熊野 kumano (10) 2010
人間は環境の一部であり、環境を条件づける。少し現実に返って、日頃のもう一つどこかでずっと考えている自然についての輪郭を書いてみようと思う。
道元は自己と環境との一体の経験を重視していると考えても無論良いが、環境破壊の理由を西洋のデカルトなどの起源に求め、日本において大きく広まり、発展を遂げたと言ってもよいであろう大乗仏教などの輪廻や、すべての生けるものや鉱物にまで宿る仏性をもちだして、こうした東洋的、日本的な観点を現代にふさわしいとことさらに強調する向きもいまだにある。
しかしながらすべてに仏性が宿るということの過程、すなわち自らもまたその一人であることの自覚への過程を踏まずに、その過程が飛ばされ、結果としての情報とその享受のみを授かり、これがある固着した定義を抱えだす時、すべてのものごとはそもそもそのまま安易に肯定される、疑うべきものではない、そのような一種の怠惰で生死に対して淡白な距離しかもてないような、生死への消極的な世界観を生み出しうる。
それは人間にとっての未来への理想、それにたいする積極的な意志、その力動をむしろ妨げる方向に働く。自己肯定は自己否定の否定としてあるのであり、そこに負と負のかけ算による反発力が生じるのにたいし、結果としての正のみが強調されそこによりかかる結果、過程としての負の状況に自らを置く、あるいはそこに置かれることの意義を失い、あれはああいうものであって、これはこれでまあ仕方がないという自己の力動とはかけはなれた消極的な肯定、もっといえば言い訳じみた無責任が露呈することになる。それは一つの形式主義であり、本来的な責任ということをともなわない、他なるものへ寄りかかった世界観でありうるだろう。それだけに容易に権力にとりこまれるだろう。
固着された形式主義からは、常識的なパターンをくつがえす例外を認知できる身体的な柔軟さは見いだせない。現代において形式主義は次第に身体からもはなれて言葉の膜を帯びて神格化される。その神格化のなかで現状肯定、なすがままとなり、自らを問わずに逃げるように他者をたより、安直な自己弁護的な肯定と否定を繰り返す。目的意識がなく、反省することのないままに人間が機械の部品のように動く、目的の誤りを指摘するものは、形式主義と隣り合わせにある暗黙の巨大な権力によって徹底的に排除される。
江戸期においては、仏教とは離れて、貝原益軒や荻生徂徠、二宮尊徳のように、儒学あるいは朱子学を三者三様にではあるが解釈し直した人物によって、人は万物の霊長であり、環境を人間が条件づけていく、すなわち自然を人間が支配しうるという、いわば実践的思想がみられた。土地は荒廃し、自然環境はおそらく今のように気安く自然と戯れるというようなものではなく、極度に貧しく厳しい封建制度のもとで明日命を落とすとも限らないような、きわめて厳しい環境に置かれた人々が暮らすなか、土木や治水への技術に対する期待は大きかった。 つまり少なくとも非人間的な暮らしから人間らしい暮らしへと変革をうながすための実践的な学問がその時期に形成されていた。このように江戸期において仏教のみならず、朱子学や儒教の影響も大きい。
明治初期においてもこうした気運の高まりに乗じて西洋の技術を適応しつつ豊かになっていくことが必然的に目指された。西洋的な技術への疑問や抵抗よりも、そうした技術をうまく取り入れ人間の住みやすい世界を創ってゆこうとする必然の成り行きが生じたとも言える。そしてこの受容は、西洋を否定するどころか、西洋の速度を超えるばかりの適応能力を内包していたとさえ言えるだろう。
江戸期においては、人の道はあくまでも人の道、人道であり、作為であるという自然観を内包し、同時に天道の教えから差をつけるように人道を分離し、宇宙の根源的存在としての理法を一面において否定する、それはあくまで当時においてはであるが、封建的な社会制度の絶対性を否定し、裏を返せば人間が個としての独立を目指す営為でもあっただろう。
