granada(19), spain 2008

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かつての恩師に
心を静かにして
手紙を筆で書くことのうれしさ

恩師は師であり
先達であり
私より多くを生きた友人である

過去に出会い
そこから私を何かへと導いてくれた人
もういない人も数人はいる

過去にさかのぼることはできないが
初めて出会ったその時の様相は
形を少しずつ変えつつもじっとしている

昨年の個展の序文にこういう内容を書いた
「今ここを基軸として時の発露に還る」と
そのような時間が手紙を書くあいだにずっと流れている

広い「今ここ」にある私のなかのすべてから
一つの問いを見て聴きたい
それ以外に何ができるだろう

なぜこれを撮ってこうプリントしてこう選んで展示したのかということは
身体に私なりに厳しく向かうことによって終えている
展示した空間での楽しみや意義は
そこにあって私を離れた写真と私との対話そのもので
そこからやっと問いが生まれてくる
そのために写真を展示して
自分だけではなく他の方々の視線や聴覚にふれてやっと
写真は自由となり写真は故郷にかえる
音が消え去るように写真も消え去る
その方が良い面もあるかもしれない

コラボレーションといわれるものが難しいのは
どちらかがどちらかを表現しては台無しだということだ
逆に言えば両方の生きる身体が同じである
または拮抗しているということだけでよい
それだけに厳しい

写真に添える言葉も今は正確なことはわからない
あらかじめ写真の意図や写されたものを言葉にすることは難しい
身体を宿した言葉が必要だ

展示された写真そのものとの対話
写真の故郷から発せられる
その日々の問いを受けて音は変化するだろう
問いといっても言葉ではいえない
言葉で写真や音を限定できないことと裏腹に
あえて言えば
言葉と手がなければそこに写真や音も生まれてはこない
身体は知っているのだが
日頃は覆い隠されている問い
日常に直結する身体の奥深くを見つめることだ
厳しい面もあるが毎日演奏するのがよい
そして音のなかに言葉を聴くことだ

問いを見つめるためだけに
生きているなかに一時でも
個展のような静かな時間の流れがいる
私は東京を来年離れようとしている
できることなら静かな時間のなかに
しばし身を置きたいと思う




granada(18), spain 2008

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微かに明るい
影の夢




granada(17), spain 2008

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あまりに巨大なために見えなくなる
あまりに微細なために聴こえなくなる

日常のことをほんの20分だけ
本当に見て聴こうとするだけなのに
日常があまりにも豊饒だから
それはまことに困難なこととしてある

ジャコメッティがたしかエクリに書いたように
試みること、それが全てだ




granada(16), spain 2008

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フラメンコ

写真にうつっているこの踊り手の方を
いかに絶賛しても言葉が追いつかない
確かに観光客の多く入るグラナダのお店
だがそうだからこそということ以上の
完璧な自負に満ちていた
絶対的な私
だからこそ無限な可能性を秘める私
型のなかに自由をさらに変化させ
私の、私ではない全ての生を踊りに込める

壁には踊り手の写真が飾ってあって第一人者のようだったが
私はその方の名をその場で知りたくなかった
今も知らない
手元に写真が数枚あるだけだ
それほどの時間だった
写真中央の既に踊り終わった他の踊り手の眼差しは
真剣そのものだ

踊り手はある観光客に踊りながら突如
NO VIDEO!!と叫び注意を喚起する
一瞬場が静まる
ギターは平然と演奏を高め
踊り手はその叫びをも身体にこめる
叫びは肉体化されその意味を失うことで場が新しくなる

ここにはいわば通念としての倫理ではなく
得も言われぬ生の必然へと向かう倫理がある
このような生の倫理はどこへいってしまったのか
このような場において自らをまず顧みらなければならない

何かものすごいものを発している人に
真正面からカメラを向けて写真に写すのは
非常に労を要することはよく知っている
このとき写真を撮ったエネルギーは
かつて演奏を終えたエルヴィン・ジョーンズを楽屋で撮影した際の一瞬に通ずる
ものすごい緊張感を踊り手と私の間に感じていた
そして踊り手の身体のテンションは私のそれをはるかに上回っていただろう

私は私自身のために
数枚の撮れるか撮れないかの写真を通じて
この時間と対峙することがどうしても必要だった
撮ろうとしている私と撮っている間の私
そして踊りが終わって会場を出てからの私の心の変化が最も大事だった
自分を東京から遠くはなれたこの最高の撮影舞台で試したかったのである
たかが一人の観光客に過ぎない私のことすら
踊り手は最初から知っているかのようだった

店を後にし
アルハンブラ内のホテル・アメリカへの坂道を上った
夜は深まるだけ深まり
風の音が遠くから聴こえてくる
厳かな大気に包まれて
はじめて月光がここまで明るいと気づいた
心は自然に高揚し涙が出るような夜
そして心はとても静かだった

