cordova(5), spain 2008
必要だと信じて
一人の人を訪問しつづけることには
勇気と意思力が要る
休息そして努力も要る
行けない日があったら次の日に訪問する
そうして心を欠かさずに訪れて話をする
昨日と同じことを言ってはいけないと
なぜどこかで思っていたのか
そうでなくともよかったと
はっとする
日々の日課は一つ峠を越えたのかと気付いて
また一つ安堵する
同じ場所と同じ時間を
できうる限り毎日
繰り返し経験する
共有までせずとも
その日その日一日限りのことが
それだけで重い
大事なのはその日その日の会話と声と
身振り手振りと顔の表情が
そこにあったこと
会話する言葉を深めるのではなく
心の深まりが言葉を生む
お互いの
言葉が自由になって
どこかどんどん素朴になって
どこか音に近づいていって
重い言葉が軽やかになって
沈黙が言葉を支えていると
ふとわかるようになる
沈黙が静寂となるとき
静寂こそが明日の訪問のささやかな布石となる
沈黙が言葉の源泉なら
静寂は明日への願いだろうか
日々の過程を
内省と会話の均衡を保って
形づくられてきた道をさらに踏みしめる
道の形を破ろうとせず守ろうともしない
流動する言葉で
語りかけること
そして再び明日
訪れること
cordova(4), spain 2008
現実の錯綜した鏡の反射に
人の心は照らし出される
それでも人は真実を生きる
ペソアは言っている
人は二つの人生を生きると
存在の真実に照らせば
花は花ではない
存在が花している
そうした場所から
幻でも影でもない
関係性の渦巻くこの現実を
見つめ聴き取ろうとして
失敗しては顧みる
そしてしっかりと
息をしてみる
沈黙にむかって
cordova(3), spain 2008
またふたたび
個を感じ取らなければならない
言い切らずとも
ある責任を伴わないことは
一つの誤解となりうる
言い切っても
ある余韻を伴わないことは
一つの暴力となりうる
その境目に立ち
矛盾を出発点とし
誠実であって
きわどい均衡をたもつことのなかに
一つの個の形があらわれる
主語であって述語であるような個
一個の私と
一個の他者
ふたたび感覚を
研ぎ澄ますように
言うことのなかにもなく
言わないことのなかにもない
流動している
確固たる
心と身体の形を
思いと行為だけでなく
個をまたふたたび
みつめて聴き取ることから
始めること
cordova(2), spain 2008
何か書こうとするが
なかなか言葉が出てこない状況が続く
きっとしばらくそうだろう
去年の個展の能書きを今あらためてみるにつけて
私はもはや違う生き物のようでもある
言葉をあまり書かないということは
一つの良い状況なのかもしれないが
忘年会と称する酒の宴もたくさんあってつまるところはきっと
あわただしくて忙しい気持ちになって
疲労困憊していることにも十分気付かないまま
言葉を書けないでいるだけだ
そうして日々が過ぎていくうちにも
個展は私を少し先へ連れて行ってくれたようで
そこへいくための言葉がさらに追いつかないように
また日々は過ぎていく
事細かに書こうとするなら
分析的事項はたくさんあるのだが
逐一書いていてはかえって方向が定まらない
重心がどのように動くかが大事とおもう
重心の動く方向性を見いだすのは言葉ではなく
経験と鍛錬と猛省による
音についてはさしあたり
今の限界点も端的にわかったから
練習とともに重心を下げる方向がむしろ大事だろう
写真はもう少し自らの可能性と技術を勉強して
言葉によって自己批判を強めるべきだろう
その推移をそれとして大事にしつつ
根幹をどうするのか
その大きな重心の動きを感ずるべく
今は日常をおくるべきだ
それはある意味において後退することで
言葉から身を引くことであるかもしれない
前進しようとすると後退する
後退するといつのまにか前進している
個展を反省し反芻することも
もはや前向きにしかあり得ない
私にとってたとえ否定的なものことも
私を限定することへと通じ
否定が肯定へと返上され
述語が再び主語となって
前向きに捉えることがいくらでもできる
何かを良い方向へと変えていく原動力となりうるのは
否定の裏返しの表現よりも
