて何ものをも象徴しないのではないか
音楽や神話は時間を抑制する機械だとレヴィ・ストロースはいったが
音楽は過去、時間の犠牲をどこかにいつも
今の音に象徴しているのではないか
過去が音を通じて
その流された血汗が神話化されるとき
余韻としての一つの未来
静止した時間の姿そのものがあらわれるのではないだろうか
犬山 inuyama(10)2009
昼休みに木曽川沿いの道を少し歩いた。夏の疲労が蓄積されると心の癒しを求めるように、手のついていない土の上を歩きたくなる。強い西日にも秋の気配が混じって感じられるようになった。川が青い空を反射している。川の向こう側遠くには、なぜこんなところにあるのか現代風のタワーのような建築物や古びた工場がみえる。風が吹いて腰掛けた場所から程よい距離にある蔦の葉が次々と裏返されると、裏の葉の色は表の色よりも濃いのだと気づく。深く光り輝いてちらちらと揺れるのをみていた。京都で蝉の音を聴いたような素晴らしいひとときが視覚的に蘇ってくる。風は勝手に強まったり弱まったりしている。影のなかの光、抽象のなかの具象、心のなかの身体、物質のなかの精神、そんなようなものをどこかで想っていた。とても美しくてずっと昔の日本の光景、それも夜の月の光に照らされた荒野の風景すら憶われてくるので、風の音も含めて蔦の様子を録画したいと欲が出るが鞄にはカメラもなかった。あきらめて代わりに出して飲んだ水のおかげで、そんなことはすぐにどうでもよくなった。夜の帰途、車中でビルスマのバッハを久々に聴く。前よりもずっと耳がついていく。昼休みのあの休息の、昨日ひいてはいけない風邪をひいたおかげ、不意に与えられた休息は命の源だ。
犬山 inuyama(9)2009
影 光 涙
空間から影をみるのではなく
影からみれば空間はどんなにみえるか
空間の少しの偏りから漏れだした
非対称な空間からはみだした影
影はみたところうすく実体がないが
影のなかに入って影を深く漂っていく
影に充満するひたひたした何かを通ってその迷路に息を吐いていくと
影のなかの存在
影のなかの光が
いつともなくうっすらと顔をのぞかせてくる
影のなかに揺らぐ何かがみえたとき
ほのかに聴こえてきた
そこにどことなく察知されていた
影のなかの影が
影の光となる
言葉をまだもたない幼児の一聞して幼稚なリズムと旋律に
時にとてつもない深さが宿って聴こえるように感じられるのも
旋律がそうした影とともに歩んでいるからだ
あるいはまた
言葉をもたない幼児の身体こそが影と光のまさに間にあるからだ
影をみてそのなかを想像してみることよりも
影は身体が入っていくときその奥行きをあらわす
たとえばバッハの音の空間は
このような影の働きに似ているように感じられる
はじめから影をみようとせず
そこにみえないものがみえないままに身体が入っていく
影のなかの影を感じ
影のなかに漂うその微かな明るみをこの身体が追うように弾いていく
バッハは存在の裸体にぴたりと着物を着せているようだが
まさにそのことによって身体の動きによって生ずる着物との隙間
どこかに生じる歪みによって
その身体の一部が微かにみえることがある
楽譜の妄想を捨て去り
合理性のなかに非合理を感じ
対称に自ずから生じた非対称を感じる
しかしひらめきをもって構造のなかの偉大な秘密の鍵穴を探そうというのではなく
その影から自らの光をつくりなおそうというのでもなく
その影に身体が入る
影のなかの光をみていくことによって
空間を本当に外側からみることができると感じる
そして光によって作り出されたみえない影の中に入り影のなかの影をみいだす
影のなかの何かをただ追っていくように弾いていくと
当の空間自体が
影へと反転するときがやってくる
そのとき光の束からこぼれ落ちた光
影のなかで再びそうした影の光が萌芽する
その身体的顕現が時にどうしようもなくやってくる
あの涙なのだろうか
遠いところから自己をずっとみている何ものかを横に感じながら
影の襞にそうように経験された一回限りの音は
光が影を通じて結晶された一粒の涙
いわば生の権力から逃れでた光の涙を誘う
私から流れ出る涙を私は本当に知ることはない
光の涙はおそらく
影だけがしっているのだ
犬山 inuyama(8)2009
もやもやしてあいまいなものごと
行為の契機はそこここにある
それは不気味な存在そのものかもしれないのだが
写真や音や言葉においては
不気味さがあたかもそこにあるかのように
わざわざあぶりだして醸し出すようにしなくとも
不気味さそのものから何かが
それぞれのあり方でそれぞれにやってくる
各々は各々それ自身が当たり前のように不気味さを抱えている
そうした不気味なもの裸の存在に向かって
この身体を通じて言葉や音や写真という何らかの作為を加えるというよりも
根源としての存在の能動的な自己としての働きが
他者としての存在へと与えらえることによって
存在そのものに自他が触れるための行為として
各々の行為はあるのだろう
待つことは自らが他者として
存在の働きを受け取ることであり
与えることは
自らの存在の能動性を惹起させることである
ここにおいては作為と無為は
そして偶然と必然は抜き差しならない関係にあって
互いが互いを非常に厳しく見張っているようにみえる
そして努力して生き続けるということは
忍耐の持続による蓄積の達成としての勝ち負けということよりも
待機の持続による不断の賦与としての過程としてあるだろう
それは生の苦しみや楽しさを
たとえそれと意識せずとも自他が広い形で分かち合う場
賦与の到着点としての場が次々と結露し
