犬山 inuyama(29)2009

Pasted Graphic 37

仕事納め 

かつてないほどずいぶん仕事した一年 
かつてとは比較にならないほど多くの人と話した一年

すべてがうまくいくように望んで正気を使いすぎた
それで年の終わり
頭はものすごく疲れているが 
まえと違って今年は良い気の使い方をした

明日から親戚の家のある紀伊田辺に帰って
年末年始を過ごす





犬山 inuyama(28)2009

Pasted Graphic 38

朝夕が寒くなってきたずいぶんと 貝原益軒の「養生訓」は現代にも通ずる 仕事に疲れるとどうしてもすぐ寝てしまうし 車が移動手段だから運動不足になり体調がよくないので どうにか心と身体を改めなければならない 元来自分の身体に合わない酒もほとんどやめることにした 

少し全体的な息が苦しくなったので 新潟で記念に買ってきた良寛の有名な「天上大風」の複製の色紙を壁に貼ってみた そして再び良寛を憶う 今まで読んだもののなかでは 水上勉さんの「良寛」と松岡正剛さんの「外は、良寛。」がとてもすばらしかった これらのスゴイ書物を前にしてさえも この私も自分に沿って やはり何か書いてみたいと思う

良寛の書のいいのは特にその「間」にさしあたり手がかりがあると凡庸にいってみたい 私は書に全く無知だが これだけは強烈にまず感ずるところである 

特にその楷書には食い入るようにみる 一画と一画の間のなかにずいぶんと多くのものを観てとれる 細い細い線は今にも消えそうで それでも十分に筆を堪能してから消えている そこに 豊かな間が生じる 豊かな一瞬 空白 線と線の白い隙間 墨によって残された余白だ

のちに 筆の運びその微小な身体感覚のなかに 全てをかけた自然が生じてくる 偶然か必然かわからないような筆の始まりと終わりの「際」 墨の痕と跡 それによって残余する紙の白さとしての「余韻」 それらの同居した状態が延々と続いて 互いに響き合っているような感覚を抱く 

一画と一画の間の空隙の密度は高く そこに何かを自然と観て聴いていくように 身体と心がバランスをとりながら筆の上を移動する 

そのような運動としての軌跡 筆跡としての筆の触感がすべてを物語っているようにも思う 筆をどこで保っているのか 指先はどういう速度で動いたのか 溜められた時の 筆のにじみ ためになる「溜」 つまるのでも のばすのでもない「間」は どうやったらできるのだろう

「天上大風」に限らず たとえば手紙「天寒自愛」もすごい 書も内容も身を揺さぶられる もう少し大きく一行で観てみてそれを聴いていくと 何か微小で大きな音が流れているのに 最終的に全体をながめてみると止まって音は流れない静寂のなかにある ここにおいても静寂が白い下地が 一音を一画を支えていることに変わりなく 一画がまた全体の書を支えている 書の骨格が時間のなかにきこえだして 書の骨の密度がましてくると一つの別な線 書の脊髄が空間にみえてくる 

受け取った相手はどんな気持ちになるだろう 言葉では言い表せないだろうな 良寛はそれを言葉でやっている 最も意味という制限の強い言葉で無限が言えるというのは並外れている

そうしてみていくなかに気づく 書はこちらを全くといっていいほど拒否していないことに そこに私が遊ぶことがいかようにもできるのだが それでいて私はその深さを知らないでいる そういうどこまでも近く どこまでも離れた書

という感じで その書は時間のなかにあるというわけでもなく 空間のなかにあるというわけでもない 「間」に漂っている「場」 宙を漂っていると思うと土の上にある さっきみたと思ったらそうでもなかった夢だったのか そういうような 書自体がどことかいつとか言おうとしない「場」だとでもいえばよいのか

これだけのものになると臨書もさすがに多く 贋作のなかでもいいものはとても味があって非常によい なかには本当にすごい臨書だと思うものもある けれど書の専門家が贋作だととりあえず断定したものをみると 結果論とはいえ どこか良寛にあった骨髄のようなものがかけていると思われてくる どんなにまねしてもまねできない骨 その脊髄の形こそが良寛の個を象徴しているといえるのだろうか

