出雲崎 izumozak(12)2010

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夏でずいぶんあつい
あつさで痛みがまぎれるほど

虫がたくさんあらわれるようになった
カタツムリやトンボや蝶やゾウムシを一日のうちに発見できるのはうれしい
蚊とかゴキブリとかムカデとかミミズとかもその数の多さと繁殖力はご多分に漏れない

それでも蝶の道を遮るように道路があって思わずブレーキをふむこともある
人間が環境に与える影響の大きさ
そういう実感に少しふれて
自然が見かけ上は回復しつつあるというチェルノブイリの今を調べてみたくなった

いろいろな事実らしきことを知っていきながら
チェルノブイリ事故後の自然の驚異のようなものに感化されて
昨晩たくさん書いてみたが無駄だった

気づいたら生物学的手法と差別の問題とか
政治的な既得権益と差別の問題とか
人間自体のかかえている欺瞞のようなものが否応なくみえてきて
それだけで疲弊して結局途方に暮れたのだ

わかっていないことを考えることはやはり難しいが
それでも人は何か確かなものを求めて探していく
想像しイメージすることがひとつの希望の形だとしても
ゼノンの矢ではないが
自然の運動自体にイメージや分析は追いつかない
そういうことを自分が昨晩感じていたようだった
人間は自然を外側から客観視することはできない

最後にはどうしようもなくなって
巨大な博物学者、南方熊楠をおもいだして
自分がまがりなりにもずいぶん熱中してまじめに書いたものにあきれ果てて
すべて消去してしまった
熊楠ならいま人間がすべきことは何というだろうか
熊楠の飼っていたカメは最近まで生きていたらしいのだが
カメにきくことももうできない

希望は
自らの責任をはたすことから
自ら生むしかない
そして隣人を愛して話をよく聴くことだ
そうしたことによって生まれる力は
なかなかいいものではないのだろうか
日本はそういうこと
自らの生き方を自ら自身で本当に獲得するということを
少なくとも戦後において本当にしたことがあったか

腕の痛みは自らの責任で働いた証だから
昔とはひと味もふた味も違って
この身体が自然に受け入れることができている
私はいま私の責任を果たすべく仕事をしている、と思う
そのことだけは実感があって信じることができる、と思っているのだが
知の巨人、加藤周一が言っているように
自らの信念など信じるにたらないものだ
だけれどもこういうときに大事なのは
同じく氏の言葉を借りていえば
現実主義よりも理想主義
戦車よりも言葉

だが戦車は黒すぎてみえない
思惑が思惑を呼び
どんな確からしい情報にも懐疑的にならざるをえないのなら
そういう理想(批判も含めた)を何らかの形において含んだ言葉こそが
真の力を持ち得るのではないだろうか
政治的権力がなくとも
何の脈絡もない横方向のそうした力のつながりが
総体として社会を徐々につくり変えることも
もしかすると可能なのかもしれないと思いながら
現実を生きて試みることしかない

こうしたことと同じ位相の行為として
自分の部屋を深く覗き込むこと
いまは少し道元から脇へはなれてジャコメッティをみなおし
かなり気になってきたフラ・アンジェリコのまわりを精神的に訪ねてみること
そういうことが社会的現実にみえない形で大きく寄与するのを私はよく知っているのだから
そうしなくてはいけない

ここにおいてはイメージを自ら育てそれを再考していくという一つの責任の形が
現実にあらわとなる希望の形そのものとなりうる
たとえばこうした意味において写真をとらえるなら
過去を写した写真も未来への運動としての可能性を大きく秘めているのではないか
社会という人間にとっての自然運動
イメージ(あるいは写真であり想像力あるいは音そのもの)としての希望が
その運動の大きな端緒でありうるということかもしれない



出雲崎 izumozaki (11)2010

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ここのところのずいぶんな疲労で、右腕と右手が言うことをきかなくなっていった。ずいぶん不安だったが、思った以上に焦ることもなかった。

どうしても必要なカルテ書きもやっとで、楽器を弾くこともできず、デジタルカメラのシャッターもままならず、車ものそのそと運転して、ワープロも打てないと言ったら大袈裟なんだろうか。だが何も機能を果たせない右腕はその存在の重みをあらわにする。

生活するのになくてはならなくなっているという存在の重みと、社会的役割としての重み、表現する手としての重み、そして生身の身体としての存在の重み。絶対に休ませなくてはいけないという割り切りをもって、その重みがいつもより感じられるということはある面において心地よく、ためになることでもあるように思えた。