この内的な力動とともに、たとえば草木を殺生することは人道にかなうこととされるのは、当時の社会的な過酷な状況からしてある意味当然とも言えるし、民からすれば生きる為の知恵であり、一つの健全さであるとさえ言えるだろう。かつては空海も治水などの実際的知識に長けていたというが、江戸時代には道元をはじめとする仏教的精神的な世界観とは異なる、こうした実際的な方法がとられたといってもよい。
こうして自然を支配し、人の理法をもって自然を条件付け、人間の生きやすい環境にしていくという実践、そして西洋の発展的な技術を取り込んできた事実は少なくとも江戸から明治期にかけて我が国に実際存在していたのであり、多数の見解があること自体は歓迎できるが、たとえば現代の環境問題を単に西洋文明の責任に転化することには問題がある。
だが、それから百年以上が経ち、技術革新の驚異的な連続的営為とともに、個々が実生活のなかに生きる実感とその意味を空虚のうちに失い、技術と生活が離ればなれになりつつも、世界(自然)は西洋東洋を問わずあまねく人間化された。それは自然が資源として化して、自然は環境として認識され、ほとんどすべての世界は市場化し、経済化したと言い換えられる。
だが高度資本主義社会のなかで世界は一体化したようにみえて、一体化に排除されるところでは深刻な殺戮が生じているうえに、憂慮すべきなのは固有性が次々となくなり、文化は平均化され、あらゆる情報がマスコミなどを通じて、知らず知らず何ものかに支配されるという構造を帯びたことだ。思想さえもがそれによって伝播される。
人間が部品化されるなかで、 世界を支配するために、本来的な責任をとるべき場所がそれを回避し、部品としての個々の自己責任という形で変換されるように押し付けられる。 このように、現代はいかにも複雑怪奇で怪物的であり、不健全で不気味に映る。
アリストテレスもそうであったが、レイチェル・カーソンもまた(現在においてこそ様々な批判にもさらされているようだが)、「何のために」ということを意識せず、与えられた課題に単に技術的に取り組む過程の怖さを指摘した。こうしたばあい、時として予期しないような事態が生じやすいばかりか、それに適切に対応できないということもすでに彼女は指摘している。原発問題はまさにこの通りのことが生じているということだろう。形式主義と責任意識に欠けるこの国で生じたこの問題の根はあまりにも深い。
見返りのない天道を忘れ、見返りを求める作為としての人道、あるいは政治的天道のみに依拠し、あらかじめ権威ある家や父や君といったものが暗黙に尊重され、それに寄りかかって安心する一方、自ら自身への、あるいは自らと遠くはなれた世界への想像力は欠如し、安全ということとそのリスクについても論理的かつ冷静に考えにくくなる。このような体質は、どうにか変革しなくてはいけない。一例としてあげた、環境破壊の根拠を安易に西洋に求めることは自らの歩んだ過程の道を省みない責任転嫁の良い例であろうと思われる。
物質的に豊かになるために技術を用いるのではなく、これからは一人一人のエネルギー消費を縮小するために、すなわち貧しくなるために、生活様式を変更していかなければならないのだろうが、このような道をこれまで人間は選んでこなかった。なぜなのか。仏教のおおもとを少しかじってみると、紀元前三世紀にまとめられたブッダの動植物を慈しむ言葉は、具体的な経験に基づいて非常に豊かに書かれているが、これは本当の意味においては伝承されてはいないだろう。
自然への環境付け、バランスを失わせるまでに行き過ぎたその方法と目的を転換し、国家権力としての天道を生きる身体が避けつつ、 負の遺産の残したものに正直に眼を向けて人道としての作為のベクトルを方向転換し、さらに自然との具体的な関わりを通じて仏教ならば生けるものの生と死の尊厳をとりもどし、朱子学ならば見返りのない真の天道を生きる、安易な肯定に安住せず未来へと意識を高めていくこと、このようにして、この転換期を乗り越えられなければならない。
このことはこれまで人が本当には選択してこなかった理想論ではありながら、実際上もはや避けては通れないだろう。自然に感情移入し理想を語るだけではどうにもならないのかもしれないが、そうでなければ少なくとも人間の住む地球環境は、ほどなく終焉をむかえるといわざるをえないのではないだろうか。