個からはるか遠く深くに離脱して 最後は再び個という無限に戻る過程 究極的な自己回帰といったらいいのか 離脱の彼方に良寛の自然としての個が浮かび上がる そしてその無からのさらなる「離脱(エックハルト)」のような晩期の書 今の私などには到底理解不能だけれど 何かがその「場」から駆り立てられる

これだけ執拗に絶賛してみても これらの書はそういうことには全くの無関心 そんなことはどうでもよろしいではないか そのようにすら言ってこない 書自体との対話ではなく 書というものを借りた私自身との対話だけが延々と続く こちらが暴かれるときもしばしば それが自然に受け入れられるような書

書の文字はみえていてもはじめは何もみえてこない 次第にみえてくるのは私の卑しい心 そう白状したくなってくるのだ 無の心 無からもさらに離脱させ 私の余計な考えや隠し事のようなもの そう 今日でいえばはじめに書いたような体調への不安のようなもの 覆い隠しておきたいものを 上手に麻痺させて宙づりにし私に自覚させてくれるのだ

松岡正剛さんも似たようなことを書いていたように思うが 身の震える冬の寒さがもたらす何かにどこか似ている 良寛は冬の人だ 新潟 寒い空気によって思考がうまく停止する 身体の震えがのこる 心と身体がおののく 良寛は誰かの上に立たない だがこちらの身が引き締まる 発見の場というよりも「恩寵(ヴェーユ)」の場といったほうが近いのだろうか 私にはシモーヌ・ヴェイユやマイスター・エックハルトと良寛はどこか似ているように感じられる 

速すぎる故に重力と無関係に軽く遅く 白紙が墨のなかに落ち 墨が白を間とするようにみえる 言葉の意味が書かれていても意味による圧力や 言葉に宿る主体の権力がない 軽さのなかに無限の力が生まれる

身体運動の結果としての筆跡が そのまま文字の意味を浮かせるようだ 逆説的だが そのように書に文字の意味だけが残る書 方法はワープロうちの真逆 それが筆跡というその身体の触覚によってなされている 触覚に五感がのりうつって

良寛が書を書いている姿が その消息から断簡からそんなふうに「いまここ」にみえてくる 良寛という人物がかつて存在したという確かな実感とともに






犬山 inuyama(27)2009

Pasted Graphic 39

近くの各務原航空基地の飛行訓練が増しているのだろうか 犬山の上にも今日はいつになく何度も戦闘機が飛んでいた 今日もまた何かまた徒然と浮かんだことを 記していくべき日だろう 

あとからここに付記すれば 今日はすべてがあまり脈絡のない単文のようになった だが言葉はとぎれずにどこまでも続く 瞬時に消え去るものをとどめようとするなら すべてはメモ書き 身体的痕跡だ

写真は独房を再現した建物のなかでとったものだ 歴史外の生から呼ばれるもの あるいは 権力からの逸脱 ということから何か書き始めよう

権力的な何かによって初めてあらわれる主体 主体のなかに形成される権力 そうした主体のなかにある複数の他者をみいだしていくことによって 権力自体のもつ欲動を揺さぶろうとする主体 

権力の発現様式のあとがき その死のあとを綴る歴史ではなく 強いられまた自ら何かに適応するように生き また能動的に主体の変化を意思し続け 変容していく反復のなかにずれを感じ 構造的な何かから遠ざかるように進む そこに生まれでてくるような 歴史の外側の生 その数々の死の亡霊たち 

歴史以前の始原の重みをいまここへと その記憶を求めて 哀しみと笑いという感情へと もう一つの生の連なりを感じる契機

あるいはまた 構造的な何かを俯瞰した場所 主体とは離れたもう一人の私から あるいは何らかの形から遠くはなれていく過程において 何かの到来を待つ 

権力からの逸脱として 偶然が侵入するそのときのその構造の変化を待ち受け そこに身体を委ねていくことによって 人間の権力という重みから身体的に解き放たれること 自由という名の希望への契機

さしあたりこう書いてみると いわゆる西欧思想でいえばドゥルーズ/ガタリの「差異」 井筒俊彦を師としたというデリダの「亡霊」 アルチュセールの「偶然性」などが思い浮かぶし それらの遺産は参照に値する アガンベンの「開かれ」も曖昧なる「間」という問題を提起しているように思われるし 昨今少し読んだジュディス・バトラーの暴力の問題も 私の今の問題意識とある場所で共通しているように思う