それらが自ずから生じるためにある
だがこのように真に存在に向かい合いながら触れ合うためには
いわば作為と無為の中間体
偶然と必然の間領域
権力に垂直な身体がやはり必要なのである
とりわけ臨床の場においては
人間自体がそうした存在として
そこに立っていなければならない
他者の臓器を本来は拒絶する身体に移植し生着させる臓器移植
この現実に真に身を開くには
臓器という物質的側面をめぐる問題
それに絡んだ経済的問題および倫理的課題や情報公開の問題ということ以上に
存在としての身体
自他という根源的な課題
生きるということが待ち続けることによってその存在がもたらされ
他者に与えるという不断の努力をともなうこと
生は何らかの苦しみをともなうこと
そうした今どこかに隠れてはいても何かの行為によって顕現されるもの
意図されざる生の過程と知られざる価値
それらが人々の間で十分考慮され共有され十分に想像されなければならない
今はそう感じているのだが
私の世代は人間の存在様式の大きく変わる過渡期
その色々な挟間におかれていて
次に何をどう伝えていくかということを思いながら
何はともあれ各々が各々の場で各々の行為を通じて
次を支える土台について真剣に模索しなければならないのだ
犬山 inuyama(7)2009
岐阜駅の南側
加納宿というところをたずねた
とても遠い親戚と初めて会った
ついさきほど今日のニュースで流れていたが
御巣鷹山の飛行機事故の年に私の祖父母はともに他界した
全く思いもよらなかったが古いアルバムをみせていただいた
東京で一緒に過ごしていた祖父母の若い頃の非常に古い写真がでてきた
はじめに思ったのはなぜかわからないが
これは当時の普通の肖像写真だろう
故意を交えて撮られたものではないだろうということだった
実生活がどんなものだったか
無論本人達にしかわからないのだが
その一枚の写真から喚起されるものは豊かで
若い祖父母夫婦の幾重もの立体的な実像であった
強い実感がともないはじめ
遠い親戚の家という微かなつながりが後押しして
身体の記憶が連鎖し始める
あの夏の祖父の死臭が鼻を裂くようにやってくる
そこから死の間際の出来事の記憶が蘇る
木の階段を家族が上がる足音
扉のきしむ音
畳の肌触り
当夜の月
壁にあった眼底のパネル写真は宇宙の内部のように心に映っていた
そしてあの日の祖父の最後の脈
この親指で直に感じた感触
15歳のとき曲がりなりにも漠然と医者になろうと思った契機は
脈の徐々に衰退していく律動の
生死の境界に祖父がまだ漂っていた
祖父をまだ生かそうとしていた
あの力なのだった
臓器移植が事実上進んでいるが
この指の感触とはいまだ折り合うことがない
各々の家族の気持ち
とりわけ気になるのは移植手術に執刀する医師たちは
一体どのような気持ちのなかに立ってあるのだろうかといつも思う
そしてほんの数秒の御巣鷹山の遺族のニュース映像が頭から離れようとしない
犬山 inuyama(6)2009
上田秋成展をみに行った京都の帰り際
少し高いところにある寺へ足をのばすと市内を見下ろす位置で足が止まった
蝉が次々と重なるようにないているのにひきこまれて木陰で腰を下ろす
真昼の地獄のごとくの暑さのなか蝉たちの発しているに違いない運動の連続体
儚い蝉の命とひきかえに云々
羽の素早い摩擦の速度とリズムそして強弱 共鳴する腹腔の空洞云々
想像したくなってもどうにかこらえて冷冷とただずっと聴いていた
蝉の鳴き声なのではなくないている蝉でもなく蝉をきく私はなく私が蝉をきいているのでもない
わかっているようでわかっていないあの領域あの間のなかの何か
考えていても考えてはいない意志していても意志してはいないあの曖昧な何か
だが何もしないであるがままに聴き入りそこからどこかへ導かれていくように
ありのまま実体のない何かが実体のないどこかへと時空に入っていくことが
一つの存在の真理を呼ぶそうしたとき
まさにこの真理に抵抗するかのようにふとどこかから
私のなかの意志がわき上がり今ここに私という覚醒の連続が訪れてくる
覚醒そのものが時空に溶解しだす
我に返る
音という事柄は一つの真理
時に暴力的なまでの真理を呼ぶための
ふとした契機をなすようにあって
音に対して謙虚になることが一つの真なる何かへの導きとしてあるにしても
そのようにして存在という次元に降りていくとき
存在の真理のなかに完全に没入しようとしない私
おそらく権力ということと絡み合う私の意志がそこにあらわれてくる
それをふり払おうとすることよりも
その意志を他ならぬ私のなかに受容する
受容する意志のなかに私を再び意志していく
その動きのなかに私という人間としての個体の
自然の真理が出現してくるように感じられる
蝉と私の関係性のなかにはなく
あの広大な無意識の領域にもない
鑑賞のなかにも想像や創造のなかにもない
だがどこかで働いている一つの動きが生じて
蝉を聴いたという偶然が存在から独自の形を与えられて必然と化した
創造者も鑑賞者もないところから
あらわれてはきえていく何か
三次元的に達観することを避けつづけて
二次元的に存在そして自然とむき合って何かを行為していくことは
自らのうちにある権力とそのあり方について徹底していくことに他ならない
そこから三次元へと偶発的に紡ぎだされる何か
あるいは達観せずにかつ三次元的に何かを紡ぐ
自らに受容された意志から生ずる何か
表現し行為することは
存在という一つの絶大なる力への抵抗であると同時に
人間が今を生きるための切実な世界の構築でもあるだろう
少しずつではあるがバッハを相変わらず