それでもこの腕から逃れるように昼休みにジャコメッティのことをまた何となく思っていた。彼の彫刻が小さいのは、ほうり出されたこの腕の骨のように、存在を剝ぎ取った最終的な形、その骨格なのではなく、彼が現実を現実として忠実に求めていった時、それが実際あまりに遠い、それで彫刻があんなに最後には小さくなったのではないかと一つには思った。

もう一つには、彼が好きだと言っていたジオットを思い出した。ジオットは、はじめて神の世界を神の側にたって描くのではなく、人間の側に立って描いた。それがあまりに現実感を帯びていたため、当時の人間は彼の絵の方がこの世界だと本気で思っていたというほど本質的に革新的だったのだ。ルネサンスの始まりはジオットにあるともいわれる。今は人間の邪悪な世界、その罪を自然の世界から眺めてみるべきだろうか。

さらにジオットから連想して、かつて訪れたフィレンツェで最も感動したものの一つ、フラ・アンジェリコの「受胎告知」の絵を思い出していた。ほんとかどうか、フラ・アンジェリコは加筆修正を絶対に加えなかったらしい。フレスコ画という技法的なこともあるらしいが、絵画は彼にとって表現ではなかったのだと思う。同様にシュールレアリズムをついに脱退したジャコメッティにとっての彫刻もやはり表現ではなかった。

もしこの利き手である右手が使えないのならば、表現しないということにはいいかもしれない。それは右手があっても表現しないということがいかに難しいかということであるから、フラ・アンジェリコは本当に偉大な画家だと思った。同時に、右手がなくても絶対に表現するという人間もまた偉大な抵抗者であるだろうと思う。

ここまできてワープロうちもそうは苦でなくなってきたのは、喜ぶべきこと。それでも腕の違和感からか、ぼんやりとだらしがなく、ムカデに刺されそうな夜。




出雲崎 izumozaki(10)2010

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サルトルの「嘔吐」の状態、意識が剥奪された末に生ずる裸の世界なのではなく、精神病理学的に離人症という状態とは逆の状況なのだが、それでも世界が非常に遠くかけ離れたものとしてある状態、そういう状態がむしろ今の確たる手応えとしての感じに近い。それが逆説的にも世界を間近に呼び寄せるのだ。腐葉土をにぎったあの感覚を再び思い起こすなら、こうしたことだろう。

ライブで何かをみて聴いたりすることの現実感は、一瞬たりとも眼をそらさずに耳を傾けて聴くというより、その場でおこっていることが自分と非常に遠くかけ離れたものになっていくことのなかに、逆説的に何か間近なものが内部に引き寄せられていくという感覚としてある。そういうライブはよい。

写真展や写真集をみてもいいものはそのような感じになっている。おこっていることを分析して、いちいち自分の中で評価することもできるが、そういうことではない次元で生じていることのなかに間近な感覚がある。そういうところでは何ともならないある流れ、自己と世界が一致するような境界領域の運動を、少しでも聴くことができると嬉しい。即興演奏であっても作曲であってもそれは関係ないだろう。即興にもいつまでたっても浅い自分ばかりを出して、このいまある世界を感じさせないような、せっかく即興をしているのにくだらないものはいくらでもあるようだ。かつて自分もそうだった。

抽象的なことしかいえないが、いまここにいる私の身体の内奥に存在する襞のような境界の向こう側に外側の音や世界の現実が隠れている。それは実際みえないし聴こえないのだが、私はそれを見て聴いているのだ。眼が見えずとも音が聴こえずともそれを見たり聴いたりすることは、はっきりと可能だということだ。眼が見えるとか音が聴こえるということは、幻聴や幻覚で片付けられない、大森正藏がいっていたように、空気の波動と耳の関係や光と脳の関係でもない。夢の中で見るものや聴こえるもの ーそれは本当に具体的な音として聴こえるー 、内奥の襞の動きがもたらすもの ークレーの絵を思い起こさせるようなー その向こう側にある世界は、反転するように外側の世界でもある。外側の世界から波動として聴こえる音や外側の世界から身体に飛び込んでくる眼に見える世界との接点は、そういうところにある。

だが、こういういい方も結局は駄目だ。悠長に書いている間に瞬く間に消え去るもの。覚醒の連続体。 道元の「有時」という段がわかりそうでわからない、だけれどかろうじて何かが喉にひっかかりつづけるような、答えのなさが導く研澄まされた感覚の連続。