しかし 言葉の構築しきれない場所に身を浸して そこから問いを発し続けるという思想のもつ文体 言葉のあり方そのものが求められているような気もしてくる 

それは言葉による詩ということだろうか そうとも言えない気もする こうした意味で東洋独自の表現形式である「書」に学ぶことは大きいかもしれない 書が古典的で矮小な形式から本質的に脱して 書であることの書の生命というものから 何かの新しい形がみえる気がする 

良寛に魅かれ それを何かの基礎としたいという思いにかられるのはそのためかもしれないが 書は書くことであり掻くことであり描くことであって それによって何かを欠くことでもあるだろう そこに不完全な間が生ずる その間から今度は文字を書く その文字をみて考えることができる

書でなくとも 構造の主体的破壊ではなく 構造の形そのものを他者としてそこから逸脱していく その契機が 例えば写真自体であり音自体である また偶然の到来 一瞬における時間的密度がひらく時空のなかに 新たな次元をみいだし 再びそこからまた逃れていく運動 それが生自体によってもたらされている それもまた音をだし写真をとることのなかに発見されるだろう その繰り返しとずれを続けていく

そのような運動のなかに身をおく 過去を写した写真 過去に奏でられた音楽 音の記憶 そのすべてが今ここに問われるとするならば 過去は今であり あそこはここである 逆転させるなら今ここから 今でもここでもない場所へ 今ここが常に初々しく問われる運動であること そのようになるだろう 

さらにそうしていって何がもたらされるのだろうか いまだにはっきりとわからないのだが 何かに要請されている それは遥か彼方から連綿と続く音の生命のようなものがあるからなのか 書に書の生命を強く感ずるのは 文字が言葉を通じて人間と切っても切りはなせないからだろう 音でいえば歌という形になるのだろうか

そしてこのような運動の概念 それを音や写真のなかに表現していくのではなく その概念の言葉を身体に降ろしていく過程において音や写真を発現していくとき 音楽のテーマや写真のテーマというものはここには存在せず その運動だけがあるといっても過言ではないだろう 

言葉や思想の陳腐な表現 作品に対する作者の解説が横になければ いかにいい写真か という写真集は意外と多い 写真が作者の特に陳腐な概念に縛られるとき あるいはとってつけた解説があるとき 写真は生命を失うことも多いのだが 言葉でもってしか 何かを考えてから行為する そういうことはできないだろう 

写真への行為が純粋であっても 純粋ではないあるいは十分な動機に支えられない言葉は 写真を欺くことにしかならない その自覚を欠いた言葉は他者を無意識的に傷つけるとさえいえるだろう

言葉のあり方を磨くことは考えのあり方を深めることであり そのあり方自体が世界に対する態度や距離感となるのだが それが安定しだすことを私は求めていない だが言葉を発すること 言葉のあり方を常に変化させること

何を弾くか 何をとるかから 何が動くか ものからことへの契機 ものとことの多様性を含み込んだ一瞬という間へと侵入して 間を無限へと近づけること

精神は精神か 物質は物質か 偶然は偶然か 必然は必然か そのようなぎりぎりの間にある問いの交差する場所 間隙へとたつように 写真と音の運動のなかにたっていること

あたかもシモーヌ・ヴェイユの空しさから到来する「恩寵」というような 一瞬への多層的で多重的な瞬間的凝集や エックハルトの説いた無ということからのさらなる「離脱」というあり方 この身に響かせるかのように

もし音の生命というものを仮定するなら 音そのものがまだ生き延びようとしている 音の欲望と写真の欲望という事実だけがある そこから導かれて今を生きるわれわれがどのように運動していくのか 

運動自体は語ることが難しい 言葉の結論めいたものを写真や音を通じてそこに表現しているだけでは何もならない 何も そうではない音と写真のあり方自体を言葉がその前後から検証していく 言葉はそのようになければならない 言葉で語れないものは必ず残る 身体である音はすでに想像の先 今現在の言葉の表現の先をいっている 

だが 語りうるものは語りうるとして 言葉を書いていかなければならない 今の時代には他者を思考しながら 自らが何者であるのか思考していく態度が必要なのである 音そして写真にその契機を 過去からの要請を求めながら 今ここを反省していくなかにやっと現実としての生の力 生きた未来があらわれる

