桐生 kiryu(3)2009
近くの古美術店で伊藤若冲の墨絵をみせて頂いた
若冲は同じ鶏を長い時間かけて
その卓越した眼に照らして
じっとして鶏の自然を観察し切った
しまいには鶏の記憶と心の働きのみによって
鶏の動く一瞬の動作のずれをつかまえ
鶏そのものの自然を自ずから
描写するに至ったのかもしれない
心のなかで鶏が動く
その変化する鶏を
鍛えられたその眼の記憶と筆の言葉で
形にしていたとしたら
止まることをしらないだろう
静的な軸を得ることによって
動的な心のなかに生き
外部からの契機と理解から
静的な内部に照らして
その内部を動かし
再び外部に放出して問い続ける
その反復とズレのなかに
真に生きることができたならば
どんなに楽しいことだろう
桐生 kiryu(2)2009
これからのここでの生き方の模索その途上で
肉体精神の疲労には
自他の区別なき自然から捉えて
肉体精神をそのつど鍛え再構成し
自然の力そのものを発現している物質の動きのなかにあって
自己を自律させ調律することが
自然そのものから要請され
暮らしのなかで日常的なこととなると
狭い思考の道筋
論理のための論理、知識のための知識から距離をとり
人間の進歩という狭眼の虚構から離れて
深い感覚と視野のなかに有限な繋がりを帯び
何らかの新しい風景を見つけるのとは違った
眼と耳の垂直なあり方を求めて
腕のゆりかごのなか下方へと眠っていく子のまなざしに応えるように
何かを奥底に無限に宿していく旅の醍醐味
自らが楽器と化してゆくそのような道筋を通って
旅せずして旅をする
楽器の身体のなかになにか得体の知れない剝ぎ取られた
だが悠然としていて淡い輪郭を帯びた
遥か向こうの水平線から立ち上がってくる
そのような人間のすがたを求め旅を実感していくこと
桐生 kiryu, japan, 2009
ジュセッペ・ペノーネ展(豊田市美術館)へ
少し前から物質ということを憶いヘルマン・ワイルの著作を少しずつ
さらにルクレティウスへと辿る
ペノーネもまたその詩に言及している
ルクレティウスの詩が少しも古びることがないのは、感覚が我々の身のうちに放つ事物の艶めきのおかげである(ペノーネ)
ルクレティウスから再びペノーネへと戻る旅の途
そしてその道とは別の格好で
けれど二つの道がどこかで通ずるのだろうかと
詩人吉田一穂全集を今日もまた少しずつ読む旅の途
考えるとは一語一語躓くことである(一穂)
事物の艶ということ
躓くということ
物質の問いかけを自らの内部に聴くこと
考えに考えて問うこと