別府 beppu(2)2009
言葉のものごとを限定する力
否定の力動に抗うことなく表現の道筋を通り
世界を否定しつづけてある地点にたつとき
否定の否定によって今度は
世界から照射された自己をふり返る
そのとき言葉は言葉の限定力をこえて
沈黙からもれだした言葉のかけらへと
失敗する言葉へとつきぬけていく
多極的に重層的にそしてまさに音楽的に
だが当の言葉によってそこにやっと詩が
自ずから姿をみせるときがくるだろう
個々なるものそして誰もが
一なるものすべての言葉すなわち沈黙の
発露としてあらわれいまここにある
その力動が観えて聴こえてくる
世界に呼応する自己の動きに徹し一つの世界を感じながら
ガルシア・ロルカは詩を創造し続けたにちがいない
その詩をつたなくとも音読してみたり資料を読んでいると
死から言葉が投射されて生の言葉のかけらが生じているように聴こえてくる
Viento estancado a las cinco de la tarde
sin pájaros
冒険すること
一つの失敗のなかに次なる道を拓く
そうした旅をしていくことができるだろうか
別府 beppu, japan, 2009
昼には木曽川の近くで鷲が風に舞って鳴いているその声は音楽そのものだ
深い夜の空に煌めくオリオン座の星々は暗闇のなか遠い遠い光そのものだ
私にとってたとえば写真を肯定していくことはやはり自己をそのまま表現することではなく、「こうではなくてこうである」という否定をさらに否定すること、すなわち「こうである」ということだけがのこるような何かとしてあるのではないかと思うことがある。それができるかわからないにしても。否定が否定されたとき表現ということとは似ていても異なる形があらわれてくるように思える。そして死が遠ざけられようとしているいま写真は表現の不可能性を果たしていく宿命さえその役割のなかにもっているようにもみえるが、現実が誰のものでもないという自覚は程度の差こそあれどのような写真をみても呼び起こされるし、作家性とかテーマ性というものはどうしても二の次の問題となっていく。そうしてみると個展などどうしてするのかという思いにいつもいつもどうしてもかられてくる。
食欲や性欲や惰眠をむさぼることを無視して生きることはできないが、注意を怠れば不可能性や否定自体を当の写真に対象化し自己の本能的な欲望にそれらがとりこまれ、表現の世界へと写真がすぐに転化していく可能性があるだろうし、注意しなければならないということはこうではないと何かを少なくとも否定して意識していくことである。そうしてみるとこうした観念のジレンマのようなものを感じつつもそこから本質的に離れるために否定の行為のさらに否定に立つそのようなある種の肯定的な行為や態度が一体どのようにあるのだろうか、そんなふうに最後には導かれていく、そうでなければ社会全体からしたら小さな場といえども、やはりなかなか個展などできるものではない。それはたぶん新しい世界の切り口の写真でもなければ生を直接表現するようなものではなく、自然な力動を磁場のようにそこに帯びつつまた総じて何の変哲もなく時空が否定の否定という過程を経て肯定された場に結果的に異質な何かが佇むような場だろうか。
人間が発明し遠くを詳細に拡大してみようとする双眼鏡を逆からのぞいた風景のようなもの、経験の少なさからくる無垢な心情にすぎないのかもしれないが、過去にどこかでみたような写真そして音のなかにも双眼鏡を逆にしてみれば何か別なすがたかたちがみえてくるかもしれない。それらを鏡とすることでかつて存在しなかったものの可能性がそこにみられる契機となるかもしれない。写真や音が一回限りのものであることと写真や音が記憶や意識や身体や心というものと連関すること。記憶や意識という断面を保持しながらもいまここに何かが生じているような写真という平面そして音という他者と、人間との肯定的摩擦のなかにあるもの。それを導くための否定が否定される場。