もう行くことはないかもしれないが
グラナダは永遠に身体にしみつき
記憶されるだろう




granada(15), spain 2008

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当直で病院で過ごす
夜明けに記すことをそのまま

正直楽器を弾けずもどかしい
身体がうずうずしているが
そうも言っていてはいけない

合間に個展の時間に向けて
改めてフェルナンド・ペソアの「不安の書」を読む

はじめから読むのではなく行き当たりばったりの方がよい
これだと思う文章はいくらでもあるが
そういうものはむしろわかりすぎておもしろくない
そうではない文章のなかにペソアを読むより多くの楽しみがある

この文書は教訓をたれているのではなくで自白であり
ペソアの人生そのものである
そして世界はペソアとは別なところにある
本質的に他者に見せる必要性はなかったのだが
彼の中の他者がどこかとても遠くのところで
他者にたいする他者すなわち別なペソア自身を必要としている
その渦の中に文書が記されあらわれることが必然だったのだろう
ペソアはおそらくそうしなくては生きることができなかったのだ
「私は臆病である」というような自覚をどこかで書いているが
それもまた単に臆病であるわけではない
背後に聴き取られるこの苦しみと悲哀は何だろうか

ペソアの書くことと私自身の想いと相当異なる面もあるが
それは言葉の意味の表面上の話にすぎない
たまに重たい倦怠に包まれるが
あらさがしをするような文書ではないし
逆にペソア特有の視点を見つけ出そうとしても無駄に終わる
ペソアに「私」が何かを求めてしまっては
全く読み方が違ってくるだろう
ともすればペソアそして私への腹立たしさと自己矛盾にしかなるまい

世界の倦怠が倦怠となりつくしても
倦怠と疲労として終わらない様相
そこには全く別なあり方への発露があるように感じる
彼は自らを真に生きたのだ
そして生は理解できないということへの信頼がある
そして彼は彼でないことをよくよく知っている
だから矛盾だらけで脈絡があるようでない
どう読みとくかではなくそのまま読んで感じればよい
それで十分だろう
読む側が私の何かにとらわれていては本当に感じることすらできない
そして私が引きずられるように
受動的に何かを感じとると思っていてさえ
この文書は読めないということすらできる
ペソアもまた「私の感覚すら私のものではない」とどこかで書いていた
異名を使っているからといって疑うことはなにもない
そのままでよいのだ

写真は写真で歩めばよい
音は音で歩めばよい
言葉は言葉で歩めばよい
医は医で歩めばよい
そして私は私で歩めばよい
疲労を疲労そのものとして

すべてはすべてであり
私は私であって私ではない

疲労するのは今の社会が疲弊しているからではない
疲労は身体の疲労そのものだ
私を受け入れるなかに
ペソアはより現実的な夢として訴えかけてくる

そのような「私」に意図されない交差のなかに
全く予測すらつかない偶然への発露がある
その偶然こそが真の必然である
全ては私という限定された心と身体を通じている
本来それで十分なのである

そのような心と身体のあり方
最後はそのことだけがある
何を弾くかということも大事だが
私にとってはるかに大事なのはどう弾くかである
その都度違うということをどこまで大事にして受け入れられるか
そのために何らかの空間が必要だ

端的に言えば
ある空間的限定のなかに
どのように時間的流動性を実らせ
音を自由にさせることができるか
そのおそらく基本的なことすらまだまだできていない
当分はこの修練の繰り返しをしていかなければならないだろう
そしてその先があるだろう

ペソアは十分にペソア自身を生きた
そのことだけが確信された一夜




granada(14), spain 2008

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太陽は沈み
月が昇る

淀みない大気を
音がわたる

混沌は混沌となり
もはや混沌はない

木は影に沈み
風の音は木の音となる

もうひとつの私の
私ではない人生

光も闇もない記憶
あらわれ
音はただ彷徨う




granada(13), spain 2008

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昨日は斎藤徹さんと瀬尾高志さんとのベースデュオを西荻窪アケタの店に聴きにいった。今、瀬尾さんのもとにあるベースは、かつて私が弾かせてもらっていたベースだ。それも、もとはというと徹さんが弾いていて、ガン&ベルナーデルというライオンヘッドのベースがきたときに、徹さんから譲り受けたベースだった。瀬尾さんはお名前の通り「志が高い」演奏でベースも喜んでいるようでうれしかった。この、その昔手元にあった、今は瀬尾さんのそばにあるベースもすばらしいベースだが、徹さんのガンベルはよほどすばらしいベースである。バール・フィリップスさんとのガンベルどうしの楽器交換のときを思い出した。そのときのフィルムを徹さんの娘さんの真妃さんが奮闘して現在徐々に編集している。フランスの楽器職人やバールさんへの身近な視点のインタビューもあって、貴重なフィルムのようだから、最終的にどのような交換の物語になるか非常に楽しみに待っている。そしていつも大変お世話になっている鶴屋弓弦堂の鶴田さんと河原さん、クレモナで楽器製作中の鈴木さん(この方もおもしろいことに名は「徹」さんなのだ、この楽器職人さんにもきっと将来大変なお世話になるだろう)にも会って楽器についての話ができた。昨日はそんなベースの関わりもあって、楽器は奏者で音が変化し、奏者は楽器によって育てられる、そして色々なことが楽器を通じて受け継がれ、新たにあらわれてゆくということが身近にわかって理解できる時を過ごした。