(今日書いたことは、ふとしたことから思い出した農学部時代に出会った私にとってはかけがえのない恩師から学んだことに、特に江戸期の自然観を中心として大きく依拠しており、さらに今の感覚をこれに補足しているが、現時点での自らの感じ方、考え方としてさらに言葉にしておきたかったため記してみた)
熊野 kumano (9) 2010
道元のように感覚を研ぎ澄ませ、文章の論理力ではなく言葉をその手段として感覚の論理をさらに浮遊させる、そうした力によって呼び寄せられるものは確かに存する。何かについてついに論ずるということがないありさま、無論ということ、そのあるがままに満たされた無として。
論理の意味の破裂されるその寸前にとどまること、破裂の直前を破裂しそうになるという運動そのものによって保つことが感覚の論理を導き、感覚の論理が言葉の意味の論理をかろうじて存在させながら、論理が論理を超えようとするところにあらわれる他者。その他者は自らのうちにやってくる。
満たされた無としての他者の到来が、自らの内側に形成されようとする論理を異質化するように動く。こうして私は私のなかに沈み、他者に置換されるような得体のわからない違和感、私と他者の異質化と同質化の繰り返し、瞬時の置換の極点、生成と破裂の間隙において動きが自然に静止しようとするとき、動いているという静観を得ることもありうる。
我に返るのはそのときである。だが、静観しているその状態は外側からみえず、内側からも聴こえない。我に返るその一瞬にだけ、静観が宿る。ふと場のなかに入りそれと気づかずにシャッターがきられていたときのように。 一千分の一秒のなかには誰もいない、所有される現実のない、存在があるのみ。 静止と無音に身体の一撃が加えられること、その力が我を我として再び生じさせる。シャッター音、その機械性とその操作性の住処はここにある。それはコントラバスにおける弓の手触り、毛と弦の脂によって擦れる音が揺れたときの瞬発的な摩擦音にも似ている。
こうして経験された心の無はそのまま他者の介在によって心の力動となり、私はいわば生まれ変わる。静寂という地に生えて風に震える竹、竹の合間からの木漏れ日のように、のびやかでしなやかな心の動きがそこに生まれる。撮ったあと、すぐに画像を見れないフィルムの特性。心を待たせ熟成させ、フィルムが物質的他者となり私をまた異化するために。そのとき時間はもはや時間ではなく、時間の長短は時の密度のなかに消失する。
少しかじった程度で禅を本当には理解していないにしても、少なくとも禅的な過程は音を弾く過程においてもあらわれるし、写真はうつされたものはおくとしても、おそらくその構造と機械性、その手法自体は禅、あるいは禅的といってもそれほど間違いではない。何よりもそれは普段の仕事をまっとうする過程、仕事をさらにその過程内容において洗練させようとし、それを慣れの怖さから救い、動きながら質を保とうとすることそのものの手がかり。それはそれをもとに理論化し作品化できない行為そのものであり、過程そのものである。
しごく勝手ながらも良寛や道元にこの感覚を裏付けるものを欲したのだろうと思う。それは他者へではなく自らへの欲であるが、その自覚とともにその思索を追うことによって、いまの自己を肯定するため、結果、そのためなのだろう。道元は神秘ではなく一つの方法であり、現実と夢のあいだを漂う世界のリアリティを形成しうる。この身体化に適しているのは何より毎日の仕事を大事にすることに他ならない。私は良寛や道元に仏性のありようを見ようとしたのではなく、いってみれば、その個人個人から感覚の筋のようなもの、微細さと弱さの孕ませる痕跡のあり方とその残余のあり方を学んだのだろうか。
道元は思えば思うほどその解釈とは別物でありつつも、私にとって一つの何かの論理として今ここにありつづけている。いまのところ、そこからこの感覚が逸脱しようとはしない。炎は炎を自ら消すことはできないが、炎の消える場所、炎の消えた微かな煙の匂いは、その論理と言葉の政治からもれる。そのために道元は言葉を書いたと想像もするのだが、その言葉からすらもれるもの、不意にあらわれつつ不意に消滅する光、揺れる炎を導いているもの、炎を消すもの。言葉からもれるもの、言葉の木々のこもれびは何だろうか。
