別府 beppu(6)2009

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個展が終わり今日は仕事納めで夜に東京に再び里帰りする。子供が生まれ今年から生活を始めた犬山での今年の最後の日にやはり何かここに書いておかないといけないと思う。やはりこの一年は終わったばかりの個展に集約されているのだろう。

まずは音楽に関して最も練習して自分をかけて挑んだバッハが失敗することすらできない大失態となり、足を運んでくださった想像をはるかに超える大勢の方々にお詫びのしようもない気持ちでいる。最もやりたかったバッハの一曲すら弾くことができなかった。挫折感は大きい。ここ二日間で容易に思い当たる原因はわかっているだけでも大きなものが三つある。

・基本に立ち返って一つの方法のなかで洗練させるなかで音の質感が固定され、犬山という環境である質感をもつ音に無意識的な価値を見いだしていたことによって会場の場での音の大きな変化に徹する事ができず、音に対して戸惑いが前面にでたこと、これは音を鏡とする場において本来的にあってはならないことであり猛反省を要する
・第二には一曲一曲を本当に完璧に仕上げるまでに至らなかったこと、その地点からの必然的な失敗こそが真の価値をもちそれこそが重要であるとの信念に立っていたにもかかわらずその前提をもてるまでの準備すらできなかったこと
・最後は場においての実践を通しての経験が不足していることに尽きる

他にもあるのだろうが主にこうしたことを反省として受けとめて否定を否定として肯定し次に生かしていく以外にない。しかしながら以下のような点は微々たるものではあるがこれからに繋がる積極的側面として捉えられるかと思う。

・個展に至るまでの方法については違うあり方はなかったし大きな意味で今後も変化はないであろうと今においても確信されること、ただ徹し切ることができていないという問題は大きいしそれがいかに困難であるかということを再認識できた点
・対自的にではあるがこの大きな挫折の感覚は「一人で立つ」ということにおいて自己の存在そのものをそこへかけていたということと対である点
・今回作為なく用意する事のできた曲(ある程度の内容の演奏だったのでこれを「凪風」と題してもよいかとは思うが、バッハの失態の後にこの音だという音を探らざるを得なかったことが残念である)、そして前回までこだわり続けた解放弦での「微明」の共通項である「生まれ死ぬ」というということが私自身の問いとして深く確認できた点

写真に関しては言葉にすることがいまできないが、写真をとる際の方法に関しては変化がなかったものの、内容に関しては昨年とは少なくとも異なったあり方に自ら立っていたように思う。演奏では結果は果たせなかったが音楽に関して犬山で考察してきたことが写真において少しの変化を生んでいるようだ。ご来場いただいた方の一人にはものすごく音楽的だという私にとって本当に有り難いご指摘を受けた。しかし写真を言葉にすることはそもそも難しい。なぜだろうか。こちらもそれだけ経験が少ないのだろう。

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このたびは皆様ありがとうございました。多くの方々との良き再会と良き出会いのためにこうした小さな個展があるということをさらに肝に銘じなければならないと思います。




別府 beppu(5) 2009

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明日東京のギャラリーへ仕事の後にむかう
個展はもう会期の後半で不思議な感触だ
展示されている写真はもはや自分の写真でもないだろう
プリントもギャラリーの牟田さんに今回お願いした
静かな場所に自分と関わりが深くて遠くにある写真が佇んでいると思うとうれしい
毎日課題を見つけるように少しずつ練習をしてきた演奏をひかえ
未完成さ不完全さ不可能性を最後まで大事にしたい
決めごとを最小限にして場の新鮮さに待つ
曲を鏡として未知なる記憶へさかのぼり未来を溶解させるように
うっすらと音の行方を意識しつつ楽器に委ね身体にまかせるように
音楽をすることができればと思う




別府 beppu(4)2009

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バッハの楽譜は音楽ではない。一つの曲を弾きこなそうとする過程のなかにバッハではない何かが芽をみせてあらわれてくる。言葉で名指すことはできないが今生きていることの証、過去と未来への発露というような音にあらわれた質感のようなものだろうか。技術的に困難であればあるほど不可能と思われる運指のなかから予期のできない意識の下に眠りどこかにしまわれていたような記憶、熊楠が没頭していた粘菌の動きのような意識のない非合理のなかにうっすらとかいまみえるような未来へ周到に備える合理的ふるまい、身体的記憶の情感、そうでなくてはならない生きていくための心のかたち、そこに生じてきたものとの揺れ動く対話、そのような何かがあらわれてくる。変化し続ける今生じている何かを支えているような一つの質感に忠実になってはある意識においてあらかじめ目標とされた何かが失敗され再びどこかへほうり出されるということをくり返していくうちにいつしかコントラバスという長い弦をもつ弦楽器の重厚さとうまくひくことのできない限定のなかに曲に漂う根底的な哀しみをやっと聴くことできるようになる。この地点が音が音楽となるための出発点であるだろう。楽譜の一粒一粒がそうして一つの生としての音楽となる契機がそこにある。そうであればたった一つの曲をさしあたりまともに弾くようになるのに数年かかって当然ともいえるのであり曲の質感と楽器と身体と記憶そしていまここが一体となり得体の知れない何かに触れることではじめて一つの曲を弾くということが本当に為される。音楽をすることにおいて何かをいわば失敗することによって大きな何かを経験し発見し問いを見つけある種の音の権威づけや音の競合のようなものから遠くはなれていくそうした遠くにある地点へ向かって前に踏み込んで進んでいくこと。それは自己の垢を落とすことでもありそうした過程にあらわれてくることが身体を通じた現在から発せられる未来への一つの小さな創造でありうるならば一つの曲をたやすく終わらせてはならないだろう。一つの曲をはじめ弾き続けていくことは未来への冒険の契機でありその都度その都度音楽へと一歩一歩近づくための過程のはじまりである。そして昨今楽器そして弓から導きだされる音との対話においてわかるのは私自身のいる地点は楽器や音楽の大きさからすればまだ本当に初歩的な地点にすぎないということである。




別府 beppu(3)2009

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ここのところの楽器の練習で漠然と考えている事が多々あるから大事と思われる点をそのまま
考えるだけでなく演奏行為に多くを結実させることができればよいのだが長い長い道のりだろう

音の強弱大小を問わず音が鳴っている事
幅の狭い音程のなかに広さを観る事
音の形の押し出す個々の音の連なりをあるがままに限定していく事
定まりつつある型からあるがままに逸れていく事
集中する事と解放する事
怠惰でない事と性急でない事
どのような音のあり方も一つ一つ吟味してみる事
様々な差異は楽器を奏でる基本に立ちかえることで判然としてくるという事
基本に立ちかえることで自由に近づくという事
聴くこととは自らを信じることと同義である事
一度一度新しい何らかの情熱を吹き込む事
音に何かを託すことと音にあらわれる何かとは別物であるが両者が入り交じっている場合が多いという事
そうした状態を自覚しつつ変化する自己を音の鏡とし音を自己の鏡とする事
音が一つの人間の言葉であるーはじめに言葉があったーそれがごとくはじめに音ありきという事
音と真に対話し始めるとなぜあるがままに涙するのかという事
音の効果を求めず音を発する人間でありつづけるという事
もののあはれとは何かという事

等々問題点はあまりに多いが毎日1時間必ず音に関して集中すること