そして他者というもののなかに否応なく「権力ー倫理ー暴力」の共犯していく領域が潜んでいることに自覚的であること それは所有できない不可能性としての死を今ここに感ずること そのために今ここから死の淵に近づくその始原へとむかい そこからまた今ここを問うてくる

現在はこのような意味において過去から 過去の身体的記憶から呼び起こされる その問いの持続の運動のなかに未来が溶解しだす 未来を作るというよりも時の塊そのものが溶け出すように未来がたちあらわれる

暴力というものに それは自らのなかに潜在化する権力 そしてどこかで構築されようとしている倫理からも忍び寄る この側面に身体が十分に自覚的でなければならない 

危機的な状況だとおもった 今日という日 戦闘機の訓練の轟音を聴きながら しかしまさか町が襲撃されるとは まさか思っていないようなのだが どうだろう 

戦争という悲惨その日々をかつて送った また現在進行形で送っているどこかの世界を ひとかけらでも この音からこの身が想像することができるのか これからこの世界はどうなっていくのか







犬山 inuyama(26)2009

Pasted Graphic 40

考えてみれば写真や音というもの そのいずれもが 「今ここ私」たる場所 今ここに私がいるという疑い様のないこと デカルトも唯一これだけを信じ あれだけの創造と想像を働かせることができたこの場所に 知らなかった記憶を蘇生させる役割を担っている

音になった 音にした あるいは写真に写し出した 写し出された記憶は 身体のなかで何かを共鳴し惹起させる その反復によって次々と連鎖される身体的ずれが 無限と言ってもよい時空をその写真に その音に 記憶を連結させていく 間隙からみた時空の重なり 昨今重なりとよんでいたものは そうした一瞬の密度ある時空となって 音や写真という具体的な形として今ここにあらわれてくる

それらが密度を増して私に語りかける時 写真や音という他者のなかに他ならぬ私が重なる 一面を言っているにすぎないにしても そうした動き自体のために それらの行為はあるといってもいいのだろうか それは時間の概念を別な視点からみることによって いわば瞬間という間を時空の重なりその凝集へと広げることであるかもしれない

一枚の写真を見てそこから連想したり 一音のなかに自己を感じたりすることは もうそれだけで複雑な過程のなかに身を投じていることになる それを読み解きながら考えていくことよりも その連鎖を連鎖のままに感じつつ 一音や一枚の写真を一つの起点として遠ざかっていく過程に 新たなる自己が感じ取れる それは私が生きていること そのことを感じることだ そこにもう一人の私があらわれる過程 その次々と生ずる反復とそれまでの自己とのずれ その続いて終わることのない変化こそ生きることと考えられなくもない

そうしてみるならば 一瞬を生きたものにしながら持続していこう そこに何かを発見していこうと捉えるのではなく 瞬間が広い重層化された時空の溜まり場としてある そのなかに私がもうそこに生きている そのなかに何かが発見されてくるとみていく方が 今の身体感覚に近くなってくる 一瞬のなかにうごきを見いだしそれをとらえようとするのではなく 一瞬が動いているのはむしろ生そのものがあるからなのだ そのようになる

理屈で言ってしまえば当たり前だが これは一つの身体的覚醒に近い 瞬間に永遠が写るようにみえるのはそのなかに無限の反復とずれをそもそも含んでいる このためだろう こちらにきてからすぐにどこかこの身体は感じていたが そのときそうとはわからずここに綴ってきた内容 反復とずれの感覚 そのことにも合致しているように思う

止められた瞬間という時空 それは写真の一つの大きな側面だが そのなかに生じている溜まりはクロニックな時間とは無関係あるいはこれに垂直な磁場をつくる それは無限に広い時空間といいたくなる 時間を止めるのではなく 止められた時間にみる時空の重なり そこに凝集される生 それは得るものではなく そこによばれるものだ だからその生なる時は遠く長くて 一度よばれれば儚く映るだろう

