熊野 kumano (16) 2010
(つづき 3 )
八村さんが「主情」というとき、「主情」とは、内部がそのまま音として外部へ放出する感情ではなく、内部が内部を通過して外部へと至る、負と負のかけ算としての正の運動の過程とその放出過程の音のエネルギー、そして音のエネルギーの無へと消え去る儚さそのものなのであり、その運動が他なるものへの糸口となるということである。
その音楽は、音色とそのつながり、無音(静寂)とその間による時の錯乱、音のイレギュラリティー(乱調)の誘発、「錯乱の論理」を通じた音の多面体(ポリフォニー)による音楽なのであって、表現主義ということではないようにきこえる。表現のもともと極まっていないところにそれを超える表現もありえないが、その個性はそのように表出するものではなく、その身体的な筋道(論理)とその音への凝縮のなかに必然的に表出されるものである。
こうしたことを書くのは当然のことながら、自分自身への課題にむけて書いているのだが、私はバッハ同様に、こうした多面体としての音楽/音とそのつながり、もたらしているものに強烈にひかれる。それはいま私が診療をしていることと決して無縁ではないとおもうし、オルガニストであったシュヴァイツァーがバッハ研究をしていたこともこれと無縁ではないように感じられる。
数多くの人を診るということは、第一義的にそれだけ外部との接触により病気や病因の解析データが増すこと(もちろん現状においては大事な方法であり実践なのではあるが)よりも、むしろ、内部としての自分自身を多面体にしていく実践として、私自身がそれをとらえているからだろう。
「一対一」という多数で複数の各々全く異なる質と場、その変化にその都度、この身体が土着的に向き合うこと。常に未来に何が起こるかを感じ、思いながら、そこから今なにをすべきかを思うこと。日本の現状とあいまって、そういうことをさらに意識させられる。
熊野 kumano (15) 2010
(つづき 2 )
八村さんの幽霊と対話する日々。ニコンで初めて写真の個展をしたとき、振り返ればそれがたとえ浅いものであったにせよ、一瞬の呼吸感の持続ということが私にとっての大きな課題だった。それは八村さんの書いていることの一部によく似ている。
「ラ・フォリア」を読むと、会ってもいないこの作曲家にただならぬ親近感と自分自身への発見を次々と覚える。氏が死去されたときのすぐれた新聞書評がいくつか本にはさまれていたが(私の両親が切り抜いてはさんでおいたものだろう)、そのなかの気になる言葉「(八村の)すぐれた指摘は、なによりもまず指摘したもの自身にあてはまる」、「人は、自分自身を発見するようにしか他人を発見できないもの」であるのだが、、、。そして、その一つはショパンを引き合いにだしていた。超表現主義などともいわれるようだが、私はむしろバッハと対比したい思いにかられる。
あくまでも気力が充実しているときにその音楽を聴くと、ショパンよりも断然バッハ的に聴こえる。多面体(ポリフォニー)としての音の表出の両極がバッハと八村さんにあるように思えるからだろう。正反対に聴こえることは、両極をむすぶ線があるということでもあろう。 うまく言葉で言えないが、少し書いてみたい。
バッハをたとえ一曲でも何度も練習していると、一回ごとの味わいがある種の色として凝縮してくる。たとえばとてもうまくいく日は、今日は深青色の一曲、今日は薄墨色の一曲というように。バッハを弾くというのに不純でなにか汚い色の演奏もあるが、それでも納得いく場合とそうでない場合もある。
曲のなかでもポリフォニーの低音部、中音部、高音部がくっきりとした和音と旋律で見事に整然と分かれており、時折アクセントのように他の一色が加わってポリフォニー全体の和音の色の雰囲気が変わり、そうして音楽の動きが時間的に豊かにもたらされるようにできている。無論、一音の音色でずいぶん印象が変わるが、空間としてのポリフォニーの構築のなかにその変化があるという印象が全体を支配している。