さて、昨日今日とかなり集中し、色々と楽器でやってみて思い知る。「微明」こそ私にとって必然なのであり、根本をいじる必要はないのだった。変奏すらかなり意図的になることをよくふまえることだ。どう弾くかが最大の問題であり、もう一つ二つの局面を生じさせるために少し工夫をすることでさえ、その弾き方と音の揺れ方は大幅に異なる。構造的な変化を最小限に抑えて、その抑えたとはいえ少し変化を加えるなかに、心を新たにすることが肝心なのだ。その最小限の変化のなかに最大を圧出するよう密度を高くすることが、この一年という必然ではないかと思う。そして焼いた写真をよく見て、そしてよく聴くことをふまえることだ。しかし、それはもう穴のあくほど眺めた。しかしそれにしても、やっと形にはなってきたが、バッハの技術がまだまだ追いつかない。昨年、徹さんに同じ曲(バッハ)を一千回やったら?と教えられたことを思い出す。もうあれから一年経つのだ。


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(追記)
またベースを弾きだしてみる。日々変化する時間と音、そして言葉。思考することは一つの原動力となるが、ものの存在のあり方が未だにわかっていない証でもある。だがわからないものごと、死に向かって日々が過ぎていくことに最大の喜びと哀しみがある。最近は記憶と混沌ということを掲げてみたが、昨年の「微明」の演奏もまさにそのようなものだった。この態度をあくまで崩さないようにして、今回展示するポルトガルの写真の光景とその記憶につらなる音を何とか探り当てたい。そのためにここまで心を大事にひっぱってきたのだ。昨年は5年から10年溜めていた必然性があった。その必然をさらに1年分押し出し、かつ昨年秋に訪れたポルトガルの記憶に降りていくような音を奏でたいと思っている。フェルナンド・ペソアの本も昨今繰り返し読んでいる。その全体が非常に全体として奇妙なる文書であり一つの矛盾であり、かつ非常に魅惑的なこのペソアからどの言葉をひこうか、どの言葉も光に照らし出された表とその裏にある影を同時に映しているかのようだ。しかしその影は多様で、一つの言葉を抜き出したとしてその言葉がすべてを語ろうとしない点がペソアの魅力である。ただペソアにとっても「夢」ということが最も重要な言葉の一つとしてあるように感ずる。ポルトガルの夢。




granada(12), spain 2008

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どう演奏するべきだろうか
思案する

「微明」を基軸に変化を加えて
音を2弦でだぶらせてみる
不協和音かそうでないかという区別は度外視にしてとらわれずに
空間を無理に作ろうとせず
少しづつもやもやと配置して
楽器と弓から引き出されるように音をみつつ
その余白のなかに時間を聴く
ただし時間を体内に引込んで聴こうとせずに
時間の流れをただただ見るように
音は始まる前から連続してありのままに聴く
ある程度そのままやりすごし
ある局面があらわれたところで
意思を注入し思いのままにまかせる
思いは思いでなくなり
ふと混沌があらわれるならば
あとは身を任せるだけに
終点もまたもやもやと思い描くのみとし
場にゆだねて音の終わりの後の静寂の時空まで聴く

そしてその時空間からまた
身体にしみ込ませた一つの夢を弾く

という過程を絶大なるイメージとしてではなく
あくまでデッサンとして線的に描く
人間の所有するイメージなど小さい
実際やってみることの方がはるかに大事だ
だがそううまくいくとも限らない
だがあえてその過程を踏んでみることが大事だ

そう、やはりうまく行かないが
あるところまでくると
バッハをいかに弾くかという課題がこの期に及んで残る
それが先決かもしれない
その修練と収斂として「微明」の過程は過程として存することが可能となるのだから
その両者を入り交えておき
その交叉から両者を深めることが必要である

まずは集中度を高める
身体と心も休ませつつ
しかも腕の力の抜き方と力の入り方に対処できるだけの訓練を施す
今からそれが可能か
だが例えば本番まで時間がないというのは全く本質的なことではない
時間がないのではなく
すべては心と身体の問題なのであるから
間に合う間に合わないとはまた別のところで生きることが肝要だ
そのなかに何かがあるのを身体と心が知っている
それでよい

仕事は仕事で真っ当なことを全開でいかなければならない
そうすることのなかに本当の身体と心が培われるのだから
絶対に無視できない

だけれど、
それにしても肩が張らないようにも骨の折れる作業
逆境の過程を踏んでこの機会を大いに楽しむことが肝要
逆光のロゴスならぬ逆光のパトスをもって





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