犬山 inuyama(5)2009
私は身体のどこかで権力について考え続けているようなのだが
このこと、つまりはきっと、私に内在している権力について
どう捉えてよいかずっとわからないで保留したままでいる
けれど困ったことに少し書いてみたくなった
少しの書物を読んだくらいのくだらない感想よりも
少しのきっかけを大事にして
先日亡くなられた大野一雄さんの踊りを
24歳のとき初めてみた
こびりついた何かを思い起こしながら
何か
もうこのときすでに消えている 刹那や永遠の磁場でなく
白い紙へ綴る手前 白い紙すら思考できない場
無が無化されるとき 何かから存在しだす
何ものか
何かから 何ものかへの 絶え間のない運動
内部に蠢動する不気味な力と絶えず闘いながら
無が無化される場 生ずる瞬き
瞬きの内部を通過しなければ
現実は真にあらわれない 自然は本性をみせない
身体が入り口へと入る 入門が出口である維持 持続
入ることが出ることであるような門際に い続ける
ゆっくり動いている 絶えず生きている ただ
あるだけの命
現実の裂け目を拾う写真
自然の裂け目に到来する音楽
社会の裂け目を担う臨床
そういってみるなら
それらの裂け目を貫く運動でありつづけなくては
自らの権力と垂直な身体にはなれない
言葉そして批評も
現実の裂け目
自然の裂け目
社会の裂け目
その裂け目に際どく生き続ける
内部感覚あるいは思考を欠いて真はない
犬山 inuyama(4)2009
先日東京へ齋藤徹さん(コントラバス)と久田舜一郎さん(鼓)の演奏を聴きにいった
これまで音と音の間はあけるのではなくつめるものと無意識に思っていた
間をつめるということを基本に待つということがある緊張と弛緩を生むのだと
どこかで確かに思っていたようだが演奏を聴きながら
それは間それ自体ではないということが次第にわかってきた
あけるのでもなくつめるのでもないことによってより伸びやかな時空が開ける
間の自然という状態があるということ
時々こうした身体の状況はこの私のどこかにも訪れてきているのであろうが
そのときそれはそれと意識されていない
間は無意識という意識の底にもない
動きであり変化の過程を担うような一つの状態であり形なのだろうか
犬山に来た直後だったか無ということと間ということについて少しとらわれて考えた時期があった
過去ずっと前には少し体調を崩していたとき
自らの頭を冷やすために木村敏氏の間について書かれたものを読んだのだが
かなり念の入った優れた分析なのだろうがどこかこの身体が納得できるものではなかった
人間は人の間とかくが
間の自然は言い換えれば
人間と自然の間ということに他ならないだろう
間の自然は
のびる枝しげる葉がいつのまにか仕切りながら交差する空間であり
川の絶えず変化する流れがもたらす持続しつつも不意に音連れてくるような時間である
亡くなった加藤周一氏の「日本文化における時間と空間」で読んだのだが
始まりも終わりもない直線的な歴史的時間
始まりも終わりもない円環する日常的時間
始まりと終わりのある人生の普遍的時間
日本文化には異なるこれらの時間の共存があるという
そして各々と関わる「今=ここ」そして「私」という出来事とその位置がある
二項対立や三項対立を超克するための考えを模索するよりも
間ということを直に捉えることは別世界に身を置くための一つの魅力的な入り口であるだろう
人間と自然の間にテクネーを聴き取り見いだしまた自らがテクネーとしてあること
本当にそうするにはよほど深い経験と意思そして柔軟性を要するだろうが
そうした間のなかに身を置くことその状態にいること
それは一個体として私が旅をしていく時空
それは私が人間であろうとすることではなく
人の間に仕切りと交差をもたらすものとして
持続する生を営み何かの音連れとともにあるものとして
その個体がいわば枝になり川になるように
あらゆる間に埋もれていきながらあらゆる間を際立たせる
そのように人間になっていくことである
蛇足だがここへきて興味を引くのはアガンベンが人間と動物について書いた「開かれ」という論考
この意図するものは間ということそれ自体が提起している何かと近似しているように今感じている
犬山 inuyama(3)2009
日々は冷冷と流転し
境目に漂いつつ
混沌としている
頭は冷冷と冴え
思考の柔軟性そのはてに
硬直した無の時間が漂う
風は冷冷とこだまし
光の照りつける庭
誰かが陰の椅子に座っている