málaga, spain 2008
夜11時
飛行機着陸
乗客全員で
拍手
喝采
口笛の嵐
マラガの海
海のマラガ
そして、光
圧倒的な光
厚いのだが
どこか暑くはない光
大気と風は乾いている
そして光はどこかはかなく薄く暗い
カメラの絞り値も日本の日頃の感覚よりも半絞りは暗く出ているようだ
ギリシャそしてポルトガルでも同じ経験をして驚いたのだった
海面をちらつく光のハイライトは
光の反射そのもの
街の白壁をみれば
白色はゆっくりと変化する影ですらある
ここには光がある
光そのものが感覚にまず訴える
光は大気を身体としているのだった
白色の影
白色の含有する色が
白色のなかに変化して見えてくる
能面のように
全ての色を作り出すといわれる色の3原色RGB
そのような原色ではなく
ただただ人の手によってギトっと塗られている壁の原色
イモの葉の緑
生きた原色はひときわ眩しくみえる
そうしてずうっとそおっと眺めていると
原色が原色でなくなり
原色のモノクロがみえてくる
能面のように
光と地の身体である大気
その場所の大気はその場所の歴史を背負い流れる
大気を凝集する風土と時の流れのなかに
大気は循環しつつ停泊する
大気と身体の出会い
それは知と想像が感覚に移行する過程と
当地の感覚がさらに大気と相まみれて身体にしみ出し
光の身体すなわち大気を通り抜ける光と
私の身体が接することのなかに現出する
一つの摩擦である
その摩擦が既知の知と小さな想像力を揺るがし
時間をかけて知は心のなかに再び定着される
そうした心の反応はさらに身体へ降りてゆき
身体は内的に動く
その動きこそが見知らぬ土地との出会いだ
だが見知らぬというのは不正確だ
そこに私の意思がなければ
そうした出会いはない
マラガの大気を感ずること
それはマラガを知ることに等しい
Aéroport Roissy-Charles-de-Gaulle, paris, france 2008
人生が旅だとしたら
輪廻する人生に始まりも終わりもないかもしれないが
旅の記憶ならあるかもしれない
記憶ということについて新しく思いは膨らむがその輪郭はぼやけている
スペイン・アンダルシアへの旅のメモと記憶
今日という日を通じて
東京の片隅から遠く離れていく過程
今日という日にもその旅は新しさと鮮やかさをもって現れてくる
旅は日常の心を癒し日常の疲労をとることではない
旅は非日常を日常から分離し区切られた時空間に押し込めることではない
旅は日常から離れていく心と身体の変化のなかに一つの試練と出会いを求めること
旅に入り込み身体を身体として感じる
旅へ期待することよりも旅から与えられるものの方が比較にならないほど大きいのだが
旅にあえて求めるものがあるとしたらそれは東京と異なった疲労の味わいだ
旅はそうした変化のための微細な心と身体の移動から始まるかのようだった
ジャンボジェット機
微細な移動の積み重ねが
速度そのものによって切り裂かれる時空の訪れ
時空の分断される裂け目と速度の変容
アンダルシアに行く
なぜと考えることより
時空の裂け目と速度の変容のなかに身を徐々にさらすことのなかに
旅の基礎的な感覚的体力を徐々に培う
その土地に身をさらすまでの過程のなかに
入り込むその入り方のなかにその土地を感受する準備を身にまといつつ
アンダルシアを感じることのためにある身体の過程
旅のもつ独特なその深淵のなかに
徐々に降りていかなければならない
人生を生きる意思の力で
感覚の変容そのものを気散じさせることなくその時空へと入り込む
微かな変容の連なりと一気に切り裂かれる時空
行路の飛行機のなかですべきことは山ほどある
主に11月下旬予定の個展のこと
ポルトガルの写真選びはやっとのことで大体終えてきた
バッハの暗譜と運指の想像ー解決しうるか
演奏の形
タイトル決め
昨年訪れた隣国のポルトガルを再び夢みて
「荘子」内篇を読み返す
私の現実に十全に呼応してあまりない荘子は
逆説による壮大な詩と知恵
想像できないほどの密度
この一年根本は何も変わらない
時の充実が再び自ずからやってくるまでしばらく変わらないだろう
それはいつやってくるのかやってこないのか
「微明」はそうして身体そのものから出てきた音であった