私の日常のことどもにつねにまとわりついてくるようにあって、自分ではまだ良くわからないもの、簡単には近寄れないものがある。しなやかな心、その竹のうごきにいったんはしのびよるが、ついに竹と同質化できない風、竹の隙間からもれてこない光、岩に染み入ることの決してできないような音は、無限の時空をひたすらさまよっている。
言葉にすることによって、むしろその存在を大きく排除されるものたちが、やはりそこここにある。道元の言葉からは離れていくということは、沈黙を静寂に返すことに他ならない。道元を読んだ、とすることはそういう言葉のないところに生きることである。
個展をしたとき影響をうけた老子やペソア、そしてロルカには、彼らが表現しつつも言外に言い残したもの、言い当てないことによって浮かび、朝目覚める寸前の言葉のように消えていくもの。当のものを言い表さないこと。それはまわりまわることによって、次第に円のなかに生成する神経の軸索のような感触を聴くこと。世界の軸に参与できずに、そのまわりにまとわりつく。だが言葉の布地とも違うもの。
道元の言葉からはなれることによって、道元の言葉にはいっていく。そうして道元の身体をみたとき、そこに聴かれるものたちをみる。それは、道元もまた一人の満たされない風であり、音である、そういう見方によって道元を救うものたち、あるいは道元を道元として道元のまわりに存する他者として、道元を存在せしめるものたちとともに、道元に結晶しなかったもの、有機物や無機物としてさえも結晶することのできない浮遊物をみることだろうか。道元の神経の軸索を浮かび上がらせて聴く、そのことは、論理の超越による離脱、感覚の論理からさらに離脱することだ。
沈黙は言葉の裏側か。静寂は喧騒の裏か。そうではなく、静寂を沈黙が破ったとき、もうすでに音が始まっている。では生じた音は何によって静寂へと返るのか。道元が書いたものをよむということは、同時に道元が書かなかったものに眼を向けることでもある。それは言葉の限定を限定することによってその周囲を浮き彫りにすることであり、言葉を散漫にすることではない。
アニミズムという用語の定義や神の化身、それらの定義やそれを示唆する用語は世界中に多々あるが、第三者からすれば言葉の定義でしかない。それは言葉の政治だ。だが言葉の政治から逃れるものは、注視すれば聴き取れる。アジェの写真に映された光、ジャコメッティの極小の残されて立つ男、芳年や国芳の描いた霊、若冲の墨の驚嘆すべき濃淡、上田秋成の雨月。
音が沈黙から静寂に返るとき、岩にしみいることのできなかった、岩としてついに存することのできなかった、季節のはずれに遅く生まれたもの、うまく死ねなかった蝉の痕跡がそこにうごめいているという予兆を残しながらそれ自身で自律する音を求めながら。
近くの世界をミニチュア化したようなレジャー施設のような博物館で、数ヶ月前、たまたまかかっていた聴いたエスキモーの音楽、その単純明快でなおかつ揺れの確かさをもったそのもの凄さにうたれるとき、私は奥底に何を感じているのだろうか。その奥底をのぞくことはできるのだろうか。忘れることができない、しまうこともできない記憶のような。これまでの言葉とは全く異質なところで身体がざわめく。あの数分感をただ反芻している身体がずっとここにある。地震の影のように。
権力者は布をまとった言葉の陰に隠れてみえない。みえてくるのは犠牲者ばかり。飼いならされた言葉こそが政治であり暴力であるならば、はたしてこの時代に、言葉なしに音楽や写真は存することができるか。道元あるいは禅はアナーキズムではない、混沌でもない。あたりまえのこと、基本的なものごとはどこまでも深い問いを抱える、そういうことの形と実践。
良寛そして道元は、東京から越してきた私のリアリティ、その確認としての私なりに読み経験した場にすぎないが、 彼らの内にある苦悩が苦悩をつきはなした言葉がこの私にも読み取られるとき、 一瞬という時間を超越した空間を無限に開く場に私は漂っていた。微細で弱く儚い、そのためらいの極みとして純化された強靭なるつぶやきと痕跡のなかにいた。
