由布院 yufuin(7)2009
月に数千人と日々話をして診療をまがりなりにも行っていることが何らかの生きる支えとなっているしかし
社会において一つの小さな枠組みではあるものの即興と何ら変わりのないこの行為も
微々たる変化の持続であり何のための行為なのかすなわちなぜ生きているのか
その問いが瞬間瞬間耳のそばで鳴っていなければならない問いの言葉を失った行為は惰性に他ならず
心の隠されたところ惰性をもちこまない意思がその社会的使命をみえない場所で支えている
音楽そして写真も同様でなければならないなぜ撮るのかなぜ弾くのか
行為することと同時に心がどうであるのか心を開く身体はいかにあるか
音や写真の内側にたって心とともに行為することは心を我がものとせずその都度心を空しくし
場に立ちかえり心の磁場を呼び込む行為だろうしかし日常の身体性を場へいかに映し出すのか
そうしたことどもを心していても日常からそっと何かが身体へとしのびより心に脂がつく
心を空しくし身体に寄り添うことは方法の原点であるがこの日常は決して易しくはないそうであっても
ともかく写真や音を私のなかの脂を剥奪するための自らの鏡とし写真や音の内側にたちつづけることで
みえずきこえないものにふれ遠い場所に確かに存在している心の自由へとむかってゆくいまここにおいて
つなぎとめられる何かを音と写真に託してゆくとともに写真と音に託された何かをみてきいてゆく
実社会の枠を超えて行為することが困難な場所にあってもなお地道にいまここにたち
音の多様性そしてその質感を感じとることと似たかたちにおいて
ものごとの形の根元を支えている質的な要素を日常の内側において一つ一つ感じてゆく
行為の一つ一つを自己と非自己との間にあって動く溝の内側へと持続的に掘り下げてゆくことによって
行為そのものを溝の外側において新しい質へと変化させながら何かを生成してゆく
そのような創造としての行為のプロセス生のプロセスをたどってゆく
バッハの一音一音をいまここの音色の裂け目の持続的過程としてひきつらねてゆくことを遠い課題として
由布院 yufuin(6)2009
木枯らしとともに木々の紅葉はますます鄙びて素晴らしく西日が強烈にその木々を照らしている
すべてを捨てきれずに極めてあいまいにこのありふれた私は生きているものの
どこまでも深くそして平凡な問いがいつ何時も心の近くにとどまり続けている
この時空のなかにほうり出されては去ってゆく私とは何であるのか
良寛からゴーギャンに至るまで多くの故人が問い続け
凝固された時のなかに問いそのものを定着させることによってその詩や絵画に動きを与えつづけてきたが
写真や音のなかに動きが生まれるのは
そうした不可解な問いそのものがその問いそのままに
写真や音のなかに定着しているときであり
そのときそれらは何らかの契機をうちにふくんで
この季節に雑多に変化する葉の色のように
多数の道に開かれつつも運命づけられたいまここがみえてくる
写真をとることそれをみること音を出すことそれをきくことは
自己と非自己に開かれた契機を与える場所において生成される独立した線上に成立した命の形態であり
そうした時の凝固と動きのなかで
決定的な主体および主題と方法をもたず問いの定着の神秘をただひたすら待っているにすぎない私もまた
どうすることもできない孤独とともに命を感じ取る契機としてひたすらその到来を待ち続け
立って生き続けるための本能と捨てることのできない個の芯部によって
いまここに生かされてある
紅葉の季節の色彩の豊かさをみることは木々の内部に立ち返りそこに当の自己の変化をみることであり
心の変化する様態にも関わらず存在の神秘によって触発され続ける不動性を感じ
季節の移り変わるこの極東の地理的位置に思い至り相対と絶対の合間に再び立つことによって
変化する心の流動性とともにあってどこへも捨て去ることのできない場所に個の芯部を聴きとりつつ
一体それは何であるのかどこへと通じていくのだろうかと
問う心は蘇生していく
車窓からみえる紅葉する木々の内側に立って何かを心におもうことは
どこまでも平凡でどこまでも答えのでない深い色艶の問いの内側に立つことであり
木々の葉の変化する色を真に演出させているのは内側の森林の真の厳格さであることを
この肌は思い起こす
写真の内側にたち音の内側にたつことは生命の形を聴くことそのものであって
心とともに行為がある
由布院 yufuin(5)2009
年末に個展をする予定となり写真を選んだりこの日々をどうすればよいかととりとめもない時が続く
私のなかの他者に出会うことは終わらないし現実が変化し続ければ写真もまた終わらない
音は私と全く無関係にあるようでいてなくてはならない水のような空気のようなもので
