瀬戸 seto(4)2010
疲労して空になった心に いい音楽 いい演奏を真剣に聴くと 気を許すと張りつめたものがとけて自然に涙が出てきて困ることがある この経験は感動というにふさわしい 他人の音楽から相当離れていたが いい演奏やいい音楽を聴くことがまたできそうな気持ちがしてきている
あらゆる面において あら探しをするような聴き方はしない この人はこのあとにこう弾いたのだという自然がなるべく理解できるように 少しのずれやわずかな偏り 強弱の中にも そうなければならなかった自然が聴き取れる 意図的な強調の中にもその流れのなかに必然性を強く見いだせるならば その意味を身体と心に感じる それははっきりとした意味として 少しの音の羅列もメッセージや詩として存在しだす
だが自分自身に対する真の自戒をこめていえば いくら音の羅列の仕方がよくても 饒舌すぎたり そうは簡単に経験されないことを いかにも経験しているかのごとく憶測で語ってみせたりするような演奏 あるいはあらかじめ意味の上に成り立っているのに あたかもそうではないようにふるまうような いわば偽善的な態度の演奏を聴くのは 今となってはもはや好きでもないし そうすることができない
それだけ他人のなかに他人のなかの音を聴き分けられるようになったのは確かだろうが こう書いているあいだにも偽りというものはどうしても忍び込む 音をだしても同じこと それだけ長くなるのだが今は相も変わらずそうしておこう
いい演奏はそうした偽りが全くといっていいほどない 本当に驚く 純粋さのなかにノイズの密度が渦巻いている というよりもノイズの密度が一つの恐ろしいほど透きとおっていて また瞬時瞬時のすさまじい速度の線を描いている 良寛があまりに感覚がよすぎて筆が恐ろしく遅くみえるのと同じく いい音楽は時間が止まると同時に恐ろしく平穏で冷たくあたたかく静かに激しい 音の始まりから消失までが恐ろしく長い 純度の高い素材の出す音は背景のノイズが互いをうまく打ち消し合って残った色をしているように
勢いやテンションの強さは必要条件ではあっても決してそれで十分ではないことを 身をもって示すこと そのなかにはじめて他の必要性が混じてくるようにみえる 十分ではないということの必要性 だがあらゆる経験の蓄積や重合による信念の強さとおごりのなさが表裏一体となっていれば どのような音でも素晴らしく響く おごらないことは十分ではないことを知ることである そうした演奏は感動と発見を誘う その音の消失は音とともにあってよかったという真の余韻をもたらすだろう
言葉では言えないような意味の充満した沈黙 言葉の非意味の塊であるような凝縮しつくされた言葉にならない意味 それが何かが言外においてはっきりとわかるということが 音によって何かが伝わるということだ 無意味な音であることのなかに大いなる意味が潜んでいるようにみえる 時間と空間を横断し停泊する風によって運ばれた凪いだ音とはそうしたものだ そうしたことが音楽の重要な意味の一つであるとおもう
いい演奏を聴いているときに経験されるのは あるいは過去の凝縮された濃密な重なりとしての記憶と 音の中にあらわれる時間の濃縮が空間へと溶け出す過程の経験とのあいだにあるのは 一つには奏者と私の存在を通じた直接的な身体的共鳴と対話であるといっても間違いではないかもしれない
しかしながら自ら弾いてはいても自らの音でないときに生ずる涙は 自らに感動しているのではなく 彼方から聴こえてくる存在の到来に動かされている この事態と同様に 他者の演奏から生ずる感動は 他者がその存在をあらわしている他者の他者性が 存在の彼方のなかに浮かび上がることによって生じている
偉大な演奏家であればあるほど 他者を自らのなかに聴く力が強いし その覚悟が大きい またそれ自体が目標とされておらず 目標ではないところからそうした他者がやってくる あるいはそうした目標から離れていく過程において その道に他者は降りてくる 他者としての音を聴いている演奏家ほど 演奏家自身が発見の宝庫たる他者となりうるのだということは いい演奏を聴いていればはっきりとわかる 真に聴くことは常に 真に学ぶことだ