八村さんの場合、音色がめまぐるしく変わる。一音という音の質感が基礎となっていて、その連なりが色の重なりを意味し、連なりと連なりの間にある無音は、音の連なりの混在された色の残響を残しつつ、それが消える。そして次の色の音、色のつながりがはじまる、その残響と音の開始が無音の間のなかで混在しているような印象だろうか。未来へと進んだ色の音色が、残響が瞬時に次の音色にまたがる。これが未来と現在の音の混在という印象をかもしだすのかもしれない。
その未来は聴き手にとってはおそらく単なる音の記憶なのであるが、たった今、数秒前にこれだけ鳴ったという過去形のなかに、矛盾をはらむように未来からの運動、あるいは未来への解放性(狂気のなかのぎりぎりの自由、釈迦の不自由に隣接する自由にも似ているだろうか)が生じる。そのすぐあとの音がその「未来としての音の記憶」をさらに印象づけ、新たな音のはじまりが今現在となって続く。
音が宇宙へと上へとのぼって希薄となり自由になるのではなく、音は地を這い回り、未来が地に練り込まれるのである。 私には常に音が未来からやってくるように聴こえるのが不思議だ、音が未来から過去へと流れているのだ。
こうした音楽の錯綜した時間のあり方を非常にひきのばして巨視的にみてみれば、 未来の音のあり方のヒントは、 古典を通じてもたらされうるということも理解される。過去をそのまま今に応用するのではなく、過去から他ならぬ未来を学ぶ態度がなぜ大事かということも同時にわかる。
熊野 kumano (14) 2010
(つづき 1)
譜面どおりとはいっても、作曲されたもののなかの演奏家の即興性も一つの大きな前提となっている。作曲行為ではあるが、演奏家との共同作業的な面が強く、それは作曲家としての質の高さは無論だろうが、演奏家の質の高さ、いいかえれば演奏家の音への普段からの態度がいかに密度が高いかによって、出現した音楽空間の密度がそのまま決まるように作成されているようにみえる。八村さんと対峙しながら何かを教わったり、曲に借りて自らを表現したりするというより、八村さんと一緒に音を進めるようにひくと、その作品の魅力が発揮しやすいのではないかと私には思える。
作曲家としての個とすべての演奏家の個のつきぬけた場そのものによって、場のなかに浮かび上がる音が多面体を呈し、作曲家と演奏家を超えて呼吸しだし、それが聴衆に自由に開かれることにより、聴衆が音をあらゆる方向からとらえることによって、時空が多様に変化していく。その作曲行為による音楽のあり方はそのような、まるで非常に熟練された即興の形と近接して位置するようにあるような作曲の方法であり、瞬間の持続的呼吸が印象付けられる。
八村さんのようなアウトサイダーから発見する何かは、音楽のジャンル分けをこえて、音と音の糸をつなぐということであり、それは個が異様な強度をもった個性となり個が個をつきぬけるとき、内部の音の糸が人間の糸をつなぐということであろう。八村さんは非常に寡作だったのも、異様な個性の表出への厳しさが作品数を抑制したということだろう。
個々の音が個々であることに、各々の人間が各々の立場で相互に注目することによって、ある重要な微細なサインおよび変化をみのがさないこと。それは量の論理が一つの質の個別性と特殊性を覆わないあり方であり、質の深みから糸を紡ぎ、どこかの未知の糸、あるいはいまここで私の知らない糸とを最良の形でつなげるあり方である。このことは臨床医学にも応用しうる。
医学の手法に言い換えれば、医学において何万人ものデータのエビデンスを基礎に普遍を結論づける手法よりも、たった一つの非常に特異な疾患と症例のふるまいから、眼には見えない病因の糸を探り当て、糸が糸をつなぐように現象の底にある普遍の生体の糸をさぐる方法を八村さんはとったということである。
過去の経験と分析を現在にあてはめて適応していく応用のあり方ではなく、過去を未来という未知、いわば過去の幽霊をひきだし、幽霊をいったん浮遊させ、その未来を現在にひきよせながら、現在を来るべき未来と混在させつつ実践していくあり方、過去によって規定される変動のなかに定まった未来を今が受け入れるというよりも、今の実践が、常に未来を変化させうるあり方。音は過去の積分ではない。だが、次の音は今の音の微分でもない。今の音にすでに未来が含まれている、というより未来が積極的に今の音に宿っているような音の印象だろうか。時間の錯綜が静寂を基調として漂う。