何度も同じ曲を飽きることもなくひいていると
蝉との出会いの経験のような音の動きを自らの身体に発見しつつも
とある身体の方法から逸脱できない
さらに逸脱することがひとつの大きな足かせになる
方法を方法として大事にしつつ方法に縛られないことが唯一の方法であり
つまりはただ弾く
意志を受け入れる意志を貫く
このことの困難さがいつも課せられていると気づく
くねくねとしまりのない音や言葉にしていくことも
一つの方法であり過程でありつづけるしかないが
振り返ってみればそれも仕方がないというよりは
存在に対峙する意志の持続としてあるように思えてくる
上田秋成「雨月物語 白峯」
その出だしの西行の同行描写はあまりにも見事だと思う
そこには言葉だけが
時空のみがただ存在しているようにみえる
だがそれはいわば言葉が生ずる手前のインファンスの身体の無垢なる純粋さなのではなく
人間の意志と存在・実存としての運命との
二次元の水平方向の葛藤が自ずから三次元へと垂直に踏み出す
その人間の自然の力によって言葉がただ紡ぎだされ
深い経験と広い学習から言葉が推敲され構築されているからである
人間の道を歩むというよりも
人間の自然を変化しながら貫いて死した秋成がそこにいる
その勇姿は存在そして権力ということを深く通過して
いわば古代へと通ずる姿を彷彿とさせる
だが存在と拮抗しあるいは抵抗する秋成の意志をその内側から経由せずして
雨月から異なる時空へと
古代へと導かれることはない
雨月には意志を受容する意志が透徹して貫かれているがために
その意志をみることなく
すなわち強烈にすぎる抵抗をみえない暗部に秘めながら
ただただゆっくりと
存在の裂け目
生死の境界
あの豊穣にして深遠などこかへと導かれてゆく
犬山 inuyama(5)2009
私は身体のどこかで権力について考え続けているようなのだが
このこと、つまりはきっと、私に内在している権力について
どう捉えてよいかずっとわからないで保留したままでいる
けれど困ったことに少し書いてみたくなった
少しの書物を読んだくらいのくだらない感想よりも
少しのきっかけを大事にして
先日亡くなられた大野一雄さんの踊りを
24歳のとき初めてみた
こびりついた何かを思い起こしながら
何か
もうこのときすでに消えている 刹那や永遠の磁場でなく
白い紙へ綴る手前 白い紙すら思考できない場
無が無化されるとき 何かから存在しだす
何ものか
何かから 何ものかへの 絶え間のない運動
内部に蠢動する不気味な力と絶えず闘いながら
無が無化される場 生ずる瞬き
瞬きの内部を通過しなければ
現実は真にあらわれない 自然は本性をみせない
身体が入り口へと入る 入門が出口である維持 持続
入ることが出ることであるような門際に い続ける
ゆっくり動いている 絶えず生きている ただ
あるだけの命
現実の裂け目を拾う写真
自然の裂け目に到来する音楽
社会の裂け目を担う臨床
そういってみるなら
それらの裂け目を貫く運動でありつづけなくては
自らの権力と垂直な身体にはなれない
言葉そして批評も
現実の裂け目
自然の裂け目
社会の裂け目
その裂け目に際どく生き続ける
内部感覚あるいは思考を欠いて真はない
犬山 inuyama(4)2009
先日東京へ齋藤徹さん(コントラバス)と久田舜一郎さん(鼓)の演奏を聴きにいった
これまで音と音の間はあけるのではなくつめるものと無意識に思っていた
間をつめるということを基本に待つということがある緊張と弛緩を生むのだと
どこかで確かに思っていたようだが演奏を聴きながら
それは間それ自体ではないということが次第にわかってきた
あけるのでもなくつめるのでもないことによってより伸びやかな時空が開ける
間の自然という状態があるということ
時々こうした身体の状況はこの私のどこかにも訪れてきているのであろうが
そのときそれはそれと意識されていない
間は無意識という意識の底にもない
動きであり変化の過程を担うような一つの状態であり形なのだろうか
犬山に来た直後だったか無ということと間ということについて少しとらわれて考えた時期があった
過去ずっと前には少し体調を崩していたとき
自らの頭を冷やすために木村敏氏の間について書かれたものを読んだのだが
かなり念の入った優れた分析なのだろうがどこかこの身体が納得できるものではなかった
人間は人の間とかくが
間の自然は言い換えれば
人間と自然の間ということに他ならないだろう
間の自然は
のびる枝しげる葉がいつのまにか仕切りながら交差する空間であり
川の絶えず変化する流れがもたらす持続しつつも不意に音連れてくるような時間である
亡くなった加藤周一氏の「日本文化における時間と空間」で読んだのだが
始まりも終わりもない直線的な歴史的時間
始まりも終わりもない円環する日常的時間
始まりと終わりのある人生の普遍的時間
日本文化には異なるこれらの時間の共存があるという
そして各々と関わる「今=ここ」そして「私」という出来事とその位置がある
二項対立や三項対立を超克するための考えを模索するよりも
間ということを直に捉えることは別世界に身を置くための一つの魅力的な入り口であるだろう
人間と自然の間にテクネーを聴き取り見いだしまた自らがテクネーとしてあること
本当にそうするにはよほど深い経験と意思そして柔軟性を要するだろうが
そうした間のなかに身を置くことその状態にいること
それは一個体として私が旅をしていく時空
それは私が人間であろうとすることではなく
人の間に仕切りと交差をもたらすものとして