「微明」において行ったような一音を持続させるという行為 これもまた予期せぬ瞬間を一瞬一瞬持続させている その一音から生じる何かの発見というよりは 一音の持続の その始まりから終わりまでが まさにひきのばされた瞬間 多層なる時空の凝集 そのように考えた方が今はしっくりくる それが時間のまとまりと昨今感じて言っていたものだろう ここにおいては静寂から一音を弾いて静寂のなかに音がやむという その行為自体その過程自体が 瞬間という時空 多層なる時空の重なりの場 それに相当するのではなかろうか 「凪風」において行ったこともまたその展開と比喩としての位置を身体的にそこにあらわしていたものと 振り返るならばそう言ってもいいのかもしれない

こうしたとき 一曲を弾くということのは音の継続されたまとまりと捉えるのではなく そもそもがまとまった音の塊のようなものを内部に常に宿しながら一音を弾いていく行為 逆を返せば 一音の状態のなかに常に全体の音のまとまり 一曲というものを感じて弾いていく 瞬間のなかに入って 瞬間を担っている多層な要素をそこにみつつ 自らの身体が記憶とともに生きていることを確認していくこと 発見しながら自己の生を持続させる過程のみならず 限界ある与えられた生のなかでよりどのように この身体が記憶を反映して生きるのかという行為へと近づく

与えられた一つのまとまりとしての楽土 その土地の上に生きる音楽 死から死へと向かうための音楽 始原から始原へと向かう途上に呼び起こされる音楽 そのように単純だが複雑に様相の展開する音楽 それは瞬間という一つの時間の凝縮されたまとまりが無限に開く時空の多層化 そういうような次元にあるという気がしてくる 生は一つの死と死の間 儚い束の間 それは記憶の幾重にも重なった時空 そのなかに生きている 

診療もよく遭遇する疾患を単にパターン化し 外部の科学的情報に基づいて決まった処方を反復していくのではなく 身体的記憶の引き出しから何かを取り出してきて それを介して行うようにすると 反復のなかにずれの感覚が生じて ずれを立証していこうとする態度とずれをずれとして身体的に捉える態度が新たに生じてくる 一瞬の短い時間においても ずれのなかに身を置いた診療 それは身体的個を大事にするような診療ができるようになると思われる こうしたことに写真や音を出すということのすべての行為 その意味を求めていくこと その過程が役立っていると確信できるのが何より幸せでうれしい




犬山 inuyama(25)2009

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1ヶ月間かけていろいろメモしてきて いや 昨年の個展からのたまりをみてみれば1年だと思う 少しは新たな課題がみつかってきたからとにかく楽器を演奏してみている 楽器の一番下で弦を根本から支えているテールガットがだめになって付け替え 少し調整もしてみた このホームページ用のソフトの調子もどうも悪いので ブログも少しだけ文の書き方をかえてみよう 文体とか書き方というのは本当におもしろい

練習の仕方は前よりもよりずいぶん 丁寧になった とおもう ひきなおし方もいやみではない ひとことでいえば 前よりもかなり 焦らなくなった 例えば 音がゆっくりでも速くても同じことをしているという感触がやっとでてきたようだ 私をみているもう一人の私がいなければ 一人でいい演奏などできないだろう 特にソロが難しいのは 一つには自ら弾いた音を徹底的に他者にしていかなければならないからだろう 他者にこそ自己を見いだすことがやっとできる  音に善悪の執着があるとそれだけでもう音の成長がとまるという感じがする

弾けるということはある曲を目標として定めて それをとてもうまくひけるようになることを単純に意味せず 根本的な時空が広がるということ そのなかに一つの曲や題材というものも単に位置しているだけだ 広がるということは視点がぼやけていくこと ぼやければ何かがわからなくなってしまうのではなく ぼやけていくことに集中していくことで 時空のなかにある支点のような 音の質感のようなものが自然にでてくる それがいまここを象徴する音なのだろうか

ペソアは言っている 「人は二つの人生を生きる」 この言葉に幾度となく魅かれ励まされてきたことか ペソアの研究家で作家のアントニオ・タブッキの「インド夜想曲」をアラン・コルノーが映画化したのだが この映画でもペソアのこの言葉を語らせている この言葉の意味するところがまた一つ 私のなかで深まりつつある 

第二の人生ではなく 二つの生の重なり このことを実感して 今生きているような気持ちがしている 自分なりに精一杯やった東京での仕事の内容も新たに反省する時が来るだろう 私は何かを自らの意思で捨ててきたのだから それがどういう決断だったのか 音を通じて本当に気づくときがくるだろうと思う