飛躍かもしれないが、たとえばそのあり方は、未解明の低容量の放射線被害による発癌が将来生じるまえ、あるひとつの特殊な症例からその影響の特色を呈する重大なヒントを見出し、すでに起こったことをもとにレトロスペクティブにあるいは確率論的に検証する(そのときはもう遅いのだ)まえに、事態の推移を微細に予知し、未来に生じるべき様態をあらかじめ察知する(そしてこの場合それを極力回避しうる)ようなあり方を導くことはできないだろうか。
それは科学的根拠の再現性を待たない行動であり、未来が現在にいながらにして現在を決定し、その現在がふたたび、過去へではなく未来へとかえされていくあり方ともいえる。それはたんなる予想や想定ということではない。科学が今後進化するとすれば、その実証的方法が身体感覚(道元ならば、いわば感覚の論理、八村ならば「錯乱の論理」 (八村さんの曲のひとつのタイトルである) といえよう)を言葉(脳)の論理と等価同質に、かつ連携的に扱うときである。
こうして未来と現在が整然とせず分別しがたく区切られないことによって導かれる、極力にまで高められた緊張と密度の身体ー「錯乱の論理」。その音楽が澄んでいて厳しいのは、その精神がこのあまりにも内的に透徹した過程によって貫かれているからである。(作曲行為は言うまでもなく多くの音楽的背景と考察を経ているのだが。)このコンサートの表題のようにもし八村さんにアジアをみるなら、こういう見方が私にはしっくりくる。それのどこがアジアかと問われれば、うまく答えられないのではあるが。
それにしても八村さんの自作自演がないものかと思いながらも、コンサートのラスト、八村さんの残した晩年の曲「Breathing Field」を聴いていた。パーカッションとハープの演奏が良かったので納得できた。この終わりはやはり氏の死を予感させる。
エッセイ集のなかのインタヴューで、今後何を題材としたいかと問われ、方丈記と雨月物語をそのなかに上げていた。帰りの新幹線のなかでこれをみたときには、八村さん自身の幽霊を我が身に感じた。今、八村さんが生きていたらどんなことをしていただろうか、思いはさらに募る。
熊野 kumano (13) 2010
先日、作曲家の故・八村義夫さんの曲を初めて実演で聴くため、「八村義夫とアジア」と題されたコンサートを聴きに国立音楽大学へ行った。そのときに思っていたことをラフに書いておきたい。
八村さんは近い親戚だったが一度も会ったことがなく、私が中学生のときに若くして亡くなってしまった。母親の話によれば、癌家系で本人も癌で亡くなられたという。今回、三曲が披露された。行く前日に、演奏の水準も非常に高いと思われる代表的な三枚組のレコード「Breathing Field」を聴き、音大につくまでの電車のなかで二日かけて、死後にまとめられた八村さんのエッセイ集「ラ・フォリア」を読み返していた。
演奏が始まる前には、エッセイ集のなかに蓄えられている作曲家の魂が私のなかに強く響いていたので、音のイメージの輪郭は私のなかにはっきりとあったし、またそれが私のなかの音のイメージでしかないこともわかってはいた。だが八村さんの場合、私はそれで音を聴いてもよいと思っていた。そして聴きにいくのであれば、それぐらいの準備は最低でも必要だと感じていた。
ホール客席のど真ん中に座ったとき、今は亡きこの作曲家に会いたいという思いが強烈につのっていた。そういう感じだったから、いうまでもなく期待は大きかった。一部の正直で真摯な演奏家をのぞいて、実際の演奏は過度な期待感を差し引いても正直言えば決してよいと言えるものではなかったが、いま鳴っている聴こえてくる音から何かを得ようと思いながら音を聴いていた。