人は二つの人生を生きる(ペソア)、その片方の現実の推移、そのなかの偶然が私に課し、偶然が偶然を化すことによって生じた必然がもう片方の現実を確実に象っている、そういう動き、常にそのなかに私は生きている。この隙間に右往左往しつつただよいながらも、こうして写真や音は私のまわりをいつもうごきまわっている。
熊野 kumano (8) 2010
先日は、Linksのコーナーで紹介させていただいた齋藤徹さんと徹さんの娘さんの真妃さん、ミッシェル・ドネダさん、ル・カン・ニンさんの四人で、ツアー移動中に犬山を訪れてくださった。
齋藤徹さんは今となってみれば旧知の仲、音楽の大先輩という感じで、かつて徹さんのところに音楽のレッスンに通っていたのが、いつのまにか自然に親しくなり、家族ぐるみの付き合いとなった。学生の終わりころに出会って、大学病院でとにかく必死に働いていたころまで時々通っていたが、そのころからレッスンは楽しかった。レッスンによって世俗の余計なものを音に剝ぎ取ってもらって、医者としての行為の質を本質的にたもつことができてずいぶん助けられた。
現代にとって、医療行為の形は大きく違えど、たとえばシャーマンとしての医者という視点は医者にとって本質的に重要だ。このことは現代にとって言葉にできないほどあまりにも深いことで、いまでもなかなか私はそれについて話すことができない。さらに理解はしていても、日常の雑多で煩雑、複雑な関係性と現実がそれを隠す。そうしていつのまにかどこかに忘れ去られた何かを齋藤さんのレッスンは身体に思い出させる、そういう貴重なレッスンだった。逆にそういう視点をもたない、あるいは軽視している人間はあのレッスンのさりげない凄さもわからずに、その意味も想像すらできずに、ついていけないだろう。私がつづけられて、ラッキーだったのは私が音を求めつつ医者を志していたためだ。
ご本人はかなりご謙遜されていらっしゃるけれど、音楽はいわずもがな、人間性を音によって引き出し、このようにその人間に合った形で教える才にもたけた方だと思う。ゆっくり話すのはかなり久々でとても楽しかった。なかでも仏教伝来以前と今の私たちの間、歌と踊り、そしてアジアという話には現状への大きなヒントがある。たとえば先にあげたシャーマンということ(いまはそれもほとんど象徴的にしか使えない言葉だが)、それは現代において忘れ去られた、だが人間の身体が忘れることが絶対にできない根源的な何か。ある意味において現代の身体的トラウマだろう。徹さんはとうにそれを感じ取られて、長いあいだ、実践しておられるようにみえる。いずれその高みへ(あるいはその低さへ)私も自分なりの自然な形でゆっくりと導かれたらよいなと感じながら、今回もまた話をきかせていただいた。最近はほとんど飲まないので、元来酒に弱い私はビールコップ一杯で顔が真っ赤になるくらいだったのだが、楽しくて久々にずいぶん自然に酒がすすんだおかげで、正気のままほとんど酔わなかった。あのときのレッスンを思い出した。
齋藤真妃さんは東京の東中野のポレポレ座でスタッフとして現在活躍されている。ツアー中3人の演奏家を大きく支えているのがわかる。こういう立場の人がいかに大事で、目立たずに支えているかは、私は自分の医者の経験からもよくよく知っている。誰々の作品、とはいえ、本当はその数パーセントもその人の作品とは言えないこともよくある。あまりにも大事な仕事であるから変わらずこれはこれで大事にしてもらいたいと願っている。気だてがよく芯のある方で、私の小さい娘もずいぶんかわいがってもらってありがとうとお礼を申し上げたい。ときどきライブの写真を拝見させていただくが、写真にも何かの芯を感じる。これもまた大事にしていただきたいと思う。