持続する生を営み何かの音連れとともにあるものとして
その個体がいわば枝になり川になるように
あらゆる間に埋もれていきながらあらゆる間を際立たせる
そのように人間になっていくことである
蛇足だがここへきて興味を引くのはアガンベンが人間と動物について書いた「開かれ」という論考
この意図するものは間ということそれ自体が提起している何かと近似しているように今感じている
犬山 inuyama(3)2009
日々は冷冷と流転し
境目に漂いつつ
混沌としている
頭は冷冷と冴え
思考の柔軟性そのはてに
硬直した無の時間が漂う
風は冷冷とこだまし
光の照りつける庭
誰かが陰の椅子に座っている
犬山 inuyama(2)2009
良寛に「余家有竹林」という詩がある
春夏秋冬問わず林立し季節ごとにその姿を変幻自在に変えつつも
その根その心は不動である
そんなような詩である
竹が向かってのびていくのは天であるが
天は竹にとってたどりつくための夢か発見すべき実在か抵抗すべき存在か
そのどれもか天などそもそもないのか
だが土があれば筍がでてきて竹は増える
そして竹は地から浮いたら生きてはいけない
次々と診療にあたっていて否応もなく臨床ということその感覚を鍛えていくと
ヒポクラテスを出すまでもないがテクネーということに通ずる
医学ということと今ここの統一された場において
一つの真理を発現していくための柔軟で粘り強いあり方
私なりに大袈裟にいえばテクネーとはそんなようなことになるかもしれない
科学的手法は西洋医学の依って立つ方法であり
病因に基づくあるいは現象から類推される分類であって
それに乗っ取った実践は現在主要な位置を占めているが
その分類を見極めるのは未だに極めて困難なこともある
一方でこの実践とは別種の乗り越えられるべき困難
まさに現実的な矛盾が大きく介在している
そうした場のなかに常々身を置いている
自然とりわけ他者という別個体の自然を相手にすること
自然とは人間の情念や感情を含むダイナミックなものであること
病いという自然の合目的性の分岐点としての一つの起源を見いだすこと
起源に立ち返ってその人の自然を包括的に想像すること
自らがその場に存在する自然であることを自覚すること
それらが同時に生じている場が臨床だろうか
思いつくままに書けばそのような感覚を抱く
たとえば西田幾多郎が絶対矛盾的自己同一と言い表したものは発見したり目指すべき観念なのではなく
西田の行為と場の論にもきっと通ずるのだろうが
臨床という事態がある限りすでにこれは常に実践されているという点も自覚される
臨床とは包括的にみて何だろうか
どこにあるともわからぬ天に向かって徐々に幹をのばし
毎日地を這い腐るまで土に根を張っていくのみであるが一人になった今
もう一度私の仕事がどういうことなのか深く認識しないといけない
曲がりなりにも小さいながら仕事をしているのであれば遠い先人たちの努力
その本来のテクネーを微力ながら無にするわけにもいかない
そして西洋医学の歴史は困難に次ぐ困難のうえに成立している
すなわち大きな努力とともにある大きな犠牲のうえにあるのだ
川喜田愛郎氏の「近代医学の史的基盤」を再読してみたい
私にとってはこのような勉強は医学生以来だが
こうしたことは大学という場所を離れてみなければできなかっただろう
犬山 inuyama, japan, 2009
大学浪人のころ、ディルタイや西田幾多郎の生の哲学にひかれた時期があった。ぶっきらぼうに言えば彼らが人間から人間を対象としているのに対し、医者でもあった三浦梅園は、自然から人間をみつめて考えていたように思う。
人間や人間の文化的生活圏から内なる自然、人間の根源を見いだし、その自然を自発的に自然発生的に外側へと結合していくような態度と、外側に確固として存在している自然と協和していくような人間の文化のあり方をその都度捉えなおしていきつつも、常に横たわる根源を問う態度。両者は表面的には似た形をとってはいても、内的に掘り起こされる力の質や方向性が異なるようにみえる。前者は私が通過しなければならないような道としてやはりあるであろうが、後者のあり方は外側からの多くの問いが含まれるが故に、やはり今なお興味深い。
ここ犬山においては文化から自然への移行がまだ残されている。田畑や竹林や川はその境界に位置しているが、木曽川もせき止められて鵜飼の行われている家の近くの場所から少し上流にのぼる、あるいは下流に下ると川は様相を変える。今は城の近く、いわば文化圏の中においてより人工的に近い自然のなかに住んでいるが、もう少し下流に近い場所に住んで川をそして街を見つめなおしてみることができたならばどうかと想像している。下流近辺もまさしく自然を破壊してつくられた家々やビルなのだが、わずかに元来の姿が対岸に垣間見えるのが大きな救いだし、木曽川の流れそのものが塞き止められてはいない。
ここのところとても忙しいが、木曽川の大きな流れを帰り際にみていると、何のために今ここにあるのだろうとふと思う。人間や人間の感覚、人間にとっての世界ということを超えて、自然を軸として今人間の所有している文化や科学を相対化し、その位置を謙虚に修正し自然および世界へ解放して、アートとしてではなくその元来の語義であるテクネーとしていくと考えたとき、医学や音楽や写真はどのように捉えられるのだろうか。私の学生時代から続く根本的な漠たる大きな問いは、おそらくこの時代にとって必然的なこの当たり前の問いであるのかもしれない。