そういう「感じ」は、内奥の世界が非常に近く、それを裏返したところに生じている外側の世界が非常に遠い、あるいは世界が絶対的に遠いということによってこの身体の感覚があるからだといったら、これは単なる私の主観だろうか。そうでもないように感じる。外側の世界を写真に撮るという行為は私が選ぶのではなく、内奥の世界と外側の世界が襞の表裏で一致する行為なのではないか、その襞の裏面の運動が音であるなら、襞の表面において世界と私の間に生じた運動が一枚の写真ともいえる。

写真が時間を止めてなおかつ時を有するのは、その動く襞の残像がまさに写真であるからだ。音もまた同じく夢の中の音と、楽器を弾いて出た音の差異がなくなること、それが音の裏表であるとき、それは確たる音といいうるようだ。そうした音を出せるようにならなければ、楽器を弾いていていもやはりしっくりこない。その地点にたつには、練習して技術を磨くことよりも、そのことを無にするほどの感覚を深めていくことが必要であり、深めることによって多くをそこに語るのではなく、それは薄い襞そのものになっていくことだ。

都会での生活はあまりにも世界が近かった。閉じた世界のなかの現実感、それを現実とみてきた。その眼で写真を撮ってきたが、写し出されるものをみるとそれを常に超えていた。都会という人間の文明のなかで人工物の世界をみていた。人間が人間しかみることがなかった。あるいは人間の為の自然を見ることしかできなかった。

文明があってはじめて自然が意識されるということはあるにしても、人間の文明など遺伝子配列の微妙さと精巧さに比したら、文明とはあまりにも雑なものだ。仮の感覚を欠いた巨大なエネルギーをつくって、感覚ある微細な身体を壊している。それを批判的にみていくのは必要にしてもあまりにも易しいし、想像し創造していくことの方が遥かに難しい。写真も音も身体を壊すような欺瞞的な消費のエネルギーと化してしまうことあるが、そんなことは今や誰にでも容易にできてしまう。だがこの安易さではこの世界を生き延びられないだろう。それではあまりにも楽観的ではないのか。

自然のなかに立つことは自然のあまりの遠さを自分自身のなかに間近に直接的に見いだすことだ。それは自らの微細な感覚その動きのなかにこそある大きなエネルギーを、無自覚的に見いだすことであるから、それは踊りとなり、歌となり、仮面の装飾となり、土器の文様となったのであろう。原始の人々はすでに人間の生活の原型を始めていたとすれば、今に言う自然が近いどころか、自然が非常に遠かったはずだ。それだけ自分というものが自然に凄まじく近かった。このことによって自然に途方もない畏れを抱いていたのだと想像することができる。

それは夢の中から目覚める瞬間、あるいは入眠する瞬間ーその瞬間を常に生き続けるということでもある。絶対的な外側の世界から音がやってくるというような経験は同時に、内奥の音の発現そのものでもあるのだ。だからそういう音は説得力がある。私はこれまでそういう演奏はただの一回しかしたことがないが、確実にその感覚は覚えている。写真はどれがそういうものかまだわからない。物理的な音がきこえるきこえないに関わらずそこにある。弾いた音はもはや内奥の音と合致する。それは音であり、いわゆる音ではない。一枚の紙としての写真や物理的な音は、やはり何かの始まりとしての一つの契機に過ぎない。

このようにして写真がそこにあるということ、音を聴いていくということは、いわば世界の半分をみてきいているにすぎないのだが、その襞が運動し始めたとき、もう半分の世界が裏側で聴こえ始める。 連想してしまうのは今日の新聞で少し見たこの世にほとんどない反物質ーそれに対する物質とはいったい何だろうか。反物質を閉じ込めるとは一体何をしたのか。

さらに、以前から折に触れて思い起こしてきたジャコメッティーが、現実はあまりにも美しいといったその現実とは、襞の裏表を同じものとして彼が見て聴いていたからだろう。 その現実はこの上なく美しく、終わることがない。いってみればそれは時間の停止であり、時の流れである。時が流れ出したとき、その世界に終わりはない。さらに身体が動くだけ世界はいくつでもある。

私が今でも影響を受ける彼の「終わりなきパリ」は、裸形の実存の表現、視覚の肉体的現実というより、このような微細な感覚の運動そのエネルギーの去来、彼がその内部と外部の境界にある現実に微細に感じ取ったもの、彼は写真では現実のヴィジョンを捉えるには足らないと述べているし、写真とデッサンとは本質的に異なるものであるだろうが、むしろこの現在においては、このリトグラフをみる視覚の内部の襞が、私にとって写真のとりかたや見方に本質的な変質を迫る現実の良質なスケッチとみることもできなくはない。