ミッシェル・ドネダさんは何よりも、その人間性が稀有なほど大きく、日本に欠けているといってもよい何かを間違いなく内包した方だ。演奏にその人間の深さと広さがダイレクトに直結している稀有な演奏家であり、心から尊敬している。彼と一緒に楽しく散歩し、酒が飲めるという経験によって私のなかの何かが深いところでいま呼び起こされている。つまりは、風がふと風の音を奏でるように、人間にもこういう音が出せるのだということ、これは人間が生存してきた、そしてなお生存しているということへの誇りだとすら言える。人の自然というのはこういう音を奏でるのだ。その究極的な形がミッシェルさんには確かにある。
無論自分は自分でしかないのだが、ミッシェルさんは私のいまの私の目標だ。私の駄目なところ(いくつもいくつもあるけれど)を剝ぎ取ればきっとああいう姿になる、なればよいと夢想することができる。自分にひきつけた勝手な言い草をすれば、自分を出し切るということが逆説的に表現にならない、そういうことが究極的にはできるのだということを演奏を通じて知った。私に欠けている、あるいは求めているものはまさしくそのことだ。風が風であるとは風流ということとほどとおい、風の流れとはそういう生命の大きなエネルギーのことだ。彼という人間にふく風は彼のなかの、そして太古からの人間の内部を貫く風に等しいのだ。その人間の風の息がソプラノサックスを通じて聴こえるのだ。
ル・カン・ニンさんは、はじめてお会いしたが、とにかくこれまでお会いしたことのある人のなかでも、ものすごく知性あふれる方で、まさに驚愕した。もちろん、人間性も素晴らしくユーモアにあふれていて、おもしろい。質問をさせていただくと真剣に答えてくださる。話をしだしたら止まらない。夜中一時くらいまで酒を飲みかわしながらみなでいろいろ話をしたが、ニンさんは本当に強烈な印象だった。
朝おきたらジョン・ケージのプロジェクトに向けた譜面を製作中で、 これがすごくおもしろそうで竹の日本製の定規を使っておられたのだが、その集中力はその知性とは裏腹というより表裏一体、まさに動物的だった。おおらかな人柄と寸分くるわないバランスをとるような対をなすように、その眼光は獲物をとらえるように鋭い。犬山城でもあらゆる音に鋭敏に反応されていたのが印象的だった。人間の知が人間にとっての身体であるとはこういうことを指す。
演奏も発想がとても豊かでその知性がダイレクトに身体となり、多くの観客をひきつけていた。 まだニンさんについて語る本当の言葉がないのが残念だが、そのうちもっとわかるときがくるだろう。ジャン・サスポータスさんにはじめて会ったときもそうだったが、稀有でありながら非常に親しみやすい、そういう独特の魅力をもった方で、ひきつけられる。徹さんは日本にとって重要な人を連れてきてくださる。
翌日の名古屋でのライブ、久田舜一郎さんの小鼓を交えての演奏。ちょうど満月の日。久田さんの音と声が心にずしりと響いた。二歳になる娘も思い切って連れて行った。娘も興味をもっておとなしく聴いていたというより、みなの演奏に何かを聴かされていたのだろう。
今回はこうしてよい経験をさせていただいた。言葉にできない部分が多いが、感謝の念と私自身の今後のために多少無理をしてでもここに書き留めておく。現在、危機に直面している日本もこの経験を生かして、これから世界のなかでこのように個人個人が尊敬されるような、本当の意味での自信と誇りの持てる国に根っこから変わっていきたいものと切に思うし、まさに他人事ではないのだ。ミッシェルさん、ニンさん、来日、来犬山、そして演奏をどうもありがとう。もちろん徹さんと真妃さんにも。
熊野 kumano (7) 2010
ある目的があり、それを達成し維持する為にある手段、これが政治であり、政治的であるとはそういうように目的と手段をあやつることだとしたら、現在の政治の最たる目的は大企業との金と地位のやり取りであり、その為の手段は国民の忠誠心をあおることである。明確な責任をとらないままにとてつもなく大きな失態のほとぼりが冷めるまで待つ、そうして事実を小出しにしていく、そういうことまでして現実の本質をはぐらかし、想像してみれば悪夢のようなこの現実とむき合う民の意欲すら、虚脱感のなかに麻痺させながら。