レヴィ・ストロースが現在人間をとりまく環境について、最晩年に非常にわかりやすい言葉で明快にインタヴューで語っていたのは新鮮であった。ルネサンス以前の人間の世界観がいかなるものであったか、より複雑な形で知ることができれば興味深い。私の環境について抱いているあいまいな意識の化けの皮がはがされた思いがした。この時代にとって当たり前のことはそれだけでもう、ごまかしようがない。いくら覆ってみせてもすぐに化けの皮がはがれる。化けの皮こそが当たり前のこととこの日常において錯覚しているにすぎない。私がどうあろうとも、ごまかしようのないものごとはやはりそこにある。
犬山 inuyama(13), 2008
この川がほんとうに好きだった
少し人工的で少し手入れもぶっきらぼう
だが微かに品がいい美しい川だ
そこに住む人々はきっとこの川を愛していて
なおかつ無関心を装っているような気配だった
ほどほどに手入れして
ほどほどに放っておくような
川への信頼感
ちょうどいい感じがたまらなかったのだ
川に面してずっと続く桜の木肌
猛暑の匂いのなか日の光が注ぎ眼が眩しくもあれば
川岸の影はグラデーション豊かだ
川は私に自分と対話する十分な時間がないことを知っているようだった
ここで楽器が弾けたらどんなにいいだろう
それが今の私の本当の夢だ
あらゆる意味においての夢
***************************************************************************************************
(追記)
8/6の写真と同じ川の写真です。今日また出したくなりました。8/6はある方が瀕死状態になって救急車も呼ばずにやっとのことで駆け込んできた日でした。ボールペンを握って文字を書くのも全身に最後のありったけの力がみなぎっていました。私にとって特別な日でした。ずっとその日に心を備えていたのですが、帰宅すると思い起こされて胸のつまる思いで心が充満しました。その日のブログに同じこの川の写真を選びました。その方が亡くなった日は8/12のことです。どなたかが書いておられました。詩は自分のエゴで自分のエゴを消すことだと。
私の言葉はまだまだ稚拙ですが、長年秘かにやってきた写真もそのような詩を含むべきものと考えます。ですが、写真を詩的雰囲気あるものとするのではなく、写真を写真としていくことのなかに詩的なものが生まれてくるのだということを忘れないようにしなくてはいけないと思います。私にとってこのブログは、まさにそのための訓練なのですが、他に向かってあることによってはじめてそのことは意味を持ちます。読んでくださっている皆様ありがとうございます。
犬山 inuyama(12), 2008
いい写真はどうしても撮ってしまうし何でも写真になるものだが作品として残すとなるとまた大分違う
私はスナップ写真を主に撮っていて
わかりやすいいわゆるありがちな写真は撮れてしまうのだが
そういう写真は強度が弱いだけになってしまうことはしばしば経験する
撮影時にこれはいい写真になるだろうと思って撮った写真は
悪くはないけれど実はあまりよくないということの方が多い
いい写真というのは難しいけれど
何か突き刺さってくるものがある(と私が思う)写真だ
その場の感動やコレだと思って躍起になって撮ってしまった写真というのは
実はあまり突き刺さってこない
私ではないもの私のコントロールが効かなかったものが写し込まれている写真がいい
だからといって構図が崩れていればいいとかブレていればいいとかそういう安易なことでもない
でもそれは私が真剣に撮った結果なことには間違いない
そうこうするうちにせっかく撮った写真たちにとてもとても厳しくなっていって
この写真には何か足りないというようなことになっていく
そうして残るのは1000枚懸命にとってもたった2,3枚ということもある
あとは全体の流れを他の写真でつくるか
そこから逸脱させるかというような遊びの精神があってもよいけれど
レベルを落としだすときりがないから
あとは何をどう救い出すかである
そしてこの救い出し作業がいい
じっと写真を隅々までみてはその写真の語ってくる声がきこえるかどうかしばし待ってみる
そうするとはじめに見えてこなかったものがじわじわ見えてくる
そこに本当の写真との対話があるし
撮ったときにさかのぼって空気の匂いをまた味わうことができる
それを何度も繰り返してあるところに不思議と落ち着くのが未だに不思議だ
このなかではこれしかないというようになってくる
前回の個展である方が「この写真はじっくりみるタイプっていうやつ?」と呟いておられたのを耳にした
私の写真はそうなのだろうと思う
ちなみにブログの写真はもっともっと気楽なものでこれはまたこれでいいと思っている
レベルが高い低いということよりも一枚一枚の写真をその写真としてみてみて
その日の体調や経験と合わせて何が抽出されてくるか
あまり統一感がなく日々異なるのもまたよいのだろう
犬山 inuyama(11), 2008
場所によっても異なるだろうけれど世間には疲弊感がただよっている。私の心が新しくなれば、私の生きる現実もやはり変わるのだが、それは社会と全くかけ離れていることだろうか、本当のところは私にはまだわからないが、自分なりに努力していく他あるまい。
仕事をしだして年がたってきて、以前とは違うものの考え方をせざるを得なくなってきた。特に学ぶ立場から少しは教えるような立場に変わってきて、さらにこの状況下、考えこんでしまうような問題も多い。
