京都 kyoto, japan, 2010
熊野那智へ
遠くには紺色の海
瀧は光をまとい虹をかけ
水飛沫は散乱する
冷冷とし乱舞する
音楽がきこえた
ノイズを音楽という実感
そのもとに聴いた
まってやっとノイズと書けた
切り倒された木々は土の感触につつまれ
人知れずノイズを宿した
どこでいつ?
ノイズの言葉
そとの音と一体となるため
ノイズをなかに聴く
物質と精神の動乱
ノイズが時空の重なりを惹起する
重なりから溢れ出て意識が派生する
時間が空間が飛び散る瞬間
瞬間が意識を照らす
瀧の飛沫のごとく
飛散され静止した物質の影
意識は光のネガ
無意識は音のネガ
なぜ音を出す?
ネガを反転し
ノイズをそとに聴く
京都 kyoto(13), 2008
<ブログのお知らせ>
週末から1週間程度夏期休暇を頂きました。
日本をしばらく留守にしますため、ブログを一時期休止致します。
再開は9月末日から10月初旬になりそうです。
皆様アクセスをありがとうございます。
残暑が続きそうですが、皆様どうかご自愛ください。
京都 kyoto(12), 2008
今日はいい天気だった
やわらかさの芽生えた光
涼しい朝の風
残響はどこか静かだ
乾いた大気
落ち着きを取り戻しつつある
今日という日
空間に漂う
数々のうごめく時の場のなかに
光と大気が日々異なって感じられる
その媒体を音がすり抜ける
私の出す音
そしてやってくる音は
私という一つの場の状態のみならず
光と大気にも
左右されているのは確かだ
この乾いた大気と
暑く柔らかい光につつまれるように
音がやってくるそのあり様を
耳そして身体は確かに受け入れている
そのとき心は落ち着く
だがその穏やかな大気と音の受容のなかにすら
死があらわれでることがある
私を取り巻くすべてに私が抱かれている
その時空間においては
考える意識だけが居心地の悪さとして残され
現実のすべての責務が果たされたとき
意識は次第に心に吸い込まれて
身体だけが残る
その身体のなかにあらわれる死
存在というしみ出す力そして一つの暴力
その存在の力から召還されるような時空から
私を必死に防備するために働いていた
様々な意識そして無意識が
心に変容するその過程に
このうららかな大気と光のなかに
忽然とあらわれでる身体
それは記憶ではない生そのものであり
一つの可能性であり続ける
その私の身体こそが身体
剥き出しの身体
無防備であることが唯一の防備であるような
生の身体
剥き出しにされた生の身体は
身体そのものによって
存在のしみだしへ参与する形となるのだが
言葉を超えた意思の力によって
存在のしみだしに
かろうじて拮抗しうる
その可能性とは
私の意識とは異なるあり方のなかにある
私ではない意思のなかに
存在からの召還を拒み続ける私のなかの
私ではない意思のなかに生まれる
それは不可能性のなかにある身体の意思
不可能であることを可能にするそのような身体の意思と
そこに必然的に生ずる挫折のなかにこそ
不可能性すなわち死が
存在という力への一つの抵抗の形が
聴こえだす
光と大気のなかを通過する音の受容
そして私から出る音
生の身体の持続する可能性のなかに
存在という暴力へ抵抗する音の意思が芽生える
それはもはや私の音ではない
音によって存在をさらに存在たらしめず
存在をうち消すことによって
一つの静寂の場を開くこと
音という存在の力を存在と拮抗させ
その裂け目に
死の不可能性を聴くこと
私ではない身体の意思に降りては
それを持続すること
音の暴力に抗して音を聴き音を出すために
そしてまたこの仰々しい言葉たちもすぐさま、音の一つのあり方に注意しようとする意思の記憶にすぎなくなる。書いた言葉を体しつつ、そこから真に逃れて音を出すことのなかに、逆説的にもその方法の体現があるだろう。そうして長い時間をかけて、それがまさしく自然にできるようになるまで、ひとつずつやっていくほかないだろう。
京都 kyoto(11), 2008
断定すること
言い切ることは
ある空間を開く
停止すること
断ち切ることは
ある時間を開く
困難だが
自己の背丈を見据えて
少なくとも内的にそうしていかなければ
技術はあがらない
そして先のまた先があることにさえ気づくことはない
京都 kyoto(10), 2008
予定していた文楽鑑賞に
