京都

京都 kyoto, japan, 2010

Pasted Graphic 36

熊野那智へ

遠くには紺色の海
瀧は光をまとい虹をかけ
水飛沫は散乱する
冷冷とし乱舞する
音楽がきこえた

ノイズを音楽という実感
そのもとに聴いた
まってやっとノイズと書けた

切り倒された木々は土の感触につつまれ 
人知れずノイズを宿した  
どこでいつ?

ノイズの言葉
そとの音と一体となるため
ノイズをなかに聴く

物質と精神の動乱 
ノイズが時空の重なりを惹起する 
重なりから溢れ出て意識が派生する

時間が空間が飛び散る瞬間
瞬間が意識を照らす
瀧の飛沫のごとく

飛散され静止した物質の影
意識は光のネガ
無意識は音のネガ

なぜ音を出す?
ネガを反転し
ノイズをそとに聴く






京都 kyoto(13), 2008

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<ブログのお知らせ>

週末から1週間程度夏期休暇を頂きました。
日本をしばらく留守にしますため、ブログを一時期休止致します。
再開は9月末日から10月初旬になりそうです。

皆様アクセスをありがとうございます。
残暑が続きそうですが、皆様どうかご自愛ください。




京都 kyoto(12), 2008

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今日はいい天気だった
やわらかさの芽生えた光
涼しい朝の風
残響はどこか静かだ
乾いた大気
落ち着きを取り戻しつつある
今日という日
空間に漂う
数々のうごめく時の場のなかに
光と大気が日々異なって感じられる
その媒体を音がすり抜ける

私の出す音
そしてやってくる音は
私という一つの場の状態のみならず
光と大気にも
左右されているのは確かだ

この乾いた大気と
暑く柔らかい光につつまれるように
音がやってくるそのあり様を
耳そして身体は確かに受け入れている
そのとき心は落ち着く

だがその穏やかな大気と音の受容のなかにすら
死があらわれでることがある

私を取り巻くすべてに私が抱かれている
その時空間においては
考える意識だけが居心地の悪さとして残され
現実のすべての責務が果たされたとき
意識は次第に心に吸い込まれて
身体だけが残る
その身体のなかにあらわれる死

存在というしみ出す力そして一つの暴力
その存在の力から召還されるような時空から
私を必死に防備するために働いていた
様々な意識そして無意識が
心に変容するその過程に
このうららかな大気と光のなかに
忽然とあらわれでる身体
それは記憶ではない生そのものであり
一つの可能性であり続ける

その私の身体こそが身体
剥き出しの身体
無防備であることが唯一の防備であるような
生の身体

剥き出しにされた生の身体は
身体そのものによって
存在のしみだしへ参与する形となるのだが
言葉を超えた意思の力によって
存在のしみだしに
かろうじて拮抗しうる

その可能性とは
私の意識とは異なるあり方のなかにある
私ではない意思のなかに
存在からの召還を拒み続ける私のなかの
私ではない意思のなかに生まれる
それは不可能性のなかにある身体の意思

不可能であることを可能にするそのような身体の意思と
そこに必然的に生ずる挫折のなかにこそ
不可能性すなわち死が
存在という力への一つの抵抗の形が
聴こえだす

光と大気のなかを通過する音の受容
そして私から出る音

生の身体の持続する可能性のなかに
存在という暴力へ抵抗する音の意思が芽生える
それはもはや私の音ではない

音によって存在をさらに存在たらしめず
存在をうち消すことによって
一つの静寂の場を開くこと

音という存在の力を存在と拮抗させ
その裂け目に
死の不可能性を聴くこと

私ではない身体の意思に降りては
それを持続すること

音の暴力に抗して音を聴き音を出すために


そしてまたこの仰々しい言葉たちもすぐさま、音の一つのあり方に注意しようとする意思の記憶にすぎなくなる。書いた言葉を体しつつ、そこから真に逃れて音を出すことのなかに、逆説的にもその方法の体現があるだろう。そうして長い時間をかけて、それがまさしく自然にできるようになるまで、ひとつずつやっていくほかないだろう。




京都 kyoto(11), 2008

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断定すること
言い切ることは
ある空間を開く

停止すること
断ち切ることは
ある時間を開く

困難だが
自己の背丈を見据えて
少なくとも内的にそうしていかなければ
技術はあがらない
そして先のまた先があることにさえ気づくことはない




京都 kyoto(10), 2008

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予定していた文楽鑑賞に
弱った身体で無理していってみたが
途中で帰ってきてしまった