水を飲まなければ生きられないし空気を吸わなければ生きられない音が無いということは
そのように何か恐ろしいのだが水や空気の充満が生命にとって一であり全であるような形で
全き静寂のなかに充満する音は闇そのものであり
死はブラックホールのように不気味なままで生の姿もあいまいなままある
すべての方法やそれまでの一切合切を捨てるのではなく
一切合切を真に一切合切とすることができるかということのなかに真の道はあるようにみえるが
そうであれば一目で分かる変化というものは虚構にすぎず
何かと何かを結びつけたりぶちこわしたりすることのなかにはなく
微々たる変化の蓄積とその正当な反省のなかにずれをみいだしていくことかもしれない
鴨長明の方丈記のそれまでの文章すべてをほうり出したような結末文そしてその余韻その残されたもの
そのような何かに向かって撮られた写真が削られていき何度も選びなおしていく過程のなかに
身体を酷使することで低下した免疫を生きようと必死な身体が次々と作り替えて再構成される
そうした身体を感じながら昨日とは違った私が今日もここに立っている
離脱していくことは私を大事にすることそのものであり他者との何千回もの会話によって
本能的な底の底の生きる力を感じることへと導かれて明日の私が今日の私ではなく
今日の他者もまた明日の他者ではなくつなぎ止められる今日と明日の心の形は次々と変化していく
そのなかに集結してくるものが物質の偏りとしての命のかたちであり
心はみえずきこえない場所で
自己と非自己のあいだ物質の偏在をいまここに結びつけている
そのような私のなかにどこから音はやってくるのだろうかと思えば思うほど
痛烈でまともな自己否定とともになければならず
巨視的にものごとをみて老木のなかの末梢の末梢にある葉脈の自己をかぎわけ
自己と非自己とのあいだに埋めることのできない溝を掘ることによって
逆説的に非自己とのあいだに心の道を開くことで
自己と非自己を同じ写真と同じ音に観なくてはならない
そのような行為は風が水面をなびいてそこに水があるかどうかわからなかった
その湖面に微かに水面が生じるかのごとく時の止められた一瞬の時の垂直な推移のなかに
身体と心を埋めることによってなされるような何かなのであろうが
わかっているのにこの上なく難しいすなわちわかっていない
これまで生きた私から隔絶されたものが突如として出るものではなく
ただ毎日ここにこうして生きていることを受け入れ毎日作り替えられる自分を見つめるほか
特別なものはなにもない
由布院 yufuin(4)2009
幹の図太く傾斜し
岩の皮膚をして
枝葉をおおむねなくした老木を
通り過ぎる車窓から
毎日みている
日々そこを通ると
枯れ切るまであらゆる抵抗をして
立っていてほしい
そうした心が出流してきて
ただただもう涙腺の刺激された
感情とはおそらく異なる何かが
言葉の外側から立ちあらわれ
西日の降り注ぐ柔らかな光束に包まれて
暗闇の息をして地上にたつ老木のそば
雨あがりに濡れた老木のまわり
その背後の時空に
誰でもない誰かが
そこにいると知る
誰かとはおそらく
全き詩人のことである
その誰でもない誰かが
存在の背後から姿をあらわし
心に宿る
そして月の影から地球が宇宙に浮かぶ姿
背後のどうにも例え様のないであろう漆黒
暗闇の暗黒を観るような空想にこのとき
ふとして取り憑かれたとき
もはや老木は地と同一の存在として
再び心に宿る
他者ということや
死ということを
十分おもわずに
他者や死を遠ざけるだけ遠ざけてきた
不死という人間の欲望の手の延びた
遥か上空
大気圏の向こうに霞む月と
深い暗黒の宇宙に浮かぶ地球そのあいだに
人間の死が宙づりにされて
漂流している
地の重力はかろうじて死をつなぎ止めているが
人間の心は死の近く
果てしなく遠いところにある
心はもはや
精神と物質という平面にはなく
なにものもないという精神と物質の混濁死から
別な形において再び
生まれ発せられる他はない
大地の根を失いつつある人間を哀しみ
あるいはそこに新たなる希望を見いだすことよりも
未曾有の災厄
宇宙時代の幕開け
そうしたこの現代に
心をつなぐ形は何であるのかを
繰り返される日々の生の状況下において
他者ということや
死ということを省みながら
おもい続ける
心を取り戻そうとすればするほど
心は戻らない
死の死とともに
心が放りだされようとしているのなら
心の実体と虚体は
放り出された心それ自身からしか
還ってはこない
現代において死の死がどうしても死に絶えていく
その真のなかに生きてあらわれる場所
いつもいつも老木が地の具現に他ならない場所
そのような場所にたって
心して生きるなら
ふと老木のそばの誰でもない誰かに出会う
老木の詩人は
音を呼ぶ
さらには