誰かのいい演奏を聴くとき 演奏者にとってのさらなる他者が 私の過去と私の未来の隙間に入り込みそこにはっきりと存在してくる それが私の中に自覚されてくるだけだ 一方で時間は聴き手がいることそのものによってより深く広い時間のなかに存在するようになるのであり その時間が共有され人間の思いが伝わるということが 演奏するということの大きな意味であるなら 一つにはその自覚は深められるだけ深められるべきなのかもしれない
だが他者にとっての他者が音によってあらわれ変化していく様態とその自然が 演奏家と聴き手と両者にとっての他者 そのすべてにとっての音楽という現象そのものの時間を支配しているのであれば 音楽の内側にあるのはやはり演奏家自身でも作曲家自身でもなく私自身でもない
音を聴くとは何かの声を聴くことだ そうした確信はやっとできつつある だが何かとは誰か その何かとは一体なにものか それは何ものでもないもの 言及しては消えていく とらえられようとしては逃げていく 何かは 不意にあらわれ我々の心を打つ 意識を寸断し身体の深い場所に釘打たれるように宿る 決して言い当てることのできない 沈黙 すべてにとって必定であるもの それを追いかけたり待ったりするその媒介者がまた音である そして写真であるだろう
このような媒介者が音であるならば 音楽は様式を そもそもはじめから 超えていなければならない 音楽の様式や既に選びとられた音や音楽を教示し はじめから感性や感覚を犠牲にしながら学ぶという形式主義から 音楽することを音の具体性から発する学びとして捉え そうした場所へと重心を移すこと
それは医者と患者の病態についての言葉による説明を 個々が感覚的に掘り下げたときに生ずる 未来への深い生きた関係にも奥底でつながっているように思われるし それは互いを尊重し一つ一つの経験が大事にされたとき初めておとずれる
こうした音の学びが成熟する過程が そのまま奏者と聴き手の音を通じた深い対話へと導かれるならば おそらく音と身体の内側の沈黙の言葉が表裏一体となって作用し 音という現象自体を経験的に学ぶことのなかに人間性が覚醒していく そして人間性とは人間の自然そのものだ
このようにして具体的な身体的意味として 冷静であり苛烈であるあり方で 音楽は動きだし働きだすだろう 恐ろしいまでの確かな沈黙の意味を 音楽はやはり秘めていると感じる 四十歳になったこの日 世界は数々の難局を迎えている 現代にとって音楽することの意味はどこにあるのだろうかと いつも問い続けることは本当に大事なことだとおもう
瀬戸 seto(3)2010
雪が多く残る琵琶湖 向源寺の十一面観音を先日初めて訪れた 近くの他の寺にもたくさんの十一面観音像と出会えるのであるが 向源寺のそれは本当に見事なものだった それは挑発のない受容の心の手と見事な肢体ですらりとして立っていた ずっと人々に守られてきたのがわかる その沈黙がまたその姿にのりうつっているように思えてくる
その辺に咲いている花とか 切られたけれどまた芽を出してくる木とか 竹の枯れかけた姿とか その辺にいる犬猫とか 雨のあとの水たまりとか そういった近所のひっそりとしたものと ひっそりとして共にあるのがいい 哀しみとか喜びとかそういう感情が入り交じって それらに入り込んでいるし 人の生死もすべて近所のさりげないものごとのなかに映っている 光や音が大きく世界を包んでいる
こういう時空間が開けていると写真に撮りたくなるものだが 一度 死んだなにかの到来を生で経験すると音の由来とか写真の残酷さとか言葉の暴力 あるいは挑発的な何かに身体が敏感になる 死に面と向かうような行為は 私にはやはりなかなかできず たとえ可能であっても死者に寄り添うことしかできない 閉塞的な空間で写真展をやり楽器を弾くという行為自体にもどうも疑問符がつく このことは自分自身に対して疑問に思うことの一つ 無理がなく納得のいく形はないものかとさがしている
中平卓馬さんの新作の写真集(Documentary)は私にはよかった 今の一つの目標に近いかもしれない 東京でやっている展示に行けたらいいのに 行けないだろう みていないのに良くないけれど みれないだろう悔しい負け惜しみをいえば 想像するにこうした写真は解説ぬき 対談ぬきの写真集だけの方がいいのではないだろうかと思いながら