夕方の風が涼しい

ちょっとした風が肌にそよぐとき
その風の心地よさが
身にしみてありがたい

目立たないが
もうすでに
風のなかにすべてが
あらゆる形あらゆる流れがある

世界のほんの片隅に生じた
風のなかに停泊する
私は満たされる

私という一隅にそよいだ微風
涼しい秋の香と聴こえる音
一隅と片隅に感じられる世界のすべて




京都 kyoto(9), 2008

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ぎりぎりの疲労と放心をともなった眠りの今朝は
身体の虚脱とともにある目覚めのなかにあった
虚脱のなかに再び身体が露出してくる
訪れてくるであろう脳裏の未来を待ち構えようと
身体を備えるのではなく
未来に近づいていく身体がある
今日やらねばならないこと
私がいなければみなが迷惑するであろうことたちへの感謝とともに
その慌ただしい義務感に束縛された朝の予測は
カチカチの石頭から脱出して
柔らかい脊髄のなかの髄液の循環へと侵入する
義務感そしてしなければならないことは
為すべきことへと変化し
為すべきことは為すこととなり
為すことは為されるという不確かな確信へと導かれ
夢の確信が生きる力となって
私の心と身体は動き出す
私の決定された未来はそうして
夢の未来へと変化する
たとえ二つの未来の面構えが同じでも
私のあり様は全く逆の方向を向いているだろう
そうした身体に気づいたとき
未来という一つの固形物が溶解するエーテル
漂流した液体に身を浸透させることを通じて
身体と心は世界に同化していくかのように変化する
だがそれは現実のなかに耽溺する同化ではない
投げ出された心と身体の動きは遅くなり
素早い現実に
ある摩擦と抵抗を示し施す形で
私は世界の一部となる
そうなると祈りながら朝は過ぎてゆく

鴨長明「ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず 淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまりたる例なし」
自己と世界への洞察は
第三者的視点のみではなく
自らが動きのなかにある聴点にあらねばならない
時間の体している心の限定と新しい変化
空間の体している身体の限定と新しい変化
その存在と非存在の織りなす網目のなかに
分け入る心と身体を示しているかのように
その言葉は
聴こえだす

自己という一つの時間のまわりに感じられる
時間や空間がどのようにうごめいているか
そのうごめき溶解していく未来をつかみ取り
つかみ取っては逃げ出す
その時空間のなかに身を浸すこと
非自己なるものの自己への介在を感じとること
それとともに動き変化すること
何かが変化するを観測するのみならず
変化のなかに自らがあることを知る
知恵と恵み




京都 kyoto(8), 2008

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眠るのだ
夢をみないくらい

朝の覚醒のなかにほのかに消える
あの言葉も聴こえないほどに

京都 kyoto(7), 2008

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雨はようやく一区切りついたようで
暑い夏の終わりがもどってきたようにたくさんの方々がやってくる

毎日毎日新しく最低十人ほどの方と出会って新しく話をする
それほど親しくはならないけれど
でも通じ合うものもやはりどこかにあって
笑顔や怒った顔や心配そうな顔や安堵した顔や
いろいろの顔と無数の声が脳裏に混ぜこぜになっている
カルテをみてはこの人はこんな方だったかなと
想像して思い起こしてはまた出会う
白紙であればどういう人かなと想像する(ゆっくりとはできないのだけれど)
そしてその繰り返しが今日も続く

言葉の意味よりも
言葉を伝えるその響きのなかに
その人間のあり方が如実に現れるから
同じことを言ってもその内実は全く違う

時に沈黙することが
最もよくものを伝えることさえあるだろうが
沈黙を開くための言葉というものもあるだろう

さしたる意味のない言葉のなかに
最も重要な音やテンポの現れ
その人その人の感受性が
最も端的な形で現れている

説明しはじめる前に
こちらの言わんとしていることが
初めて会った相手にすぐに直観されてわかるのは
相手の仕草や表情を感じ取って
最初の言葉をそのようにうまく使えたときである

おはようございます
という挨拶も
そうした響きのなかにあってこそ
本当のありがたみがある
挨拶が美しいのはそのためだ
いくら照れ屋さんでも
本当に美しく挨拶されると
少し心が開いて言葉がでるということもあるかもしれない

左眼はまだ良くならず眼帯はもう少しとれないけれど(たいした病気ではないようでした)
当たり前の日常的な一言一言を
単純な「本音」の言葉を
大事に生きよう

どんなに忙しくて疲労していて体調が悪くても
そうした言葉をできうる限り大事に生きることのなかに
人と人の調和が生まれるのを感じて疲労を癒そう
その背景には深い深い命があるのだから