陶淵明の言表したような
真なるもの
そのようなものを写す
そのようなことが
未曾有の死を経験した
この現代において
あるだろうか
由布院 yufuin(3)2009
眼は思考を鍛え
風景は心に宿る
眼の束縛は思考をもたらし
心の解放は風景を解放する
そのような趣旨に感じられることを
一昨年少しばかり旅をしたポルトガルの
詩人フェルナンド・ペソアは
書いていた
そして感じることが
最も優れた知性であると
昨年少しばかり旅をしたスペインの
詩人ガルシア・ロルカに
教えられた
感じるためには
心のはたらきがなければならない
感覚を窓として世界を映し出すのが心ならば
心がどこにどうあるのか
心が私であるときも
心が私でないときも
心はどこかにただよい
存在している心からほうり出されては
心の存在に戻ってくる
私の心はいま
そう感じている
詩の善し悪しよりも詩人の生き様が
はるかに大事であるように感じるのは
ほうり出された心のあり様を言葉でつなぐ
心の存在をつなぎとめる言葉
生きた身体が言葉に実を結ぶ
言葉の響きと形が
心のあらわれた
生きるための詩であるからだろうか
詩人の推敲を重ねる心の時間に
私が心を砕くことは
生き様のなかに何かを学ぶための
私が生きるための行為
心は風景でなく私でない何かであり
感覚は心の
身体の窓である
古き良きものに身体を浸し追求していくなかにも
新しい問いに開かれたあり方を追求していくなかにも
詩が死をかけた生き様であるのと同様
変わらない場所があるだろう
その場所に
いつも耳を傾けるなら
どこかでみた風景も
まるでみたことのなかった風景も
いまここにおいて
離脱してはずれて回帰し
消え去っては再び迫りくる
心に蘇生していく
心の存在をつなぎとめる
風景でありうる
音でありうる
困難であるとしても
鮮やかな感覚
人間の知性の根幹
素晴らしくかけがえのないものごとは
心の感覚の
蘇生とともに
いつもある
そういう場所で
何か行為するなら
無花果のように
何か開ける
由布院 yufuin(2)2009
東京から木曽川へもどると
粉々にされた木々たちのあと
草のない堤防の残された斜面に
此岸の姿を露にした現の花たちが
突如として出来し
紅々として咲いている
殺された木々たちの
彷徨う墓の在処は
どこか
音色匂う虚明のなか
群生した彼岸花たちは
一声に尋ねる
此岸に密かにしまわれて
そのほころびから咲いた
めのまえの花たちは
あたりの風を呪縛して
あの木々たちのいまここを
その気配のなか
不気味に予兆している
彼岸なき此岸に徹して
耳を澄まし眼を細めて聴くなら
感覚は微細に深まり
百年の生の孤独が
いまここに
同じすがたでやってくる
死は我がものではなく
生は幻視できない
此岸をみて聴き
音の倍音と強弱
光の色めきと濃淡
影と陰
匂いを嗅いで生とむきあい
彼岸の死がいまここに実在するような
想像をはみだしてうまれる幻視の真実へ
此岸の艶めきからうまれる彼岸の彼方へ
そうした場所へとほころび
進み退いては
虚明の響きとともに終わりなくどこかへと
むかっていく
身のまわりのものたちへ
いまここにおいて
最大限の敬意を抱きつつ
この世界に立っていなければもはや
人は存することができない
いまここにあるものたちは
かつてあったすべての失われたものたちの
化身でもあるならば
いまここにくる音の連なりも
そうしたものたちの
いまここへの意味なき必然の音でなければ
いまここの物質的痕跡である写真も
そうしたものたちの
いまここへの意味なき必然のしみ出しでなければ
何のための音楽と写真なのか
現代においてそうしたことが
行為の唯一の根源的意味としてあるのかもしれないそして
行為は意味以外のすべてのためになければならないだろう
なぜ木々は切られたのか
一度植えられた彼岸花を育てる
持続した心
人の手が加わった自然への
人間的理性としての手入れ
そうした為されるべき責務とは
この人間の行為はほど遠い
それでもそうであるならば
自らのなかに答えを求め
問いを発しなければならない
此岸を聴いてみていく
その果てにある形をさがして
ずれと反復のなかで
臨床なるものを
体現し具現化していくことのなかに
自然と真に対峙し
自ずから同時性をともに分け合う
道があるだろうか
由布院 yufuin, japan, 2009
堤防沿いの
木々が日々
切り倒される
地獄絵をみると
不安定に
しりぞけあいひかれあう
ひとつひとつが
かけがえのない
物質がなければ
私の生きる世界は
存することがない
結び目としての
ものたちのふるまいに
眼と耳を
むけずには
おれない
木々の墓に
ここにいない
夏の蝉は今日も
朝を告げる
落ちていく葉の秋
死すべき運命が
生くべき宿命ならば
終わりはない