由布院 yufuin(6)2009

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木枯らしとともに木々の紅葉はますます鄙びて素晴らしく西日が強烈にその木々を照らしている
すべてを捨てきれずに極めてあいまいにこのありふれた私は生きているものの
どこまでも深くそして平凡な問いがいつ何時も心の近くにとどまり続けている
この時空のなかにほうり出されては去ってゆく私とは何であるのか
良寛からゴーギャンに至るまで多くの故人が問い続け
凝固された時のなかに問いそのものを定着させることによってその詩や絵画に動きを与えつづけてきたが
写真や音のなかに動きが生まれるのは
そうした不可解な問いそのものがその問いそのままに
写真や音のなかに定着しているときであり
そのときそれらは何らかの契機をうちにふくんで
この季節に雑多に変化する葉の色のように
多数の道に開かれつつも運命づけられたいまここがみえてくる
写真をとることそれをみること音を出すことそれをきくことは
自己と非自己に開かれた契機を与える場所において生成される独立した線上に成立した命の形態であり
そうした時の凝固と動きのなかで
決定的な主体および主題と方法をもたず問いの定着の神秘をただひたすら待っているにすぎない私もまた
どうすることもできない孤独とともに命を感じ取る契機としてひたすらその到来を待ち続け
立って生き続けるための本能と捨てることのできない個の芯部によって
いまここに生かされてある
紅葉の季節の色彩の豊かさをみることは木々の内部に立ち返りそこに当の自己の変化をみることであり
心の変化する様態にも関わらず存在の神秘によって触発され続ける不動性を感じ
季節の移り変わるこの極東の地理的位置に思い至り相対と絶対の合間に再び立つことによって
変化する心の流動性とともにあってどこへも捨て去ることのできない場所に個の芯部を聴きとりつつ
一体それは何であるのかどこへと通じていくのだろうかと
問う心は蘇生していく
車窓からみえる紅葉する木々の内側に立って何かを心におもうことは
どこまでも平凡でどこまでも答えのでない深い色艶の問いの内側に立つことであり
木々の葉の変化する色を真に演出させているのは内側の森林の真の厳格さであることを
この肌は思い起こす
写真の内側にたち音の内側にたつことは生命の形を聴くことそのものであって
心とともに行為がある