そのことに何ら嘘はない
それはテーマではない
生きていること
そのもの
京都 kyoto(13), 2008
<ブログのお知らせ>
週末から1週間程度夏期休暇を頂きました。
日本をしばらく留守にしますため、ブログを一時期休止致します。
再開は9月末日から10月初旬になりそうです。
皆様アクセスをありがとうございます。
残暑が続きそうですが、皆様どうかご自愛ください。
京都 kyoto(12), 2008
今日はいい天気だった
やわらかさの芽生えた光
涼しい朝の風
残響はどこか静かだ
乾いた大気
落ち着きを取り戻しつつある
今日という日
空間に漂う
数々のうごめく時の場のなかに
光と大気が日々異なって感じられる
その媒体を音がすり抜ける
私の出す音
そしてやってくる音は
私という一つの場の状態のみならず
光と大気にも
左右されているのは確かだ
この乾いた大気と
暑く柔らかい光につつまれるように
音がやってくるそのあり様を
耳そして身体は確かに受け入れている
そのとき心は落ち着く
だがその穏やかな大気と音の受容のなかにすら
死があらわれでることがある
私を取り巻くすべてに私が抱かれている
その時空間においては
考える意識だけが居心地の悪さとして残され
現実のすべての責務が果たされたとき
意識は次第に心に吸い込まれて
身体だけが残る
その身体のなかにあらわれる死
存在というしみ出す力そして一つの暴力
その存在の力から召還されるような時空から
私を必死に防備するために働いていた
様々な意識そして無意識が
心に変容するその過程に
このうららかな大気と光のなかに
忽然とあらわれでる身体
それは記憶ではない生そのものであり
一つの可能性であり続ける
その私の身体こそが身体
剥き出しの身体
無防備であることが唯一の防備であるような
生の身体
剥き出しにされた生の身体は
身体そのものによって
存在のしみだしへ参与する形となるのだが
言葉を超えた意思の力によって
存在のしみだしに
かろうじて拮抗しうる
その可能性とは
私の意識とは異なるあり方のなかにある
私ではない意思のなかに
存在からの召還を拒み続ける私のなかの
私ではない意思のなかに生まれる
それは不可能性のなかにある身体の意思
不可能であることを可能にするそのような身体の意思と
そこに必然的に生ずる挫折のなかにこそ
不可能性すなわち死が
存在という力への一つの抵抗の形が
聴こえだす
光と大気のなかを通過する音の受容
そして私から出る音
生の身体の持続する可能性のなかに
存在という暴力へ抵抗する音の意思が芽生える
それはもはや私の音ではない
音によって存在をさらに存在たらしめず
存在をうち消すことによって
一つの静寂の場を開くこと
音という存在の力を存在と拮抗させ
その裂け目に
死の不可能性を聴くこと
私ではない身体の意思に降りては
それを持続すること
音の暴力に抗して音を聴き音を出すために
そしてまたこの仰々しい言葉たちもすぐさま、音の一つのあり方に注意しようとする意思の記憶にすぎなくなる。書いた言葉を体しつつ、そこから真に逃れて音を出すことのなかに、逆説的にもその方法の体現があるだろう。そうして長い時間をかけて、それがまさしく自然にできるようになるまで、ひとつずつやっていくほかないだろう。
京都 kyoto(11), 2008
断定すること
言い切ることは
ある空間を開く
停止すること
断ち切ることは
ある時間を開く
困難だが
自己の背丈を見据えて
少なくとも内的にそうしていかなければ
技術はあがらない
そして先のまた先があることにさえ気づくことはない
京都 kyoto(10), 2008
予定していた文楽鑑賞に
弱った身体で無理していってみたが
途中で帰ってきてしまった
夕方の風が涼しい
ちょっとした風が肌にそよぐとき
その風の心地よさが
身にしみてありがたい
目立たないが
もうすでに
風のなかにすべてが
あらゆる形あらゆる流れがある
世界のほんの片隅に生じた
風のなかに停泊する
私は満たされる
私という一隅にそよいだ微風
涼しい秋の香と聴こえる音
一隅と片隅に感じられる世界のすべて
京都 kyoto(9), 2008