他から影響されることと他から学ぶことは違うし、他に影響を与えることと他を教えることは違う。影響されつつ学ぶことはできるが、影響を与えつつ教えるということは洗脳に通ずるから、それは十分な注意を要する。教えることは、そこに学ぼうとする意思をもった他者がいなくては成り立たない。その意味では教えようとすること以前に、常に学ぼうとする態度こそが根本的に重要であるといえる。それが深いところで教えること、そして何か大事なことを伝えることにもつながる。
学ぶことは他なるものを我がものとするというのとは違って、他に照らして自分を発見し、発見したものを深めることである。これに尽きるだろうと思う。教えることはそこに一定の権威的作用は介在するかもしれないが、他を支配したり抑圧的に接することではなくて、自らの経験を軸として他者のなかにある他者性をひきだすことであるから、非常に難しいものを含んでいる。そしてこの学び教えるということがうまく機能することは、根本的に大事な何かを伝えるということの一番の始まりにあるという意味において、不可欠なことである。
学ぶことを通じて、それぞれがそれぞれの大事なことを心から他者に伝えていこうとする意思は、人間や社会が成熟していく上で一つの必須事項ですらあると思われるが、残念ながら、目先の利潤に眼がくらんで、自分にとって大事なことすらなかなか感じ取れないような社会になりつつある。利潤を追求することが一つの本当の価値になれるような人間もいるだろうが、そのようにどこかみえないところで強いられるような状況は、人間性を狭くさせている要因であることは否めない。
学んで深まれば深まるだけ広く他をみることができる。そしてその視野において他からまた影響され学ぶ。そして教えて伝えることがやっとできるから、学ぶ姿勢と教えるようになるまでの過程が非常に重要だ。特に人生のはじまりにおいて学び教えるということがうまく機能できないような、今日の閉塞した状況において、そこに居座っている疲弊感と閉塞感を受けとめることはさらに疲労を促進させる。一部ではもうそのことは破綻を来してきていると想像できるし、疲労や倦怠感はそれだけで強度があるからその影響力と伝播は大きい。
例えばそこから逃れようとして、世間一般や社会一般というものを自分と関係のないかのごとく外側に想定して、その仮面の現実から影響される一方では、ある惰性に陥ってしまったり、一つのものが全てだというような危険な夢想や幻想を抱くはめに陥る。あえてそのような惰性に陥ることを一つの価値観とする態度もあるだろうが、そのような態度に陥ることは自己欺瞞をまねくか、自らが神となって他からあがめられるという結果に陥ることも多いだろう。
一方でそのような社会や惰性から自らの身を守っていくことも必要なのであるが、他からの影響を一方的に遮断しようとすることもやはり不自然だし、自らの信念を死守することが悪い方向にいけば、次第に知らず知らず自閉してしまって別種の惰性に陥る危険があるだろう。
また社会に対していわば科学的な分析的態度で考えてみる方法をとるだけでは、この情報化社会においては情報を選択するための情報分析から始めることとなるから、情報過多と本当に必要な情報の不足の両極において、ついには判断停止という状況に陥りがちである。判断停止は結果的に現状を維持する方向につながってしまうし、中途半端で実体の伴いにくい知識だけ貪食して終わる。判断を下すということは人間にとって最も難しいことの一つだと思うが、判断を下さなければならないときは必ずある。そこに最終的にはその人間の信念がどうであるかという問題が介在してくる。そしてこの倦怠の時期においては、人間の信念をもち続け、貫くことはもう一つの困難としてある。
世界に否応なく影響された、あるいは影響されていなくとも、少なくともその世界を意識させられた私という窓を通して、やはり何かを他から学び続けるという態度、そしてそのような信念のなかに、新しい在り方を見いだすことができないだろうか。
人としての自らの心と身体の不調は、他から大きく影響されやすい状況下にあるからあまりよい状態とはいえない。できるだけ不調である状態を最小限にするのがよいのだが、どうもうまくいかないときは大抵、心と身体が疲労していることにあとで気付く。
だが疲労ということは必ずしも悪い状況ともいえない。人間の疲労は生そのものを露呈している場合もある。そういう疲労のあり方であれば、必ずしも他人を嫌がらせなくてすむこともあるし、疲労が告白されて身体がそれを現前に暴露してしまうとき、かえって他者が率先して助けてくれることさえある。また他者のそういった疲労感を感じることにおいて、他者の役に立とうという態度もまた新たに可能かもしれない。
疲労することや疲労されられることから脱却しようとあせったり、過度な鬱憤ばらしをしようとせずに、疲労の仕方を学ぶことのなかにも積極的な何かがあるのかもしれない。そして、それは病というものとどうつきあうかという、誰しもやがては経験することと似た方法なのかもしれない。
犬山 inuyama(10), 2008
ポルトガルで去年撮影した写真(モノクロ)を今日からやっと整理しはじめた
私は単純に外界のものに反応して撮っているようだ
その過程がだんだんじわじわと正体をあらわしてくる
ここに至るまでに紆余曲折大分かかったけれど
一巡りして去年の個展で発表した昔撮った中国の写真「微明」に戻ってきたような気がする
初心にはいろいろなものがつまっていた
そのときに忠実になることが大事だということだ
そういう意味では紆余曲折もまたそのときどきに忠実であった訳で
またひと味あってそれが今につながっているはずだ
手を付ける時点でその正体が明かされるという