斬新なものはなにもないがじっとみてよくきけばそこに生じている反復とずれによってかつて経験したことのなかったものが浮き彫りとなるような音と写真への態度。音でいえばたとえばバッハにおいて作曲された形のなかに即興性でうめつくされた何かを聴くような態度だろうか。さらにいえば診療行為というものに対する真の臨床的態度だろうか。医者の職につきながら少しずつやってきた音楽と写真であるが各々を独立したものとしてやはり私は捉えることはもはやできないし、身のまわりの日常が関与するすべてなしには私という自己が自己においてそして自己からはなれて行為することはできないように思う。
過去の数少ない個展や発表会をふりかえればそこに小さな自分がいる。何かを発表したり行為したりする場は音が自然の絶対的な厳格さにうたれたときに人間にとっての真の音となっていく、そうした弱く小さい自己というものを体感するのと似たような場に自らを自らを通して否応無しに置いていくということにおいてよい契機となりうるのかもしれない。そして過去に数回行ったなかに何か硬質で弾力のあるような感触のようなものがどこか漂っているのはなぜか。そこにも多かれ少なかれ人の真の心の行き交いと出会いそして別れがあるからだろう。それは医者の臨床に直結することがらだし機会があるということに感謝して私はそういう場を大事にしなければならないと思う。
由布院 yufuin(7)2009
月に数千人と日々話をして診療をまがりなりにも行っていることが何らかの生きる支えとなっているしかし
社会において一つの小さな枠組みではあるものの即興と何ら変わりのないこの行為も
微々たる変化の持続であり何のための行為なのかすなわちなぜ生きているのか
その問いが瞬間瞬間耳のそばで鳴っていなければならない問いの言葉を失った行為は惰性に他ならず
心の隠されたところ惰性をもちこまない意思がその社会的使命をみえない場所で支えている
音楽そして写真も同様でなければならないなぜ撮るのかなぜ弾くのか
行為することと同時に心がどうであるのか心を開く身体はいかにあるか
音や写真の内側にたって心とともに行為することは心を我がものとせずその都度心を空しくし
場に立ちかえり心の磁場を呼び込む行為だろうしかし日常の身体性を場へいかに映し出すのか
そうしたことどもを心していても日常からそっと何かが身体へとしのびより心に脂がつく
心を空しくし身体に寄り添うことは方法の原点であるがこの日常は決して易しくはないそうであっても
ともかく写真や音を私のなかの脂を剥奪するための自らの鏡とし写真や音の内側にたちつづけることで
みえずきこえないものにふれ遠い場所に確かに存在している心の自由へとむかってゆくいまここにおいて
つなぎとめられる何かを音と写真に託してゆくとともに写真と音に託された何かをみてきいてゆく
実社会の枠を超えて行為することが困難な場所にあってもなお地道にいまここにたち
音の多様性そしてその質感を感じとることと似たかたちにおいて
ものごとの形の根元を支えている質的な要素を日常の内側において一つ一つ感じてゆく
行為の一つ一つを自己と非自己との間にあって動く溝の内側へと持続的に掘り下げてゆくことによって
行為そのものを溝の外側において新しい質へと変化させながら何かを生成してゆく
そのような創造としての行為のプロセス生のプロセスをたどってゆく
バッハの一音一音をいまここの音色の裂け目の持続的過程としてひきつらねてゆくことを遠い課題として
由布院 yufuin(6)2009
木枯らしとともに木々の紅葉はますます鄙びて素晴らしく西日が強烈にその木々を照らしている
すべてを捨てきれずに極めてあいまいにこのありふれた私は生きているものの
どこまでも深くそして平凡な問いがいつ何時も心の近くにとどまり続けている
この時空のなかにほうり出されては去ってゆく私とは何であるのか
良寛からゴーギャンに至るまで多くの故人が問い続け
凝固された時のなかに問いそのものを定着させることによってその詩や絵画に動きを与えつづけてきたが
写真や音のなかに動きが生まれるのは
そうした不可解な問いそのものがその問いそのままに
写真や音のなかに定着しているときであり
そのときそれらは何らかの契機をうちにふくんで
この季節に雑多に変化する葉の色のように
多数の道に開かれつつも運命づけられたいまここがみえてくる
写真をとることそれをみること音を出すことそれをきくことは