道元の生きた鎌倉幕府への政権の転換の時代、由緒ある貴族に生まれ落ちた道元は自らのなかの政治性と格闘していたことは疑いようがない。彼は、こうした政治的な政略的手法を許容するわけにはいかなかった。目的と手段を分離させてはならなかった。もともと彼は何の為に何をやるのが必要であるかというきわめて合理的な考え方をしていながらも、それでは政治性から逃れ、さらに政治性とむき合うことはできないと知った。むき合ったとしても、ついに政治的思考は道元にとって遠い。だが身体のなかにそれをなお見いだした道元はおそらくその最後、坐禅に立ち返ったであろう。そのとき民を捨てたのではない。自らをとっくに心身脱落した道元は、最後に民という現実をも心身脱落した。民に空というすべてを受け入れる器を言葉でもって残し用意した。それが正法眼蔵であるということもできる。
奥深い山中に漂う霊気のようなものに触れ、森林の厳かな気配に耳をすまし、理解不能で不完全なものを知ろうとして無限の迷路に入り込むが、足をつけている土の感触を心にくぎさしていながらも、裂け目に入り込み外側にはもう出られない。入り口がどこにあったのかもうわからず、どこにいくかもわからない。ただただ山中に迷う。やがて迷いは迷いでなくなる。山のなかに迷っていてもそこに心に迷いが生じないのは、迷いに身体が慣れるのではなく、その迷える沈黙のなかにおいて己が森林の霊気に支えられ、その霊場、すなわち仏性のなかに漂っていると気づくからである。
政治的思考(あるいは堕落した宗教もそうであろうが)は霊や仏という概念までをも目的のための手段として利用する。だが、そうした手段そのものから離れて距離を置き、その本質を道元のように知れば自らにある政治的思考が打破できるかといえばそうではない。その本質を知ることがそもそも目的と手段とが同一の場所にある行為であり、それ自体は自らの政治的思考を打破する手段とはなりえない。政治と真逆の位置に己が今あるという状態があるのみ、それに気づくだけだ。あるいは逆に、政治から政治性をひきはがそうとするなら、己もまたついにはその政治性からのがれられないということでもある。そうして一部が莫大な富と権力を握り、権力者は変わりながらついには覚らず民を苦しめ、民は尊い抵抗をしながらも悟るように生き延び続ける、そういうことが繰り返されてきた。道元はこうした場所において自らを省みるように葛藤していたであろう。
禅は論理を超えたものと理解されがちだし、書物を読むとそうしなければいけないという雰囲気も感じるくらいだが、正法眼蔵、私にはこれほど論理的である意味単純な書物はないようにも思える、仏性とは一つの明快な論理だとすらいいたい、一つ覚れば、そういうときもある。ドゥルーズがベーコンについて「感覚の論理」を書いているが、この感覚の論理、一つの生地を織ること、生地をはがしてもまた次の生地がおられていくその感覚的で官能的な反復を繰り返し、繰り返したそのとき、世界を内側から知る道としての論理が出現する。
それは外側から細かく世界をみて類似を見いだしつつ構造の類推をしていくことではなく、内側から全世界とその構造を一挙に感覚し自らの位置を察知するための論理であり、無限というあらかじめ目的のない場所へと瞬時に到達する、手段という時間的猶予をもたない一瞬という間の連続された道であり、有限であるその道がすなわち無限に通ずるというそれだけの、きわめてよくある論理的過程を、精密な詩としての言葉で示したに過ぎない。言葉でもって示すことが道元にとっては民としての心身脱落であったともいえる。そうして聖から俗へ降りる道としてもさらに坐禅を追求した。だがその先は示されてはいない。
かつての大国ポルトガルが大地震を一つのきっかけとして見かけ上は没落していった。しかし私のおとずれたポルトガルは美しく、文化と伝統が脈々として生き生きしていた。今にして思えば、経済が破綻しても、そこにずっと生き続け伝え続けられてきたものは、さらに脈々と生き続け土地に終わりはないと告げているようだった。しかしながら、原発事故はそれにしてもあまりにも取りかえしがつかない事態であると今日も思う。道元にとっての禅、今の社会全体にとってそれにあたる葛藤がすでにあちこちで生じている。