弱った身体で無理していってみたが
途中で帰ってきてしまった
夕方の風が涼しい
ちょっとした風が肌にそよぐとき
その風の心地よさが
身にしみてありがたい
目立たないが
もうすでに
風のなかにすべてが
あらゆる形あらゆる流れがある
世界のほんの片隅に生じた
風のなかに停泊する
私は満たされる
私という一隅にそよいだ微風
涼しい秋の香と聴こえる音
一隅と片隅に感じられる世界のすべて
京都 kyoto(9), 2008
ぎりぎりの疲労と放心をともなった眠りの今朝は
身体の虚脱とともにある目覚めのなかにあった
虚脱のなかに再び身体が露出してくる
訪れてくるであろう脳裏の未来を待ち構えようと
身体を備えるのではなく
未来に近づいていく身体がある
今日やらねばならないこと
私がいなければみなが迷惑するであろうことたちへの感謝とともに
その慌ただしい義務感に束縛された朝の予測は
カチカチの石頭から脱出して
柔らかい脊髄のなかの髄液の循環へと侵入する
義務感そしてしなければならないことは
為すべきことへと変化し
為すべきことは為すこととなり
為すことは為されるという不確かな確信へと導かれ
夢の確信が生きる力となって
私の心と身体は動き出す
私の決定された未来はそうして
夢の未来へと変化する
たとえ二つの未来の面構えが同じでも
私のあり様は全く逆の方向を向いているだろう
そうした身体に気づいたとき
未来という一つの固形物が溶解するエーテル
漂流した液体に身を浸透させることを通じて
身体と心は世界に同化していくかのように変化する
だがそれは現実のなかに耽溺する同化ではない
投げ出された心と身体の動きは遅くなり
素早い現実に
ある摩擦と抵抗を示し施す形で
私は世界の一部となる
そうなると祈りながら朝は過ぎてゆく
鴨長明「ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず 淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまりたる例なし」
自己と世界への洞察は
第三者的視点のみではなく
自らが動きのなかにある聴点にあらねばならない
時間の体している心の限定と新しい変化
空間の体している身体の限定と新しい変化
その存在と非存在の織りなす網目のなかに
分け入る心と身体を示しているかのように
その言葉は
聴こえだす
自己という一つの時間のまわりに感じられる
時間や空間がどのようにうごめいているか
そのうごめき溶解していく未来をつかみ取り
つかみ取っては逃げ出す
その時空間のなかに身を浸すこと
非自己なるものの自己への介在を感じとること
それとともに動き変化すること
何かが変化するを観測するのみならず
変化のなかに自らがあることを知る
知恵と恵み
京都 kyoto(7), 2008
雨はようやく一区切りついたようで
暑い夏の終わりがもどってきたようにたくさんの方々がやってくる
毎日毎日新しく最低十人ほどの方と出会って新しく話をする
それほど親しくはならないけれど
でも通じ合うものもやはりどこかにあって
笑顔や怒った顔や心配そうな顔や安堵した顔や
いろいろの顔と無数の声が脳裏に混ぜこぜになっている
カルテをみてはこの人はこんな方だったかなと
想像して思い起こしてはまた出会う
白紙であればどういう人かなと想像する(ゆっくりとはできないのだけれど)
そしてその繰り返しが今日も続く
言葉の意味よりも
言葉を伝えるその響きのなかに
その人間のあり方が如実に現れるから
同じことを言ってもその内実は全く違う
時に沈黙することが
最もよくものを伝えることさえあるだろうが
沈黙を開くための言葉というものもあるだろう
さしたる意味のない言葉のなかに
最も重要な音やテンポの現れ
その人その人の感受性が
最も端的な形で現れている
説明しはじめる前に
こちらの言わんとしていることが
初めて会った相手にすぐに直観されてわかるのは
相手の仕草や表情を感じ取って
最初の言葉をそのようにうまく使えたときである
おはようございます
という挨拶も
そうした響きのなかにあってこそ
本当のありがたみがある
挨拶が美しいのはそのためだ
いくら照れ屋さんでも
本当に美しく挨拶されると
少し心が開いて言葉がでるということもあるかもしれない
