犬山 inuyama(27)2009
近くの各務原航空基地の飛行訓練が増しているのだろうか 犬山の上にも今日はいつになく何度も戦闘機が飛んでいた 今日もまた何かまた徒然と浮かんだことを 記していくべき日だろう
あとからここに付記すれば 今日はすべてがあまり脈絡のない単文のようになった だが言葉はとぎれずにどこまでも続く 瞬時に消え去るものをとどめようとするなら すべてはメモ書き 身体的痕跡だ
写真は独房を再現した建物のなかでとったものだ 歴史外の生から呼ばれるもの あるいは 権力からの逸脱 ということから何か書き始めよう
権力的な何かによって初めてあらわれる主体 主体のなかに形成される権力 そうした主体のなかにある複数の他者をみいだしていくことによって 権力自体のもつ欲動を揺さぶろうとする主体
権力の発現様式のあとがき その死のあとを綴る歴史ではなく 強いられまた自ら何かに適応するように生き また能動的に主体の変化を意思し続け 変容していく反復のなかにずれを感じ 構造的な何かから遠ざかるように進む そこに生まれでてくるような 歴史の外側の生 その数々の死の亡霊たち
歴史以前の始原の重みをいまここへと その記憶を求めて 哀しみと笑いという感情へと もう一つの生の連なりを感じる契機
あるいはまた 構造的な何かを俯瞰した場所 主体とは離れたもう一人の私から あるいは何らかの形から遠くはなれていく過程において 何かの到来を待つ
権力からの逸脱として 偶然が侵入するそのときのその構造の変化を待ち受け そこに身体を委ねていくことによって 人間の権力という重みから身体的に解き放たれること 自由という名の希望への契機
さしあたりこう書いてみると いわゆる西欧思想でいえばドゥルーズ/ガタリの「差異」 井筒俊彦を師としたというデリダの「亡霊」 アルチュセールの「偶然性」などが思い浮かぶし それらの遺産は参照に値する アガンベンの「開かれ」も曖昧なる「間」という問題を提起しているように思われるし 昨今少し読んだジュディス・バトラーの暴力の問題も 私の今の問題意識とある場所で共通しているように思う
しかし 言葉の構築しきれない場所に身を浸して そこから問いを発し続けるという思想のもつ文体 言葉のあり方そのものが求められているような気もしてくる
それは言葉による詩ということだろうか そうとも言えない気もする こうした意味で東洋独自の表現形式である「書」に学ぶことは大きいかもしれない 書が古典的で矮小な形式から本質的に脱して 書であることの書の生命というものから 何かの新しい形がみえる気がする
良寛に魅かれ それを何かの基礎としたいという思いにかられるのはそのためかもしれないが 書は書くことであり掻くことであり描くことであって それによって何かを欠くことでもあるだろう そこに不完全な間が生ずる その間から今度は文字を書く その文字をみて考えることができる
書でなくとも 構造の主体的破壊ではなく 構造の形そのものを他者としてそこから逸脱していく その契機が 例えば写真自体であり音自体である また偶然の到来 一瞬における時間的密度がひらく時空のなかに 新たな次元をみいだし 再びそこからまた逃れていく運動 それが生自体によってもたらされている それもまた音をだし写真をとることのなかに発見されるだろう その繰り返しとずれを続けていく
そのような運動のなかに身をおく 過去を写した写真 過去に奏でられた音楽 音の記憶 そのすべてが今ここに問われるとするならば 過去は今であり あそこはここである 逆転させるなら今ここから 今でもここでもない場所へ 今ここが常に初々しく問われる運動であること そのようになるだろう
さらにそうしていって何がもたらされるのだろうか いまだにはっきりとわからないのだが 何かに要請されている それは遥か彼方から連綿と続く音の生命のようなものがあるからなのか 書に書の生命を強く感ずるのは 文字が言葉を通じて人間と切っても切りはなせないからだろう 音でいえば歌という形になるのだろうか
そしてこのような運動の概念 それを音や写真のなかに表現していくのではなく その概念の言葉を身体に降ろしていく過程において音や写真を発現していくとき 音楽のテーマや写真のテーマというものはここには存在せず その運動だけがあるといっても過言ではないだろう
言葉や思想の陳腐な表現 作品に対する作者の解説が横になければ いかにいい写真か という写真集は意外と多い 写真が作者の特に陳腐な概念に縛られるとき あるいはとってつけた解説があるとき 写真は生命を失うことも多いのだが 言葉でもってしか 何かを考えてから行為する そういうことはできないだろう
写真への行為が純粋であっても 純粋ではないあるいは十分な動機に支えられない言葉は 写真を欺くことにしかならない その自覚を欠いた言葉は他者を無意識的に傷つけるとさえいえるだろう
言葉のあり方を磨くことは考えのあり方を深めることであり そのあり方自体が世界に対する態度や距離感となるのだが それが安定しだすことを私は求めていない だが言葉を発すること 言葉のあり方を常に変化させること
何を弾くか 何をとるかから 何が動くか ものからことへの契機 ものとことの多様性を含み込んだ一瞬という間へと侵入して 間を無限へと近づけること
精神は精神か 物質は物質か 偶然は偶然か 必然は必然か そのようなぎりぎりの間にある問いの交差する場所 間隙へとたつように 写真と音の運動のなかにたっていること
あたかもシモーヌ・ヴェイユの空しさから到来する「恩寵」というような 一瞬への多層的で多重的な瞬間的凝集や エックハルトの説いた無ということからのさらなる「離脱」というあり方 この身に響かせるかのように
もし音の生命というものを仮定するなら 音そのものがまだ生き延びようとしている 音の欲望と写真の欲望という事実だけがある そこから導かれて今を生きるわれわれがどのように運動していくのか
運動自体は語ることが難しい 言葉の結論めいたものを写真や音を通じてそこに表現しているだけでは何もならない 何も そうではない音と写真のあり方自体を言葉がその前後から検証していく 言葉はそのようになければならない 言葉で語れないものは必ず残る 身体である音はすでに想像の先 今現在の言葉の表現の先をいっている
だが 語りうるものは語りうるとして 言葉を書いていかなければならない 今の時代には他者を思考しながら 自らが何者であるのか思考していく態度が必要なのである 音そして写真にその契機を 過去からの要請を求めながら 今ここを反省していくなかにやっと現実としての生の力 生きた未来があらわれる
そして他者というもののなかに否応なく「権力ー倫理ー暴力」の共犯していく領域が潜んでいることに自覚的であること それは所有できない不可能性としての死を今ここに感ずること そのために今ここから死の淵に近づくその始原へとむかい そこからまた今ここを問うてくる
現在はこのような意味において過去から 過去の身体的記憶から呼び起こされる その問いの持続の運動のなかに未来が溶解しだす 未来を作るというよりも時の塊そのものが溶け出すように未来がたちあらわれる
暴力というものに それは自らのなかに潜在化する権力 そしてどこかで構築されようとしている倫理からも忍び寄る この側面に身体が十分に自覚的でなければならない
危機的な状況だとおもった 今日という日 戦闘機の訓練の轟音を聴きながら しかしまさか町が襲撃されるとは まさか思っていないようなのだが どうだろう
戦争という悲惨その日々をかつて送った また現在進行形で送っているどこかの世界を ひとかけらでも この音からこの身が想像することができるのか これからこの世界はどうなっていくのか