ぎりぎりの疲労と放心をともなった眠りの今朝は
身体の虚脱とともにある目覚めのなかにあった
虚脱のなかに再び身体が露出してくる
訪れてくるであろう脳裏の未来を待ち構えようと
身体を備えるのではなく
未来に近づいていく身体がある
今日やらねばならないこと
私がいなければみなが迷惑するであろうことたちへの感謝とともに
その慌ただしい義務感に束縛された朝の予測は
カチカチの石頭から脱出して
柔らかい脊髄のなかの髄液の循環へと侵入する
義務感そしてしなければならないことは
為すべきことへと変化し
為すべきことは為すこととなり
為すことは為されるという不確かな確信へと導かれ
夢の確信が生きる力となって
私の心と身体は動き出す
私の決定された未来はそうして
夢の未来へと変化する
たとえ二つの未来の面構えが同じでも
私のあり様は全く逆の方向を向いているだろう
そうした身体に気づいたとき
未来という一つの固形物が溶解するエーテル
漂流した液体に身を浸透させることを通じて
身体と心は世界に同化していくかのように変化する
だがそれは現実のなかに耽溺する同化ではない
投げ出された心と身体の動きは遅くなり
素早い現実に
ある摩擦と抵抗を示し施す形で
私は世界の一部となる
そうなると祈りながら朝は過ぎてゆく
鴨長明「ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず 淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまりたる例なし」
自己と世界への洞察は
第三者的視点のみではなく
自らが動きのなかにある聴点にあらねばならない
時間の体している心の限定と新しい変化
空間の体している身体の限定と新しい変化
その存在と非存在の織りなす網目のなかに
分け入る心と身体を示しているかのように
その言葉は
聴こえだす
自己という一つの時間のまわりに感じられる
時間や空間がどのようにうごめいているか
そのうごめき溶解していく未来をつかみ取り
つかみ取っては逃げ出す
その時空間のなかに身を浸すこと
非自己なるものの自己への介在を感じとること
それとともに動き変化すること
何かが変化するを観測するのみならず
変化のなかに自らがあることを知る
知恵と恵み
京都 kyoto(7), 2008
雨はようやく一区切りついたようで
暑い夏の終わりがもどってきたようにたくさんの方々がやってくる
毎日毎日新しく最低十人ほどの方と出会って新しく話をする
それほど親しくはならないけれど
でも通じ合うものもやはりどこかにあって
笑顔や怒った顔や心配そうな顔や安堵した顔や
いろいろの顔と無数の声が脳裏に混ぜこぜになっている
カルテをみてはこの人はこんな方だったかなと
想像して思い起こしてはまた出会う
白紙であればどういう人かなと想像する(ゆっくりとはできないのだけれど)
そしてその繰り返しが今日も続く
言葉の意味よりも
言葉を伝えるその響きのなかに
その人間のあり方が如実に現れるから
同じことを言ってもその内実は全く違う
時に沈黙することが
最もよくものを伝えることさえあるだろうが
沈黙を開くための言葉というものもあるだろう
さしたる意味のない言葉のなかに
最も重要な音やテンポの現れ
その人その人の感受性が
最も端的な形で現れている
説明しはじめる前に
こちらの言わんとしていることが
初めて会った相手にすぐに直観されてわかるのは
相手の仕草や表情を感じ取って
最初の言葉をそのようにうまく使えたときである
おはようございます
という挨拶も
そうした響きのなかにあってこそ
本当のありがたみがある
挨拶が美しいのはそのためだ
いくら照れ屋さんでも
本当に美しく挨拶されると
少し心が開いて言葉がでるということもあるかもしれない
左眼はまだ良くならず眼帯はもう少しとれないけれど(たいした病気ではないようでした)
当たり前の日常的な一言一言を
単純な「本音」の言葉を
大事に生きよう
どんなに忙しくて疲労していて体調が悪くても
そうした言葉をできうる限り大事に生きることのなかに
人と人の調和が生まれるのを感じて疲労を癒そう
その背景には深い深い命があるのだから