瀬戸 seto(3)2010
雪が多く残る琵琶湖 向源寺の十一面観音を先日初めて訪れた 近くの他の寺にもたくさんの十一面観音像と出会えるのであるが 向源寺のそれは本当に見事なものだった それは挑発のない受容の心の手と見事な肢体ですらりとして立っていた ずっと人々に守られてきたのがわかる その沈黙がまたその姿にのりうつっているように思えてくる
その辺に咲いている花とか 切られたけれどまた芽を出してくる木とか 竹の枯れかけた姿とか その辺にいる犬猫とか 雨のあとの水たまりとか そういった近所のひっそりとしたものと ひっそりとして共にあるのがいい 哀しみとか喜びとかそういう感情が入り交じって それらに入り込んでいるし 人の生死もすべて近所のさりげないものごとのなかに映っている 光や音が大きく世界を包んでいる
こういう時空間が開けていると写真に撮りたくなるものだが 一度 死んだなにかの到来を生で経験すると音の由来とか写真の残酷さとか言葉の暴力 あるいは挑発的な何かに身体が敏感になる 死に面と向かうような行為は 私にはやはりなかなかできず たとえ可能であっても死者に寄り添うことしかできない 閉塞的な空間で写真展をやり楽器を弾くという行為自体にもどうも疑問符がつく このことは自分自身に対して疑問に思うことの一つ 無理がなく納得のいく形はないものかとさがしている
中平卓馬さんの新作の写真集(Documentary)は私にはよかった 今の一つの目標に近いかもしれない 東京でやっている展示に行けたらいいのに 行けないだろう みていないのに良くないけれど みれないだろう悔しい負け惜しみをいえば 想像するにこうした写真は解説ぬき 対談ぬきの写真集だけの方がいいのではないだろうかと思いながら
おこがましさを承知でいえば 他人の作品というものに久しぶりに音をつけたくなる あまり作品臭さがない 作品ということをつきぬけた写真だからだろうか 自分も自分なりにここまでどうにかしていきたい 逆に言えばここまでいかなければならないし ここが本当の出発点だとすら思う
死んでしまったが デザイナーだった私の叔父が生前に自費でただ一冊だけつくった写真集がこの中平さんの写真集の内容とよく似ていた 叔父の風貌も中平さんにそっくりだったのを思い出す ボードレールの言葉がはじめにあったのを覚えている
だが今となってはそれももはや記憶の彼方から掘り起こすしかない 一度だけ写真の講釈を叔父から受けたことがある まとめれば 1)ドラクロアをみよ。 2) 時間を止めろ。 そのときは謎だった 写真集をみた感じは 何だこれ?何写してるんだこの人? というもの 内容は全く違うところにあったのだがそれがおもしろかった
くだらなくて役に立たないけれどどこかじっと こちらに何かをきいたりこちらをみているようなもの まわりのそういうものから色々と触発される 写真の気づきはそうしたところにもある 音も似たようなところがある 私自身がそういうものたちと似た存在でありたい
このようなまわりの劇的でもないものごととともに ただ音楽ともならない音を昼休みに少しずつ弾いている 風の強い日は竹やぶのうなりと共鳴するようで楽しい 光の強さはものをより存在せしめる 道元も少し読めるようになってきたような気がするけれど やろうとしている内容と比して自分の体力のなさは相変わらず嘆かわしい
夜 診療で使いすぎて頭が疲れ 帰宅して9時頃に水泳へ行く そうするとうまく身体が疲れてバランスがとれる 子供が寝付いて少し本を読んだりする 昨今のこういう毎日は 時間が止まるというよりも時間が異様に長く感じる
そんななか最も楽しみなことといえば 暖かい春がやってくるのを待ち望んでいること そして家のとなりの小学校の桜が咲くこと たわいもないものごとの素朴な変化がとても身にしみるようになるのは 道元と対話にならない対話をしていて 心というものが非常に複雑なものだということが よりわかってきたからだろうか
問うことはしても あんまりにも問いつめないようにしているとちょうど良い 私は自然というものの本質を自分なりに納得してから死にたい 職業も好きな音楽や写真のことも 今であれば道元を読んでいるのも その内側にある一つの道にすぎない