期待と不安のなかでゾクゾクした楽しみがある
そして写真に手を付けるということ自体に至るまでにもいろいろな過程があるものだ
写真をよくみて選んでよくプリントしていこう
その際には何度も書いているけれど写真の声をよく聴くことだ
写真というものにしかない声がある
そしてモノクロプリントはやはり違う
独特の強度がある
そんな写真がどれだけ残るだろうか
まずはこのまま時を楽しみながら深めることだ
犬山 inuyama(9), 2008
バッハ無伴奏チェロの一部を練習していて、ここ数日考えたことを書き留めておく。自分が生きることが全てだとしたら、何より過程が大事だから、あるときひらめいたり思ったことをそのまま。なぜバッハに惹かれるのかということ。書こうとしたら無限にあるだろう。
楽譜を読んでいるだけでは私の能力ではなかなかみえてこずに、とても覚えきれないような旋律部分を何とかしなければと思って、ある16小節の音符をすべて規則正しい記号にしてみる。
ある行だけうたっていくときれいな旋律
次の行もまたとてつもなくきれいな旋律
その二つが同時に併行しているうえに全体として巨大な響きが存在してきて動いていく。このことは秩序という一つの美の形への探求心をくすぐる。その秩序は数学的科学的な美的好奇心に通ずるだろう。だがそれだけではない。詩的精神がその科学的精神にあくまで拮抗して存在していることがすぐにわかる。
これは平たく言ってしまえば、音楽における極限的な、果てしなく続く頭と身体の体操にちがいない。苦悩の表現や神への賛美よりもまず、人間のもちうる創造性の一つの巨大な形がある。私はその過程を3世紀前にさかのぼって想像して学ぶべきなのである。そんなことはできないと言ってはいけない。それは深く掘り起こせば音楽のみならず科学そして科学に拮抗し科学を癒すべき詩・文学という問題、技術という問題へと導く。この科学と文学と技術という全ての問題がバッハの音楽には入っていて、かつこれらにおさまりきらないところに音楽があるように感じられる。
科学的態度と詩的精神と人間の信念を変奏していくことによって押し出される音楽、それはバッハという人間の生きた現実の映し出された「夢」である。ここのところなぜか「夢」という言葉が自分のここ数ヶ月の具体的経験にぴったりくる。夢というのはいろいろなイメージや意味があって様々に使われてきた言葉だけれど、それは私の外部の現実が同時に私の現実であることによって生ずる、いわば内的に静観され、かつ身体的に動的な夢であり、その力こそが現実を動かして何かが押し出されるような現実の一様態のことであり、私にとっての現実そのもののことである。私が決してどうにかなってしまったのではなく、見方が変化してきたとわかっている自分がどこかにあって、その自分を確実に維持できるような夢=現実である。まだ他に言葉が見あたらないけれど、書き留めるために使おう。
バッハの音楽は無論バッハの生きた時代と切り離せないだろうし、当時の楽器の構造や響きとも無論切り離せないだろう。あらゆることが一挙に配慮されてあるだろう。あらゆる微細な部分が全体のなかの意味をなしていて、それぞれの音のなかに曲のすべてが入っているようにさえ感じるときがある。
そのバッハの夢は今の時代の人間をも動かす強力な夢であることは間違いないのであるが、注意すべきはそれが強力であればあるほど人間や現実とかけ離れた夢想になりがちなことである。夢は現実としての夢であり夢想することではない。それがあくまで人間の達成した現実であり内発的な力をもった夢であったことにその都度立ち戻っていくこと。バッハ以外によって規定されてきた様々な夢想によってバッハを捉えないようにすることである。それは今の自分の夢とバッハという夢の対峙を通してしか成立しないだろう。そしてバッハの音楽は最もそのことを可能にしてくれる音楽であるように思われる。一言で言えば真に開かれている。従ってその端緒はこの一枚のスコアからバッハの夢を私が想像してみることのなかにある。
そういう音楽だから、あるいはそうしてみて想像しながら何人かの演奏家の演奏を聴いてみると、演奏家がどこに力点を置いているのかが想像できてとてもおもしろいし、ものすごく勉強になる。私は科学的精神と詩的精神の拮抗そのものがきこえてくるような演奏がまず好きだった。そういうさしあたりの自分の好みがわかるのもおもしろいし、ずっと聴いていると、他の演奏に照らして自分のなかの他者を発見できるおもしろさがある。とにかくおもしろさが常にある。自分で弾けるものなら弾いてみたいと思う理由は、まずはじめにこんな単純なところにあるかもしれない。
チェロに書かれたものをコントラバスという長い弦と4度の開放弦におきかえてやってみることは、私にとっては本当に相当の技術的困難をともなうけれど、まずはこのコントラバスという楽器におきかえてなおかつバッハにできるだけ忠実にやることだろう。それすらできないかもしれないが、まずは時間をかけて少しずつやってみる。バッハや自分の意図していないものがそこにそのとき出てくる可能性を秘めているかもしれない。その偶然や、はみでたものこそが現代とつながっている気がしてならない。なかなか苦しい楽しさだけれど肩の痛みもいつしか忘れている。あせればあせるだけ遠のく。何とか乗り越えて出来る限り知恵を働かせてやってみることだ。
犬山 inuyama(8), 2008
世間にはさまざまな人がいる
キリキリした人がいればしっとりとした人もいて
自己否定の人もいれば自己肯定の人もいる
心からコーラ大好き!