自己と非自己に開かれた契機を与える場所において生成される独立した線上に成立した命の形態であり
そうした時の凝固と動きのなかで
決定的な主体および主題と方法をもたず問いの定着の神秘をただひたすら待っているにすぎない私もまた
どうすることもできない孤独とともに命を感じ取る契機としてひたすらその到来を待ち続け
立って生き続けるための本能と捨てることのできない個の芯部によって
いまここに生かされてある
紅葉の季節の色彩の豊かさをみることは木々の内部に立ち返りそこに当の自己の変化をみることであり
心の変化する様態にも関わらず存在の神秘によって触発され続ける不動性を感じ
季節の移り変わるこの極東の地理的位置に思い至り相対と絶対の合間に再び立つことによって
変化する心の流動性とともにあってどこへも捨て去ることのできない場所に個の芯部を聴きとりつつ
一体それは何であるのかどこへと通じていくのだろうかと
問う心は蘇生していく
車窓からみえる紅葉する木々の内側に立って何かを心におもうことは
どこまでも平凡でどこまでも答えのでない深い色艶の問いの内側に立つことであり
木々の葉の変化する色を真に演出させているのは内側の森林の真の厳格さであることを
この肌は思い起こす
写真の内側にたち音の内側にたつことは生命の形を聴くことそのものであって
心とともに行為がある
由布院 yufuin(5)2009
年末に個展をする予定となり写真を選んだりこの日々をどうすればよいかととりとめもない時が続く
私のなかの他者に出会うことは終わらないし現実が変化し続ければ写真もまた終わらない
音は私と全く無関係にあるようでいてなくてはならない水のような空気のようなもので
水を飲まなければ生きられないし空気を吸わなければ生きられない音が無いということは
そのように何か恐ろしいのだが水や空気の充満が生命にとって一であり全であるような形で
全き静寂のなかに充満する音は闇そのものであり
死はブラックホールのように不気味なままで生の姿もあいまいなままある
すべての方法やそれまでの一切合切を捨てるのではなく
一切合切を真に一切合切とすることができるかということのなかに真の道はあるようにみえるが
そうであれば一目で分かる変化というものは虚構にすぎず
何かと何かを結びつけたりぶちこわしたりすることのなかにはなく
微々たる変化の蓄積とその正当な反省のなかにずれをみいだしていくことかもしれない
鴨長明の方丈記のそれまでの文章すべてをほうり出したような結末文そしてその余韻その残されたもの
そのような何かに向かって撮られた写真が削られていき何度も選びなおしていく過程のなかに
身体を酷使することで低下した免疫を生きようと必死な身体が次々と作り替えて再構成される
そうした身体を感じながら昨日とは違った私が今日もここに立っている
離脱していくことは私を大事にすることそのものであり他者との何千回もの会話によって
本能的な底の底の生きる力を感じることへと導かれて明日の私が今日の私ではなく
今日の他者もまた明日の他者ではなくつなぎ止められる今日と明日の心の形は次々と変化していく
そのなかに集結してくるものが物質の偏りとしての命のかたちであり
心はみえずきこえない場所で
自己と非自己のあいだ物質の偏在をいまここに結びつけている
そのような私のなかにどこから音はやってくるのだろうかと思えば思うほど
痛烈でまともな自己否定とともになければならず
巨視的にものごとをみて老木のなかの末梢の末梢にある葉脈の自己をかぎわけ
自己と非自己とのあいだに埋めることのできない溝を掘ることによって
逆説的に非自己とのあいだに心の道を開くことで
自己と非自己を同じ写真と同じ音に観なくてはならない
そのような行為は風が水面をなびいてそこに水があるかどうかわからなかった
その湖面に微かに水面が生じるかのごとく時の止められた一瞬の時の垂直な推移のなかに
身体と心を埋めることによってなされるような何かなのであろうが
わかっているのにこの上なく難しいすなわちわかっていない
これまで生きた私から隔絶されたものが突如として出るものではなく
ただ毎日ここにこうして生きていることを受け入れ毎日作り替えられる自分を見つめるほか
特別なものはなにもない