左眼はまだ良くならず眼帯はもう少しとれないけれど(たいした病気ではないようでした)
当たり前の日常的な一言一言を
単純な「本音」の言葉を
大事に生きよう
どんなに忙しくて疲労していて体調が悪くても
そうした言葉をできうる限り大事に生きることのなかに
人と人の調和が生まれるのを感じて疲労を癒そう
その背景には深い深い命があるのだから
京都 kyoto(6), 2008
雨が降り続いている
今日もまた雨が降っている
雨が地面と草と音を出しているのか
私が雨の音を聞いているのか
音といったとき
それはすでに言葉でもある
私というひとつの有機体にとって
雨はひとつの他者である
雨の音を聞くとき
聞いたその音は
すでに消滅している
おととい聞いた雨の音と
今聞いている雨の音
音を意識したとき
それは私のなかの言葉と否応なしに連関する
言葉はひとつの音なのだが
それを雨そのものととらえたとき
はじめて人の言葉と人の言葉が響きあう
言葉はひとつのエゴである
音という言葉もひとつのエゴかもしれない
だが雨はエゴではない
雨と私の聴覚を通じての摩擦
音の選択ではなくその摩擦自体のなかに言葉以前の音がある
そうした音の響きあいが底辺にひたひたと流れている
その土壌から「あること」の哀しみというべきものが
ひたひたと心にしのびよる
今私の左目はおそらくウイルスに侵されている
結膜は赤くなり涙が否応無しにこぼれ落ちる
明日医者にかかれば休んでそして眼帯をすべきと言われるだろう
今日はサングラスをかけ目をこすらないようにし
目の痛みと音のなかに生きた
岡本太郎美術館へ久しぶりに行きそうした眼で岡本太郎の韓国の写真を見た
太郎は写真家ではなかった
ユージン・スミスは写真家であった
二人は正反対の位置にあるが特に数枚の写真は正反対でありながら共通する何かがあった
北と南といったときそこにはどこか似た響きがあるように
そして催されていた美術家の李禹煥さんの話を聞いた
最後に私は思い切って李さんに質問した
韓国における聴覚文化について
李さんは具体的な話をしてくださった
その場は一つになった
李さんはハンセン病の人が玄関の外にやってきて
自らの苦しみを謡ったという話をした
健康なものたちが私の魂を吸い取り私はこうなった
私は生き返ったらあなた方よりより生きるのだ
そのうたは健康なひとびとへの痛烈な響きだった
その嘆きによってその場は深い深い哀しみに包まれたという
雨の音を聞くことのなかになぜ哀しい響きがあるのか
それは人間が聴くことのできない
大地と海の息吹としての音の根が横たわっているからだ
その音の根
息吹はなぜ哀しいか
そこに死があるからだ
その根は聴くことはできないが
いわば動物がそれをいち早く感じ取るように
人間の心にも響きこだまする
視えないから聴こえないからといっても
視えるから聴こえるからといっても
視ることも聴くこともそうした響きとこだまのなかにある
きこえる音ははかない
そこにみえる風景もはかない
そしてその音と風景は
太古から揺るぎないものであり続けている
その忘れることが決してできないことが
人間のエゴによって忘れ去られようとしている
忘れたつもりになっているとしか言いようのない有様
だがそれはそこにあるのだ
だから忘れることはできない
そこへ戻り新しい聴覚と視覚を練り直すことだ
それは構築することとは違う方法
先へ進もうとしても壁はそれだけ
大きくなるばかりなのかもしれない
京都 kyoto(4), 2008
外の雷と雨の音を静かに聴いて
ひとつぶひとつぶの雨の落ちる音の差異と強弱
雷の怒濤の低音に耳をひらきつつ
雷音と雷光との隔たりを感じつつ
愛知でも猛威を振るっている雨の当たっている人たちのことや
犬山のあの川は今の雨はどうであろうかと心はやはり落ち着かない
言葉を書きとめること
内省
言葉に導かれて
雷の爆音にたかぶる心を静かにして
時間をかけて何かを発見していく過程
だが内省とは別のあり方
何か別の言葉の在り方
ひいては世界の別の在り方があるかもしれない
そして書く言葉は文字
実際に手を動かし文字で書いていくその手は
ローマ字入力でワープロを打つ手より
言葉をはるかによく言葉として導くだろう
書が言葉の根源的な姿を心と身体で浮き彫りにすることだとしたら
そこには文字以前の言葉の音と
その音を言葉として発してきた人間の吐息があるはずである