京都 kyoto(6), 2008

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雨が降り続いている
今日もまた雨が降っている
雨が地面と草と音を出しているのか
私が雨の音を聞いているのか
音といったとき
それはすでに言葉でもある
私というひとつの有機体にとって
雨はひとつの他者である
雨の音を聞くとき
聞いたその音は
すでに消滅している
おととい聞いた雨の音と
今聞いている雨の音
音を意識したとき
それは私のなかの言葉と否応なしに連関する
言葉はひとつの音なのだが
それを雨そのものととらえたとき
はじめて人の言葉と人の言葉が響きあう
言葉はひとつのエゴである
音という言葉もひとつのエゴかもしれない
だが雨はエゴではない
雨と私の聴覚を通じての摩擦
音の選択ではなくその摩擦自体のなかに言葉以前の音がある
そうした音の響きあいが底辺にひたひたと流れている
その土壌から「あること」の哀しみというべきものが
ひたひたと心にしのびよる

今私の左目はおそらくウイルスに侵されている
結膜は赤くなり涙が否応無しにこぼれ落ちる
明日医者にかかれば休んでそして眼帯をすべきと言われるだろう
今日はサングラスをかけ目をこすらないようにし
目の痛みと音のなかに生きた
岡本太郎美術館へ久しぶりに行きそうした眼で岡本太郎の韓国の写真を見た
太郎は写真家ではなかった
ユージン・スミスは写真家であった
二人は正反対の位置にあるが特に数枚の写真は正反対でありながら共通する何かがあった
北と南といったときそこにはどこか似た響きがあるように
そして催されていた美術家の李禹煥さんの話を聞いた
最後に私は思い切って李さんに質問した
韓国における聴覚文化について
李さんは具体的な話をしてくださった
その場は一つになった
李さんはハンセン病の人が玄関の外にやってきて
自らの苦しみを謡ったという話をした
健康なものたちが私の魂を吸い取り私はこうなった
私は生き返ったらあなた方よりより生きるのだ
そのうたは健康なひとびとへの痛烈な響きだった
その嘆きによってその場は深い深い哀しみに包まれたという
雨の音を聞くことのなかになぜ哀しい響きがあるのか
それは人間が聴くことのできない
大地と海の息吹としての音の根が横たわっているからだ
その音の根
息吹はなぜ哀しいか
そこに死があるからだ
その根は聴くことはできないが
いわば動物がそれをいち早く感じ取るように
人間の心にも響きこだまする

視えないから聴こえないからといっても
視えるから聴こえるからといっても
視ることも聴くこともそうした響きとこだまのなかにある
きこえる音ははかない
そこにみえる風景もはかない
そしてその音と風景は
太古から揺るぎないものであり続けている
その忘れることが決してできないことが
人間のエゴによって忘れ去られようとしている
忘れたつもりになっているとしか言いようのない有様
だがそれはそこにあるのだ
だから忘れることはできない
そこへ戻り新しい聴覚と視覚を練り直すことだ
それは構築することとは違う方法
先へ進もうとしても壁はそれだけ
大きくなるばかりなのかもしれない





京都 kyoto(5), 2008

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今、私と私のまわりに最も必要なことは何か

そこに抱擁をともなう言葉と音楽

眠り
聴くこと

目醒め
視ることの復帰





京都 kyoto(4), 2008

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外の雷と雨の音を静かに聴いて
ひとつぶひとつぶの雨の落ちる音の差異と強弱
雷の怒濤の低音に耳をひらきつつ
雷音と雷光との隔たりを感じつつ
愛知でも猛威を振るっている雨の当たっている人たちのことや
犬山のあの川は今の雨はどうであろうかと心はやはり落ち着かない

言葉を書きとめること
内省
言葉に導かれて
雷の爆音にたかぶる心を静かにして
時間をかけて何かを発見していく過程

だが内省とは別のあり方
何か別の言葉の在り方
ひいては世界の別の在り方があるかもしれない

そして書く言葉は文字

実際に手を動かし文字で書いていくその手は
ローマ字入力でワープロを打つ手より
言葉をはるかによく言葉として導くだろう

書が言葉の根源的な姿を心と身体で浮き彫りにすることだとしたら
そこには文字以前の言葉の音と
その音を言葉として発してきた人間の吐息があるはずである
そうした太古から文字が形成され徐々に変化してきたに違いない