途中からは他の作曲家のもの、新進気鋭とされる作曲家の作品も含めていくつか演奏されたが、作曲家はともかく、演奏家は何をどう考えて音楽というものをしているのかということが、困ったことにいつしか、私のなかでその日帰宅するまでの最大の疑問へと変わりはじめていた。八村さんのことはおいても、日本の「現代音楽(ゲンダイオンガクと書いた方がよさそうだ)」というものは一体何のためにあるのかと思いながら、時はむなしくすぎた。コンサートが終わり、それはやがて私自身への問いへと広がっていた。
音楽にとって、作曲家よりもむしろ、今ここで音を奏でる演奏家とその聴衆のあり方が、音楽という経験そのものなのであり最も大事なのだということを理解していれば、演奏はあのような音の形にはならないのではないかと感じたのがはじまりだった。技術的に困難な面は大いにあるだろうが、作曲家の作品を演奏家がそれなりにうまくなぞって再現し披露する、それが作曲家の作品を奏でる音楽の目的だとすれば、明らかにむなしい。
作品と対峙している演奏家とそれを聴く聴衆の、そのときその場の音を聴くという身体的強度がなければ、その時空には何もおこらないに等しい。演奏は、この今に本当に対峙していたのか。思い入れの強い私にはそうは思えなかった。
八村さんは本人の合唱曲の作品の題名にも一部あるけれど、本人が「アウトサイダー」だったのだろうと私は思う。閉じこもった自己憐憫的な「ゲンダイオンガク」には距離をおき、音楽についての幅もジャンルということに分け隔てなく広く考察していて、何より言葉が的確であることはコンサートのパンフレットでも指摘されていた。音楽のアカデミズムにのっとった演奏の態度ではかえってその良さは出ないだろう。
その作曲の最たる特色は、多面体として提出された音のつながり、その呼吸感の持続というべきもので、はじまりから終わりまで音の密度が高く、多彩な意外性に富んでいる。久々に、あるいは初めて聴く場合、作品の終わり方が驚きである。無論、演奏の質にもよるが、ああここで終わったのだな、それは意外でもあり納得もされるような不思議な音の終末であり、呼吸は沈黙のなかをしばらく漂う。
音の最後は、音の死とはどうあるべきかという問いと向き合っているように今の私には聴こえる。死へと向かう錯乱と死そのものの静寂が混在している。未来と現在がともにここにあるという不思議な感覚におそわれるのだ。現在に出現した幽霊がー音に化身した過去の何かかもしれないー未来のなかを生きている、そういう感覚に。
熊野 kumano (12) 2010
他なるものを感じ想像する心は、動物の慈悲ほどに尊い。釈迦尊の動物への言葉は、なんともいえず、感慨深い。なんともいえない。
先日テレビを疲労を紛らわすようについついみていたら、ある番組で紹介されていたナショナル・ジオグラフィックのシーンが心に残った。ヒヒに捕まえられ、いまから食われる子鹿の眼はすべてを悟り、動じずあまりにも澄んだ眼で死を受け入れる。ヒヒとの決戦に勝ってヒヒを食べたヒョウはヒヒのおなかの赤ん坊を見つけ、枝にのぼりかくまって慈しんだ。だが赤ん坊はその夜、凍え死んだ。哀しさのなか動物は淡々と生きる。食物連鎖や生態系(それも人間の側の言葉に過ぎないのだ)をみだりに乱す人間の欲のおこがましさ、思い上がり。カメラは冷静で冷酷にもすべてを捉える。はるか遠い未来の人間は慈悲や思いやりを世界の価値観とするだろうか。
釈迦尊のことばを少しよんでいるとこの身はどんどん小さくなって、なくなってしまいそうになる。意識が意識を凌駕するというより、意識はどんどん小さくなる。ジャコメッティの小さな歩く男はちょうどそのようにしてできたのではないか。残るのは動きつづける魂のような、それもどこか弱々しくだからこそ芯のある存在のことば。脱力の発する巨大な力のような。
いま書きたくても書けないという状態、いまそうであってもこうしてなにか書き出せば、どこかにつれていかれる。書きたいことではなく、書いて何かわかることがある。整合性はなくともそういうものの方がやはり自分にはあう。言葉の論理が身体をしばるのに長く耐えることができない。出すべき音がわからず、音がでてこない、そういう生みの苦しみも、何か音を出してみれば知覚の新しい窓が開け、苦しみが苦しみでなくなることもある。それは言葉の論理ではない。人々が苦しみから離れるためにどうすればよいか、釈迦尊が求めたのはそのことである。近代の学問は釈迦という人に適さない。いやそうではなく、堕落した学問が釈迦の言葉を覆い隠し、忘れた。