出雲崎 izumozaki(9)2010

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キーボードのドミソの和音が
いつにもまして 
吐きたくなるほどきたなく聴こえる
勝手に何の脈絡もなく子供がならすキーボードの電子音の音の羅列の方が
はるかに興味深く聴こえる

一音のなかの揺らいだ微小変化から
ある境界面に浮上する音の輝きが
何かを指し示そうとしているのではなく
ある密度をもった音の重なりを背後に背負っていると感じられたとき
一音のなかにも和音のようなものがきこえだす

単に音と音の羅列とその組み合わせや
音の前後との関係ではとらえきれない動きが
ある自然の導いた流れのなかにある
そうした時間ではない時
一音の中の複数の音の重なりとでも言うべき
時の流れを感じていると
いまここにいることの苦も
苦でなくなってくるような身体になる

それはいうならば
その和音のようなもののなかに浮上した一切れの音の木片につかまり
押され流れていく先に
どこまでいってもみえる岸がないからだろうか
そうだとしても
岸がないとあきらめるように音が消えるのではなく
あきらめようとしたとき
まだあきらめきれてはいないように
たどりつく岸はないということ
そのこと自体に導かれるように動いていく
この音の命のようなものは
何を言おうとしているのだろうか

一音のなかにも複数の和音があり
倍音としての成分に分裂してからのちに重合されて聴かれてくるような音の塊や
音のふるまいを用いた言葉の比喩や政治的意味としてではなく
共鳴するものと共鳴しないものが
それもはっきりしない混沌にちかいなかにあるのだが
さらに複雑に共鳴し
斥け合って
まとまらずに
かといって分散もせずに
そこに多様な渦を巻いて
存在し続ける

それはまさに自然の様態とでもいったらよいのだろうか
これをノイズといってもいいのかもしれないが
人間が弾くという行為を通じた
今ここに生きる人間に課せられた
人間のノイズと自然のノイズが混沌とした場所といえばいいのか

それは恐ろしく不思議なほど静かだ

こうした音はやはりキーボードではでないと思うし
邪念が入ってはやはり聴こえてこないようなものなのだと思うが
おそらく傍目にはいつもと同じ行為をしているに過ぎなくとも
ふとその穴に入ると
自然が脅威なるものであっても
より密度濃く自然というもの
そしてその有り難さと人間の中の自然が深く感じられてきて
人間の罪のような根本が浮きぼりにされてくる

人間の苦は心の迷いがもたらしたものだというが
たどりつく岸がないということ
それが人間の原罪そのものだという根本を
音は言おうとしていたのかと想うと
これ以上何をいえばいいのか

今はこう書いていても
目覚めてみれば原罪などといって大袈裟な意味付けをしていた
あるいは音の主観的な判断に過ぎないのだろうか
だが原罪といったときそれは単なる意味でもないにちがいない

生きるということ死ぬということを想っても
知るということも知らないということも
迷うということも迷わないということも
それぞれ今の私にとっては辛いこと
そんな心なのではあるが
意味付けや判断だけで片付けられないものがやはり残る



早朝に目覚めるとかなりの雨でけだるいこともあるが
やはりこの残っている何かは大きい
そしてその残余のようなものはいま
この身体にとってとてつもなく大きいものとしてあるのだが
微細な音や日常の言葉にもうすでに宿っているという感じがする
写真の視線によって押され定着された何気ない光景のなかに

撮られたそのあとにのこった写真
写真の性質からして
どの写真にも否応なくそういう残余感や残像感のようなものはのこる
だが不意にあらわれた音の木片のように
おのずから写真が語りだすことはめったにないし
それを拾いだしたり表現しようとした果敢な行為のなかにも
かなりの作為を感じるから難しい
ふと撮られた写真のなか
それでもしっかりと撮っている写真のなかにそういう写真があると思うのだが
やはりそういうことはめったにないから
私にはなかなか経験の蓄積ができない

日頃何気なく使っている
たとえば挨拶する言葉とか子供の呼びかける生き生きとした声や
この雨音あるいは排尿の音のなかにすら
何かの重さを背負いつつ浮かんできた木片の肌触りを感じ取っていく
海と空気が接する場所に漂う木片を一つだけでも手に拾って
どこともわからない岸に寄せる迷える心をたよりにして
なるべく自分とむき合うように綴っていくことのなかにふと一枚の写真が選ばれてくる
そういうほうが大事なことではないか
そのような気もするし
そんなことをしているようにも思う