という老人がいらっしゃった
隠れて活き活きとしてコーラを飲んでいる表情は全く違う
ああバレてしまったー
その方は演技派の人だった
あるときからずっとそうして生きてきたに違いなかった
話をした
戦時中の話をしつつ
医療のおかげで老人が増えすぎたといって
私一人くらい好きなコーラをしこたま飲んで死んでもいいのではないかといっておられた
命の大切さとか命を守る使命という教義も確かにあるけれど
どうしたら悔恨なき人生を送れるかという切迫した問題が
人それぞれそのときそのときに切実にあるのだということ
それぞれの理由があるのだということ
そういう他者への想像力を根っから忘れてしまった社会は
やはり生きにくい社会なのかもしれない
犬山 inuyama(7), 2008
思い起こせばあの日
私はその人に事の推移を伝えたのだった
それまで浮遊していたことばの断片を
ことばの重力そのもので結集させることだった
それはほんの一瞬であったのに
私の心のすべての力を要した
毎日少しずつでも楽器を弾くこと
休みがあればどこかで写真を撮ること
私にはそんなことしかなかったのであるが
それは私のなかの他者の夢を現実に押し出すこと
私はその夢の力こそを信じていたのである
そうした力を結集してことばを発する
そこに伝わる夢があった
犬山 inuyama(6), 2008
蝉がすさまじく鳴いている
蝉の記憶
遠い遠い夏の記憶
中学の旅
肺がんで亡くなった祖母との一夜の語らい
可児へ疎開させた子供のこと
ベランダからみたうす緑色をしたもみじ
父に借りたカメラに装填したモノクロフィルム
電車を乗り継いでいった坂と港の街
暑い暑い夏の記憶
犬山 inuyama(5), 2008
なぜ毎日毎日こうしてここに書いているのかと帰宅電車でふと考え込んでしまった
こういうときにはわが町の米屋の犬に会いたくなる
犬にあって挨拶するだけで私がいかに小さい心臓かがわかり
たいしたことじゃないとわかる
あるときから毎日毎日できるだけ欠かさずに書いてみようと思った
それもできるだけその日の心の変化にそって
微々たる変化もことによっては巨大になるから
時に変な方向に行ったり曲がりくねったりしても
それでやってみたらどうなるのかと漠然と思っているのだろう
書くことは私が私として完結することを決して許さない
書くことは私を限定することの無限である
そのことは音を出すことや写真を撮ることと通じている
ある決着をつけることは不完全なるものの門出だ
私との出会いはまさに他者との出会いだ
だから毎日続けられるのかもしれない
正確でないかもしれないけれど
そんなようなことをポルトガルの大詩人フェルナンド・ペソアがどこかで書いていたように思う
ここ数日のせている写真の愛知県の犬山という街は
ポルトガルのポルトという街にどこか似ていた
今年冬に個展ができたら昨年行ったポルトガルの写真でやってみようかと思った
一週間だったけれどいい旅だった
ポルトガルのどの犬もほんとにすばらしい犬たちで驚くほど利口だった
犬山の犬にはまだ出会っていないが
わが町の米屋の柴犬は群を抜いてすばらしい
あいつ(ヤマトという名です)も年をとってきたのだ
犬山 inuyama(4), 2008
赤塚不二夫さんが亡くなられた。スポーツ紙の一面を飾っているのを通勤中にみた。赤塚不二夫さんと思い起こしてみれば、昔懐かしき高校時代に思い出はさかのぼった。
高校2年生のとき、文化祭の演劇監督を指名され、何か探さなければと奔走した。別役実さんの戯曲「天才バカボンのパパなのだ」の台本を紀伊国屋で懸命になって探してみつけてきて、これをやってみないかと提案した。別役実さんのことなど全く知らなかったが、何かすごくひかれるものがあった。でもクラスで承認されなかった。大半はバカボンをやること自体が不自然だというような馬鹿な理由だった。
結局ある友人がもってきた脚本、「絵師金蔵」(通称、絵金)という江戸幕末頃の絵師の物語をやった。題材と台本はそのときの自分にも響くものがあった。この物語のクライマックスで主役の絵金が権力を傘に着た絵のあり方を批判して思いをぶつけるという場面に、同じクラスだった浦清英氏のサックスの独奏をお願いしようとしていた。しかし、これまた不自然だという理由でクラスで却下された。
自然死への過程には時間がかかり、その過程においては様々な「はみだし」が生ずる。その「はみだし」を「はみだし」として不自然なものとする視点や感情が常にどこかに付随してくるのだが、それをも自然なものとして受け入れ、その流れに任せることのなかに何か重要なことがある。それは一面において辛さとあいまった異様な光景を呈することもあるが、「はみだし」を引き受けることの困難さと制度とのはざまで、冷静な状況分析と人間の感情とのはざまで、一つ一つ流れを見極めなければならない。
犬山 inuyama(3), 2008
良心の人よ
この気持ちをなぐさめるためにここに書かせてほしい
あなたはそれを許してくれるとおもうから
この一ヶ月というもの
あなたがつらいだろうことをずっと想っている
私はほんとうに思っている
ほんとうにつらいだろうに
たとえあなたが一人でやっとのことで生きてきたとしても
そのわけをあなたにきくことができなかった
きくことができればちがっていたこともあったかもしれない
でもそのときそのとき
きかないことのなかに真実があったから
今となってはもうそれをきくことはできないかもしれない
あなたがつらすぎるだろうから
あなたはいる
そのことを私は知っている
私はそばにいる
悔やむことはなにもない
私は西の地に行く前に
あなたに会いにきた
私の心はあなたのそばにいて
あなたのことを忘れない
私の涙はあなたのそばにある