釈迦尊の言葉は澄み切っている。何とも言えない滑らかな質感の水を湛えているような。道元に何かを感じるとき、無にうずまく音から力が湧き出すように手を振りかぶって書くこともあるが、釈迦尊においてはそもそもはじめからそういうことはない。釈迦の本質は釈迦のまわりに虚構を創造したり想像したりして描こうとすることができない。だから釈迦についてついに何か言い得て妙を書くことはできない。それなら釈迦の言葉をなぞるのがよい。言葉をなぞるように書く。弾く。はかない音のもつ強さは、動物のしなやかな動きの繊細さと、眼の無垢さ、その誰をも寄せ付けないほどの美しさにたとえてもよい。だがはじめの音が定まるまでは遠い。力を抜き、意識の欲をなくすまでの時間の流れを経て、でてくる音の力の密度はます。それが音に出る。弦をなぞるように。脱力という力。
釈迦のさまざまな言葉の問いに答えられるかー だがついに、「心さらに答ふることなし(長明/方丈記)。」さらにつづいて長明のことば「ただ、かたはらに舌根をやとひて、不請の阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ」。方丈記の最後、舌根ということにずっとどこかでひっかかってとれない。エスキモー(いまはイヌイットといったほうがよいのか)のとある音のあり方に身体がひっかかっているように。仏教、多神教、アニミズム、遺伝子他の生物学的事象、それらの移動と混在としての日本とは、民とはどこか、なにか。全ての接点がこの身体にある。 釈迦尊もその一人に違いはない。 欲という腕力の脱力にその接点はあるだろうか。
方丈記の終わりは、長明にとっての正反合の合か、そうではない。正と反とが合わさらない言葉、身体はそもそも合を知っているのに、正と反による合のついに出ない言葉、それなのに納得される不思議な言葉が突如として最後にでてくる。心さらに答ふることなし ーただ見事という他ない。言葉の質感は言葉の導かれた過程を想像するをはるかに超えて、ますます重い。鴨長明という人は方丈記で心の内景ではなく周辺の有様を書いた。そして唯一の自問についに答えられない長明は魅力的だとおもう。
音自体の行方に正と反と合はない、舌根は音と言葉の分離するまえ、音のまえに存する元本か。舌は触覚、味覚、そして聴覚でもある。正は正のまま、負は負のまま、ともにそこにあって、たった一文でプラスマイナスから飛ぶようにゼロが出現するこの脱力のマジックはどうしてなしうるか。
意識は若いようでも身体は刻々と衰えてくる。身近なもので事たれりという、ある脱力した感じを本当に身体がもってくるときたぶん、奥底に眠っている音はその闇の静けさのなかからまるで幽霊のように出てくるだろうか。自らの脱力を次への大いなる力として。脱力させられて歪まされるのとは逆。釈迦と道元を摘みつつ、遠ざかる、その繰り返しのなかから、方丈記(や、私にとっては上田秋成の雨月でもよいのだろう)に何度も何度も近づいてみてもおもしろい。言葉の動きが示す身体に、固執するなら固執して。
熊野 kumano (11) 2010
人口が70億を超えた。黙する自然から言えば遷移にすぎないだろうが、これだけで人間にとっての環境への影響は計り知れない。そして人口が減少に転じることはしばらくはないといわれる。世界のなかで、国の内部で生じていることとおなじように、地球全体のなかにおいても押し付けられた価値のもとで大きな格差が次々と生まれている。宇宙へ居住空間を拡大したとしてもさらに格差は広がる一方だろうことは想像に難くはない。
熱帯雨林でさえ適切に人間が管理しなければならない時代、市場経済は地球に蔓延し、すでに一部では自己破壊を迎えるほどにまで成長した。膨張した風船はそうしているうちに割れ、世界は割れた風船の破片が飛び散るように多極化し、混乱するにちがいない。その先にはどういう事態があるのだろうかと考える。