おこがましさを承知でいえば 他人の作品というものに久しぶりに音をつけたくなる あまり作品臭さがない 作品ということをつきぬけた写真だからだろうか 自分も自分なりにここまでどうにかしていきたい 逆に言えばここまでいかなければならないし ここが本当の出発点だとすら思う
死んでしまったが デザイナーだった私の叔父が生前に自費でただ一冊だけつくった写真集がこの中平さんの写真集の内容とよく似ていた 叔父の風貌も中平さんにそっくりだったのを思い出す ボードレールの言葉がはじめにあったのを覚えている
だが今となってはそれももはや記憶の彼方から掘り起こすしかない 一度だけ写真の講釈を叔父から受けたことがある まとめれば 1)ドラクロアをみよ。 2) 時間を止めろ。 そのときは謎だった 写真集をみた感じは 何だこれ?何写してるんだこの人? というもの 内容は全く違うところにあったのだがそれがおもしろかった
くだらなくて役に立たないけれどどこかじっと こちらに何かをきいたりこちらをみているようなもの まわりのそういうものから色々と触発される 写真の気づきはそうしたところにもある 音も似たようなところがある 私自身がそういうものたちと似た存在でありたい
このようなまわりの劇的でもないものごととともに ただ音楽ともならない音を昼休みに少しずつ弾いている 風の強い日は竹やぶのうなりと共鳴するようで楽しい 光の強さはものをより存在せしめる 道元も少し読めるようになってきたような気がするけれど やろうとしている内容と比して自分の体力のなさは相変わらず嘆かわしい
夜 診療で使いすぎて頭が疲れ 帰宅して9時頃に水泳へ行く そうするとうまく身体が疲れてバランスがとれる 子供が寝付いて少し本を読んだりする 昨今のこういう毎日は 時間が止まるというよりも時間が異様に長く感じる
そんななか最も楽しみなことといえば 暖かい春がやってくるのを待ち望んでいること そして家のとなりの小学校の桜が咲くこと たわいもないものごとの素朴な変化がとても身にしみるようになるのは 道元と対話にならない対話をしていて 心というものが非常に複雑なものだということが よりわかってきたからだろうか
問うことはしても あんまりにも問いつめないようにしているとちょうど良い 私は自然というものの本質を自分なりに納得してから死にたい 職業も好きな音楽や写真のことも 今であれば道元を読んでいるのも その内側にある一つの道にすぎない
瀬戸 seto(2)2010
身体の節目 年齢の変わり目を意識せざるをえなくなった 今年に入って少しずつからだを意識的に動かすようにして 近所の市民プールで毎日水泳などしている
簡単には読み進められないが 道元の影響は大きい より自由であればあるほどつまずく言葉 はじめからわかっていたことだがともかく読み始めた またまとまらないとりとめもないこと 最近のメモ書きから
内部の変化は深い沈黙をもたらす 沈黙のなか身体が歩む 禅は沈黙の言葉による苛烈な対話ともいえるのか お前は「空」のなんたるかを知ろうとするのではなく 「空」の対偶でありつづけよ すなわち己の言葉を聴け そのために身体のいまあるべき姿を思え からだに気をつかえ お前の生活を根本からあらためよ
己をみつめ ききとるための 鏡としての道元 沈黙の何たるか 己の言葉がみつかれば 生きるための軸ができるか 自らの一切を微々たりとも特権化せず 道に従うこと 悟らない悟り 黙らない沈黙 言葉の一面は 感覚の論理によって支えられる
伝統が本質的に創造に等しいという場所よりも もう少し奥底にある何か その場で言葉が生きたとき 己ではない場所から己の言葉がきこえだす 仏とは一体何者であるか 悉有とは一体何か 知識では到底わからない 身体を鍛えることによって紡がれる言葉のほか 信じることはできないのか 言葉のまわりの言葉
