前橋 maebashi(2)2009
マイスター・エックハルトは説く
何も流出せず
何も接触せず
何も思惟されない「一」
離脱した心の状態であるという自覚からも離脱せよと
毎日同じ堤防の道を運転し
木曽川の水面と辺の木々を眺めて
時に田んぼのあぜ道にわざと迷い込んで
カエルの声と軽自動車のエンジン音がいかに違うかと思ったり
夕暮れの湾曲した光と高い湿度の質的な対比と融解をみていると
ネギのピンと張った薄緑色に暗い影が落ちてきて
音の差異がより際だつ
そんなふうに日々の微々たる変化を感じ取ることに
歓びを感じているとき
こじんまりとして
日々何がしかをともかく忙しくも懸命にやっていて
明日もそのまた明日も続いて終わりがなく
明日が恐怖でもなく希望ですらなく
ただ明日という日が地球の自転に任せてあるものとして感じられる
そのような繰り返しのなかに多様な変化があるような自然に
自らが近づこうとしている
自分にしかない何かを達成すべくと
どこかできっと思っていたにちがいない東京での仕事が
生の小さな一面でしかなかったことに何とはなしに本当に気がついて
小さな自分もまた繰り返しのなかの変化の一コマであるという十分な自覚すら乏しく
謙虚にすらなることができていなかったという思いにかられる
一コマといっても十全たる一のうちにあって
自らを消すのでもなく表すのでもないあり方に漂っていて
なおかつ何がしかをどこか懸命にやっていて
この精神と身体が生を受けてあるということに向かっていく
そういう生を生きるということがどこまでも果たせないことであるとしても
生まれて差異化されて生きてきた何かを
そばにあるようで自己と離れた
別種の差異のなかに静かにしずめていくことのなかに
何かから真に離脱していく契機があるように感じる
生まれ故郷の前橋の家と利根川の中流を
犬山の住処と木曽川の中流との差異に
ひたひたとしずめていくように
日常に寄り添うようにある音と写真は
自らをほとんど主張しない
それでもそのような
何もないあり方が何かを導いている
そしてそれは満たされていることと同時にある
差異のしずめられた先にあるものは
眼に見えない聴くことのできない糸となって
誰も着ることのない一つの織物がいつのまにか編み上げられ
ほどかれた糸に色がついている
そのようにして見られ聴かれる
音と写真かもしれない
そして少しづつ迂回する途上にあることが
もはや東京での出来事の記憶すら薄れてきた
「今ここにある」ことかもしれない