人口減少と宇宙への居住空間の拡大、それが現実的困難ともない人類にとって最善の道でないとすれば、第三の道、すなわち余裕のある場所に生きるものたちが、他者の為に自己の自由を制限するという道、自己の自由を獲得するための人道としての作為のベクトルは、これから本質的にこうして他者へと向かう方向へと転じ、逆向きとならなければならない。いまの日本にはそういう本質的な契機と動きが、もしかするとあるのかもしれない。
際して、原発事故というとりかえしのつかない失態を経験したこの国は、明治以降の脱亜受欧を根幹とする近代化の行き過ぎへの反省とそれへの単純な自己否定、あるいは都合の良い自然への回帰主義と茫漠たる感情移入をもってしては、現在をやはり乗り越えられない。現在の自然との関わりの実体を見据えながら、自然観を正直かつ謙虚に見直すとともに、現実にはびこるように生じている人間中心の功利主義を真正面から捉え、持てる技術と知恵を人間と自然のために、自然を尊重しつつも自然に最善な形で介入しなくてはならない。
政治は政治的人道として、自ら育てた優れたあらゆる民間の技術を、とりわけ未来を担う子らの命と、自然への作為の方向転換のための知恵として着実に現実に運用すべく、基礎的な情報公開を率先してすべきである。出来事の記憶は風化し忘れ去られ、歴史は旧態依然とした作為としての人道によって今後も書かれるおそれもある。次の時代への責任を少なくとも負うために、勉強し考えなければならないことは山ほどある。しかしながら人生はあまりにも短い。
このようなことを雑多におもいながらも、道元に方法を学びながら、ブッダのいいのこしたことを少し文庫で読んでいる。ブッダは政治から距離をおいている。非常に巧妙にあたかも正論かのごとくやってくる悪のささやき、それは一見正しいようでいて、おそらく一つの落とし穴をもつようなものなのだが、そういう何かを感知し、それを逃れ克服もしながら、自己の道を貫いている。そして悟りを開いてからもその格闘は続く。道元とみているもの聴いているものはやはり異なるように思える。
言葉はとてもやわらかく、その音は非常に豊かで具体的であるようにきこえる。風が具体的な音を木々とともに奏でるように。現代語訳にもよるのだろうが、道元の静寂と沈黙のダイナミックな運動と静止から生ずる音のあり方、風そのものののなかに入るということとは対照的に、風が木々とともにそよぐ音を、ブッダは言葉につぶやいているように聴こえてくる。
道元は無音という音のあり方と直に連関する一方で、ブッダはいまここに流れている決してやまない音楽であり、それは永遠に吹き流れ続ける音、そういう感じが強くある。それは音や音楽を超えた世界に染みわたる声であり、沈黙と静寂をも包み込み、変化し続けるという不変を示しているように思える。
与えられた見せかけの自由をもてあそぶこともなく、 自己の求める自由をも超えて、ブッダの言葉の時空にはそうした根源的な自由、不自由と表裏一体のぎりぎりの自由だけがただ、広大にただよっている。それも自己と密着することによって自己からはなれ、自然と他者への慈しみに満ちて、具体的であるように聴こえる。ふと口からもれた、そういう言葉としての声。
音を奏でることの意味が、ブッダの言葉によってわかるのではないかとほのかな期待、ありもしない空想を、どうしようもなくいまここに寄せる。だがそれは自分勝手な絵空事とも思われない。私にとって自分が音を出す意味は何か、そのことをどうしても、生きているあいだに大きな意味において納得したいがため。
音を出すことの背景を知ることのない限り、私は真に私ではいられない気がいつもいつもするのだが、そうしたものは以前のように自分自身への焦燥感としてはあらわれないようだ。こういう状況であっても、過去から未来を学ぶことによって、いまここに生きていることへ微かな希望をいだいているのだろうか。ブッダという人はあたかも未来からやってくるようだ。