否定を否定する力
すなわち肯定する力動そのものだろう
少なくとも身体のどこかでそう信じて
そのように生きる人におしえられて
これまで生きてきたのは
自分なりの財産といってもよいだろうか
個展からというもの
師走という時期を過ごしてわかるのは
人と人の関係が変化すると
すべてが動きだし
同じことも大きく変わってくるということ
そういう単純なことが
様々に身にしみるようになる
本質的に前向きになることのなかにいるために
さらに後退して視野を広くもつことが
今の私には必要と思う
体力も次第にピークを超えてくる年齢
それと意識できないような予期しない身体の免疫の低下を
急に招いてくることもある
身体が徴候を知らせてくれるとき
頭は無理せずにおこうと言う
考えなければと思って考えることは辛い
そういうことはもういい
堂々と身体で生きることに専念していきたい
しかし本当に身体が辛いと身体が思っているとき
意外にも不意に真に近い言葉が書けるときがある
先日の飲み会のまえにブックオフで何とはなしに買った中国詩選集
そのなかでもことのほか心を動かされたのは
はるか昔の中国の詩人
陶淵明との出会いだった
高校生のときに漢文で読んだ微かな記憶がある
名高い「飲酒」など読むと
陶淵明が詩に書いている言葉も
そうして書かれた真の言葉のように思えてくる
その詩に今の心境を重ねることはできるが
陶淵明自身の心境には無論なれない
だが開かれた創造性はそういうものとしてあるのではない
漠たる未来への希望がそこはかとなく芽生えて
心が和らぐ本当の詩
心が和らぐことは痛みを緩和し
痛みが緩和されることが心を和らげ
痛みを痛みそのものとすることで
痛みから距離をおくことができるようになる
その空間に自らを後退させて
細部としての痛みに再び入り込むことで
痛みは徐々に痛みではなくなる
痛みそのものが痛みという言葉から遊離してくる
そこに一つの緩和作用と
身体全体に響きわたり緩衝しあう心がある
陶淵明と出会った時期をほぼ同じくして
知っていそうで知らなかった何かに再び
まるでみえない力に吸い込まれるように
一つの巨大なコントラバスの弓に出会った
他の手元にある弓の音色はすべてこの弓にある
といっても過言ではない
弓の歴史としても格段に古い
したがって少しづつ
ほとんどの弓を手放すことになるだろう
名としての価値
道具としての価値優劣など
とうに超えて
あらゆる価値をもはや
すでに超えたものとして
そこにあってたたずんでいる
そうした遙かなる場所へと
この身体が導かれていく
まるで陶淵明のような弓
一つの楽器に一つの弓
そうでいて無数の音色と響き
それだけ鍛錬できて
遠くまでいけるように感じる
その理想的で究極的な相性は
ものごとがいかに単純でなおかつ大きいものか
そういう真の明快さへと
私を連れていってくれるように感じる
陶淵明が田舎に住んで詩に書くのは
そうしたとてつもなく大きな何か
並ではない鍛錬を経たのちに
ただ詩をそして音を
かみしめて楽しむこと
それは例えば
痛みと病の緩和へと導かれるような音
だろうか
こう書いているうちに
疲労した身体がそろそろやめておけと言い出す
明日は迷ってしまうくらいいろんなことがあったのだけれど
今年最後の仕事が終わったら他との関係を断って
年の仕事治め一年よく生きたと信じて
本当の休息をいただこう
陶淵明には「飲酒」ならぬ「止酒」という詩もあると知って
クリスマスの当直の夜もある種の落ち着きをはらって
だるさもまた楽しく過ごすことができる
その詩によって心は
痛みをはるかにこえて満たされる
cordova, spain 2008
「今・ここ」に音がきた
まさにそうでないと即興はできない
と言い切ったら違うだろうか
あらかじめ即興を「しよう」として場に立つと
もはや音が出せないというような感覚におそわれる
音の出る直前が最も大事だと知る
直前といってもいろいろな時間の長さがある
これまで生きた時間すべてといってもいいし
十分の一秒前といってもいい
外側から区切られた時間ではなく
遠くから近くに
ここにやってくるような時間
その時間のすべてが「今」と
名付けうるかもしれない
今は今しかなく
