由布院 yufuin(4)2009
幹の図太く傾斜し
岩の皮膚をして
枝葉をおおむねなくした老木を
通り過ぎる車窓から
毎日みている
日々そこを通ると
枯れ切るまであらゆる抵抗をして
立っていてほしい
そうした心が出流してきて
ただただもう涙腺の刺激された
感情とはおそらく異なる何かが
言葉の外側から立ちあらわれ
西日の降り注ぐ柔らかな光束に包まれて
暗闇の息をして地上にたつ老木のそば
雨あがりに濡れた老木のまわり
その背後の時空に
誰でもない誰かが
そこにいると知る
誰かとはおそらく
全き詩人のことである
その誰でもない誰かが
存在の背後から姿をあらわし
心に宿る
そして月の影から地球が宇宙に浮かぶ姿
背後のどうにも例え様のないであろう漆黒
暗闇の暗黒を観るような空想にこのとき
ふとして取り憑かれたとき
もはや老木は地と同一の存在として
再び心に宿る
他者ということや
死ということを
十分おもわずに
他者や死を遠ざけるだけ遠ざけてきた
不死という人間の欲望の手の延びた
遥か上空
大気圏の向こうに霞む月と
深い暗黒の宇宙に浮かぶ地球そのあいだに
人間の死が宙づりにされて
漂流している
地の重力はかろうじて死をつなぎ止めているが
人間の心は死の近く
果てしなく遠いところにある
心はもはや
精神と物質という平面にはなく
なにものもないという精神と物質の混濁死から
別な形において再び
生まれ発せられる他はない
大地の根を失いつつある人間を哀しみ
あるいはそこに新たなる希望を見いだすことよりも
未曾有の災厄
宇宙時代の幕開け
そうしたこの現代に
心をつなぐ形は何であるのかを
繰り返される日々の生の状況下において
他者ということや
死ということを省みながら
おもい続ける
心を取り戻そうとすればするほど
心は戻らない
死の死とともに
心が放りだされようとしているのなら
心の実体と虚体は
放り出された心それ自身からしか
還ってはこない
現代において死の死がどうしても死に絶えていく
その真のなかに生きてあらわれる場所
いつもいつも老木が地の具現に他ならない場所
そのような場所にたって
心して生きるなら
ふと老木のそばの誰でもない誰かに出会う
老木の詩人は
音を呼ぶ
さらには
陶淵明の言表したような
真なるもの
そのようなものを写す
そのようなことが
未曾有の死を経験した
この現代において
あるだろうか
由布院 yufuin(3)2009
眼は思考を鍛え
風景は心に宿る
眼の束縛は思考をもたらし
心の解放は風景を解放する
そのような趣旨に感じられることを
一昨年少しばかり旅をしたポルトガルの
詩人フェルナンド・ペソアは
書いていた
そして感じることが
最も優れた知性であると
昨年少しばかり旅をしたスペインの
詩人ガルシア・ロルカに
教えられた
感じるためには
心のはたらきがなければならない
感覚を窓として世界を映し出すのが心ならば
心がどこにどうあるのか
心が私であるときも
心が私でないときも
心はどこかにただよい
存在している心からほうり出されては
心の存在に戻ってくる
私の心はいま
そう感じている
詩の善し悪しよりも詩人の生き様が
はるかに大事であるように感じるのは
ほうり出された心のあり様を言葉でつなぐ
心の存在をつなぎとめる言葉
生きた身体が言葉に実を結ぶ
言葉の響きと形が
心のあらわれた
生きるための詩であるからだろうか
詩人の推敲を重ねる心の時間に
私が心を砕くことは
生き様のなかに何かを学ぶための
私が生きるための行為
心は風景でなく私でない何かであり
感覚は心の
身体の窓である
古き良きものに身体を浸し追求していくなかにも
新しい問いに開かれたあり方を追求していくなかにも
詩が死をかけた生き様であるのと同様
変わらない場所があるだろう
その場所に
いつも耳を傾けるなら
どこかでみた風景も
まるでみたことのなかった風景も
いまここにおいて
離脱してはずれて回帰し
消え去っては再び迫りくる
心に蘇生していく
心の存在をつなぎとめる
風景でありうる
音でありうる
困難であるとしても
鮮やかな感覚
人間の知性の根幹
素晴らしくかけがえのないものごとは
心の感覚の
蘇生とともに
いつもある
そういう場所で
何か行為するなら
無花果のように
何か開ける