そうした太古から文字が形成され徐々に変化してきたに違いない
とすればその背景に感じられるのは
自ずとつなぎつないで変化してきた人々の連綿とした営為
こうしてみると
文字にして言葉を書くということの根源的な姿は
これまでの人々の営為を背負ってその営為に敬意を払って
今を生きる私を通じてその吐息と音を詩にするということにあるだろう
そして詩はこの意味で音楽の根といってもよい
新しい言葉とは
この連綿とした営為をふまえて今ここに発せられる言葉にある
だがこの降り続けて止まない雨
この雷光の閃光と雷音の低音の時空の質的な隔たりを思うとき
今は一体どこにあるのか
そのような心の変化を経て
内省や思想や議論のための言葉とは違う言葉
感情のための言葉とは違う言葉のあり方が密かにしかし連綿と存在していて
それ自身が一つの世界であることに気付く
そうしてみてまた
雨のひとつぶひとつぶが地面に連打するその多様な音に耳を傾けると
雨は変化し続けている
そして雷光と雷音が一つの現象の違う形のずれであることにますます感じ入る
それを聴いている私がいる
そして思う
いかにそれが偉大であれ鋭くて意味のあるものであっても
一人の人間の思想をはるかに超えたもの
その根底にある大きな器であり
それを支える低音でありうねりであるような言葉があるのだということを
当然かもしれないが
私があるということのなかに言葉がある
それは人間が人間であることの必然への深い自覚なのだ
そしてその大いなるうねりの言葉を連ねて一つの詩にすること
その過程の基本はどこにあるのか
この鳴り止まないすさまじい雷音と雷光
そして変化し続ける雨のなかに
その在処を聴き取らなければならない
京都 kyoto(3), 2008
写真を撮ること
考えを中断するための通路
止まってはまた思いなおす
また一日歩いてとまってはまた思いなおす
写真は終わりなく反射する
一枚の襞
息の通路
音の通路
私があり夢があり
誰のものでもない現実がある
私と夢と現実の
音と息の通路
視覚という重責を要請された写真眼から
視覚化された耳と息そして言葉があぶりだされ
聴覚と言葉の原始体
音が
写真のなかから外へと
もはや写真ではない場所へと呼びもどされる
その場所とは
言葉が言葉そのものであることによってある世界
言葉となった世界
言葉は音
息ある声
息づいた世界を
聴覚と言葉の原始体を
音の聴こえてくる静寂と世界のありのままの雑音を
くさった議論や押し付けがましい正義の言葉でたたきつぶすな
たたきつぶしたたきつぶされてしまう前に
世界というひとつの言葉を聴くことのなかに
世界に生きている自己をまず感受するのだ
エゴと非エゴの拮抗のなかに呼び起こされる
世界というひとつの言葉を聴くのだ
止め止められることによって動き出す
世界というひとつの言葉の
夢の通路
一枚の襞こそが写真だ
京都 kyoto(2), 2008
ジャン・サスポータスさんと斎藤徹さんのご家族の皆様と夕食をともに過ごした
ジャンさんの眼は遠いところをみていて
なおかつ現実を直視している眼だ
ダンサーと演奏家と医者の本質は同じだという話をした
まさにその通りなのだ
私の求める場所はそこにある
ジャンさんは自己と他者双方に対して心底真摯であり
他者の他者性に対して心底謙虚であり
どのような人にも可能性を見出す
そして心底というのはどうして可能か
それは自己へのゆるぎなき信頼があることによっているだろう
自己への信頼とは
自己の鍛錬とその鍛錬を他者にむけて一生かけてやり続けること
そのこと以外から生まれるものではないのだ
そのことの果てに
決して得られることのない
自由なき自由があるのかもしれない
京都 kyoto, japan 2008
京都でユージン・スミスの写真展をみた
写真はプロパガンダと密接な関係にある
写真が真実を語るとは思わないし
事物の痕跡が写っていても
それが実際の出来事の推移の証明になるかどうかはわからない
そして自然なようにみせかけて
実は瞬間を作った写真もいくらでもできてしまう
彼は写真を通じて何かの信念を語ることにおいて
いかにも真実らしいものそして美的なイメージを想起させる叙情的手法を
よく知っている写真家であった
そしてその写真の叙情のなかに
彼が信じようとした真実の
一種の苛烈と激昂をみる思いがした