自らの耳をよりひらいていく どのような音をきくかよりも そこにあるがままの音を どのように聴いているかに いつも自らの心を寄せる その態度が本当であれば 自らの音によって己を照らさずとも 道がわかるだろうと 壁に反射する様々な音のかけらの残響に心を傾けながら そう不意に想うこともしばしばある 銭湯の残響 沈黙の音
演奏するかしないか瀬戸際の 音を出すところに入っていくときの身体 そのとき沈黙の言葉が要る そのために 己の対偶としての言葉をみいだし 己に聴き取る あ ああ あああ というように発音する大本は何か どうやって発音してしゃべり始めるのか 意味の前の言葉の本質とはどうあるのか いずれは空海へと 高野山へとまた向かうように 人生という幅の時間をこれからかけていくこと
生きているということはすなわち いかなる状態にあろうとも 生のノイズによって音を出しているということ 絶対無という事態により実体のない確実性を帯びるという あからさまな矛盾とともにあること 立証的態度の裏 感情ということの対偶 感覚的論理 言葉の影を縁取るように まわりで象る言葉 沈黙とは満ちた言葉であるという断定への 自発的問い 自発性それ自体のなかに潜むものは何か
犬の足音 小鳥のなき声 竹のきしむ音 赤ん坊の声 泳ぐ手にまとわりつく泡の音 全てが膨大でとどまるところのない音楽 音の出し方と音の聴き方を己の内外においてたえず求める 固定しない言葉 川の蛇行のような空間の余韻 息の響く時間 音のなか流れる沈黙 音の聴こえない時の密度を感じながら
耳が塞がれても体内の振動と震えを感じ 命に生きていると知れば この手が剥奪されても何かを弾くことができるだろうか そこに入りそこからも離れて それでも楽器を弾くという行為に戻ることができるか 道元はそういう場所にいながらして あれこれしゃべっていると感ずる この感覚はなぜ生ずるのか
全てが手段であれば特別な手段はなにもない 無理のないからだの力は要るが その他の力は要らない 身体に忠実になる場は 中枢と末梢の区別なき混沌 身体の言葉 沈黙の言葉に於ける場 私の 私の身体の生まれる前の何か 迷うことのありえない場所へと 知らぬ間にむかっていること
身体を鍛えるとは ゆがんだ心をまっすぐにし 姿勢を正すこと 脱力するのでもなく 無理な力をかけずになにか大きな力動をもたらす 泳ぐこと一つのなかにも沈黙の理 感覚の論理が見いだせると気づきつつも そこから離れてただからだに任せて泳ぐ そうしているなかに浮かび上がる何ものかが またどこかへ導く 行き先もなく繰り返す往復の深まり
五感から入った情報が中枢から末梢へのシナプスの連絡をとり 手がそれに従うような末梢としての技術が磨かれる そうしたあり方では手の拡張はできても つくったり発動したりすることはできない つくることは 人間が人間をみつめるとき 避けて通れない道 変化と創造ということがら自体が その働きによって 人間の自然に人間をみつめさせる
身体の内部の揺れが そのまま末梢に連動し 中枢は内部を包むように 発現してくる心の揺れのバランスをとる 中枢は控えめに働き 中庸と均衡をもたらす こうして自然と動く世界では 単純なこと バランスのなかにいればいるいるほど 変化が大きくあらわれやすい 時空にみえない偏りがあることに気づきやすい 故意に変化させればそれだけとらわれ 本質的で大きな変化がみえなくなる 単純な自然こそ複雑性に満ちている なるべくいじらないこと どのような状況であれ生活自体を大事にしていること
手によって心と身体を拡張するのではなく 有機的につながっている心と身体の混沌に沈黙を感じ その沈黙の言葉を手に受け止めるための 内的な知恵をこの手に帰すことができるか みえないこの技術は 言葉の沈黙と循環し螺旋を描くように上下する
言葉の身体の深化 言葉の沈黙のために 意思をまきこんだ人間の自然にしたがって 水をつかむこと 土をつかむこと 雪をつかむこと 手で書くことから ただ変化する場所へと向かうことができるか
このような消極性と積極性のあいだにある そのどちらでもない存在を貫く態度として 楽器ということ 演奏ということを己に自ずから位置づけられるか 自然を変化そのものとして手に受けることは本当にできるのか そうしたときふたたび弾くことができるかもしれない