今は過ぎ去るということ
そういう現実も
どうしようもなく知って生きてきた
今はいつなのかということ
今を本当に感じることができるならば
今は今といってもよいかもしれない
その今を大切にするために
そのための必然があるか
その必然こそが偶然を呼ぶ
偶然は必然を形作る
あるのは
そのような「今」
私が私であって私でないのと同じく
今は今であって今ではない
「今」といったときそれは
そうであるがゆえに広大な領域を示している
そして今は「今」となることで解き放たれ
時間をさまよう
さらに「ここ」は「今」を含んでいるのか
それとも「今」が「ここ」を創出するのか
それは私とどうかかわるのか
そしてそのような音が出るその直前という
一つの曲がりくねった時間を内包する箱
はっきり指し示すことのできない
その箱を「ここ」といってもよいだろうか
(それは楽器といってもよいのではないか)
「ここ」へとやってくる
曲がりくねった時間の襞を
身体の奥底に感じること
だが身体が「ここ」にあるということが
まだ私にとって疑うことのできないものとしてある
「ここ」がまだ動かないで居座っているという感じが
楽器を弾くこの手まで含めて
「ここ」が「ここ」であって
なおかつ「ここ」から解き放たれるまでになるには
これから先さらなる鍛錬が必要となるだろう
「ここ」が「ここ」であって「ここ」ではない
ということは私にはまだ言えない
それはつまり私に
音を出すための基礎的な経験が足りないということ
その箱の空間を持続しつつ
音そして音そして音
音から音へとわたり
空間はいつのまにか変化しているような
音の行方
そうした即興は自ずから
即興であることから
一つの形へと移行していく場合があるということ
偶然が一つの必然へとなり必然が形となりうること
その形には密度の高い砂粒が無限につまっているから
その形から一つの砂を探り当てようとすることもまた
無限の探求となる
そのような相互的な偶然と必然=即興と形
あるいは一つのあらかじめ用意された望ましい形のまえに
その形に向かって即興をすると
そのときどきの形の色が見えやすくなるということ
そうした即興のあり方の糸口も垣間見える
そうした点をふまえて
音という媒介を通じて
奏者と聴くものが
ともに多様な息をする場を大事に
存在に聴いて記憶の結晶としての音のあらわれを聴くこと
そういう場の形成はめったに可能にはならないけれど
そこへと向かってみること
見せ物や聴かせ物ではなく
音が純粋な媒介となり
何かしらの対話を開くこと
音を誰かがつかんで占拠してしまわないように
場を形成し
音を放つこと
granada - cordova, spain 2008
個展が終了し一週間が経とうとしている
まずは写真という多義的手法について
思いつくままメモする
現実/夢/あるがまま/存在/現象/言葉/意味/視覚/知/瞬間性/記録性/社会性/外界/世界/いまここ/出会い/私性/詩性/表現性/生/死/身体/心/光/影/聴覚/音/音楽
カメラ/レンズ/引き伸ばしレンズ/プリント/印画紙/一眼レフ/立ち位置/レンジファインダー/即写性/フレーミング/ずれ
あげればきりがないがどれもが交差している
どこに重点をおくかということは残るがすべて関わっている
自ずから浮かび上がろうとしている一つの糸のなかに宿る記憶はどこからやってきたのか
新たなる記憶をまとって私は、写真は、音はどこへむかうのだろうか
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個展「微明 Portugal」が無事終了致しました。120人を超える方々にご来場いただきました。振り返ってよりはっきりとみえてくるであろう反省点も多くありますが、 私自身にとって大変励みになる個展でした。ご来場してくださった皆様、本当にありがとうございました。日々同じ空間に長時間たたずんでおりましたが、それぞれの日々、様々な変化に富み、多数のお言葉を頂き、これからの日々に生かせるように鍛錬してまいりたいと思います。ガレリアQの皆様にも御礼を。いずれ「Past Exhibtions」の方に個展内容をまとめることができればと思っております。