とすればその背景に感じられるのは
自ずとつなぎつないで変化してきた人々の連綿とした営為

こうしてみると
文字にして言葉を書くということの根源的な姿は
これまでの人々の営為を背負ってその営為に敬意を払って
今を生きる私を通じてその吐息と音を詩にするということにあるだろう
そして詩はこの意味で音楽の根といってもよい

新しい言葉とは
この連綿とした営為をふまえて今ここに発せられる言葉にある

だがこの降り続けて止まない雨
この雷光の閃光と雷音の低音の時空の質的な隔たりを思うとき
今は一体どこにあるのか

そのような心の変化を経て
内省や思想や議論のための言葉とは違う言葉
感情のための言葉とは違う言葉のあり方が密かにしかし連綿と存在していて
それ自身が一つの世界であることに気付く

そうしてみてまた
雨のひとつぶひとつぶが地面に連打するその多様な音に耳を傾けると
雨は変化し続けている
そして雷光と雷音が一つの現象の違う形のずれであることにますます感じ入る
それを聴いている私がいる

そして思う
いかにそれが偉大であれ鋭くて意味のあるものであっても
一人の人間の思想をはるかに超えたもの
その根底にある大きな器であり
それを支える低音でありうねりであるような言葉があるのだということを

当然かもしれないが
私があるということのなかに言葉がある
それは人間が人間であることの必然への深い自覚なのだ

そしてその大いなるうねりの言葉を連ねて一つの詩にすること
その過程の基本はどこにあるのか

この鳴り止まないすさまじい雷音と雷光
そして変化し続ける雨のなかに
その在処を聴き取らなければならない




京都 kyoto(3), 2008

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写真を撮ること
考えを中断するための通路

止まってはまた思いなおす
また一日歩いてとまってはまた思いなおす

写真は終わりなく反射する
一枚の襞
息の通路
音の通路

私があり夢があり
誰のものでもない現実がある

私と夢と現実の
音と息の通路

視覚という重責を要請された写真眼から
視覚化された耳と息そして言葉があぶりだされ
聴覚と言葉の原始体
音が
写真のなかから外へと
もはや写真ではない場所へと呼びもどされる

その場所とは
言葉が言葉そのものであることによってある世界
言葉となった世界

言葉は音
息ある声

息づいた世界を
聴覚と言葉の原始体を
音の聴こえてくる静寂と世界のありのままの雑音を
くさった議論や押し付けがましい正義の言葉でたたきつぶすな

たたきつぶしたたきつぶされてしまう前に
世界というひとつの言葉を聴くことのなかに
世界に生きている自己をまず感受するのだ
エゴと非エゴの拮抗のなかに呼び起こされる
世界というひとつの言葉を聴くのだ

止め止められることによって動き出す
世界というひとつの言葉の
夢の通路
一枚の襞こそが写真だ




京都 kyoto(2), 2008

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ジャン・サスポータスさんと斎藤徹さんのご家族の皆様と夕食をともに過ごした

ジャンさんの眼は遠いところをみていて
なおかつ現実を直視している眼だ

ダンサーと演奏家と医者の本質は同じだという話をした
まさにその通りなのだ
私の求める場所はそこにある

ジャンさんは自己と他者双方に対して心底真摯であり
他者の他者性に対して心底謙虚であり
どのような人にも可能性を見出す

そして心底というのはどうして可能か
それは自己へのゆるぎなき信頼があることによっているだろう

自己への信頼とは
自己の鍛錬とその鍛錬を他者にむけて一生かけてやり続けること
そのこと以外から生まれるものではないのだ

そのことの果てに
決して得られることのない
自由なき自由があるのかもしれない




京都 kyoto, japan 2008

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京都でユージン・スミスの写真展をみた

写真はプロパガンダと密接な関係にある
写真が真実を語るとは思わないし
事物の痕跡が写っていても
それが実際の出来事の推移の証明になるかどうかはわからない
そして自然なようにみせかけて
実は瞬間を作った写真もいくらでもできてしまう

彼は写真を通じて何かの信念を語ることにおいて
いかにも真実らしいものそして美的なイメージを想起させる叙情的手法を
よく知っている写真家であった

そしてその写真の叙情のなかに
彼が信じようとした真実の
一種の苛烈と激昂をみる思いがした




京都 kyoto,japan 2007

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絶望は哀惜と溶け合い郷愁へと変容する。
魂は希み、旅をする。郷愁とともに。