東京 神楽坂 tokyo, 2008

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仕事を終えたあと、お昼に神楽坂のセッションハウスで、西陽子さんの琴の独奏コンサートに行った。

臓器移植や生殖医療が行われるようになった現代、一方では化石を掘り起こし、遥か遠い洞窟までをもカメラで撮影しなければならない現代、人間の存在様式は急速に変容しつつある。ヴァーチャルテクノロジーは、地球に蓄積された二酸化炭素量をブラウン管に映し出すが、輪廻流動する、呼吸し肌で感ずる大気の存在を隠し、太古からの音の出現を抹殺するかのようである。

音に託された時の蓄積を今へと促すように、音の影に光を差し伸べ、その光の影に音を際立たせる。それは音を光のイメージ、光の効果によって把握しようとするだけでは到底なしえない困難さをともなうだろう。人間にとって音と光は異なる出自をもっているように思える。

音楽はおそらく、光によって導かれた科学的、哲学的営為の遥か彼方にあって、元来その存在を主張しないまま、そこにひっそりと、そして巨大な生きた塊のように佇んでいるように思える。それは詩の出自と似ているようにしばしば思われる。

病気を治すことで飽和しつつある現代医学、その遥か向こうに、音楽は、詩はあるだろう。だがそれらは、闇から「医」に寄り添うように、人間の肉体と精神の徒労をときに真に癒すかのごとく、ひっそりと、確かにそこにある。音楽と詩は人間の具体的営為に即すことが似つかわしいし、しかも言葉で言い表せないものを多分に含む。それらはそうであるからこそ、究極的には光ある治療法として確立され得ない。

啓蒙することのできない、しかし確かにそこにあるような領域、別なあり方が今まさに必要とされている。それはいわば、光の像の裏であり、音の闇の表であるようなものたちを感ずることのなかにあるだろう。

この時代を生きる自らの薄い影を、ひたすら追い求め、その影からひたすら逃れる。 何の偽りもない、無垢なその行為にその都度戻らなければならない。 光を包摂した影の詩、そして音楽を求めていくことが、私が現代を生きるための手段として今あるのだろうかと、神楽坂を降りた。