granada(15), spain 2008

shapeimage_1-151

当直で病院で過ごす
夜明けに記すことをそのまま

正直楽器を弾けずもどかしい
身体がうずうずしているが
そうも言っていてはいけない

合間に個展の時間に向けて
改めてフェルナンド・ペソアの「不安の書」を読む

はじめから読むのではなく行き当たりばったりの方がよい
これだと思う文章はいくらでもあるが
そういうものはむしろわかりすぎておもしろくない
そうではない文章のなかにペソアを読むより多くの楽しみがある

この文書は教訓をたれているのではなくで自白であり
ペソアの人生そのものである
そして世界はペソアとは別なところにある
本質的に他者に見せる必要性はなかったのだが
彼の中の他者がどこかとても遠くのところで
他者にたいする他者すなわち別なペソア自身を必要としている
その渦の中に文書が記されあらわれることが必然だったのだろう
ペソアはおそらくそうしなくては生きることができなかったのだ
「私は臆病である」というような自覚をどこかで書いているが
それもまた単に臆病であるわけではない
背後に聴き取られるこの苦しみと悲哀は何だろうか

ペソアの書くことと私自身の想いと相当異なる面もあるが
それは言葉の意味の表面上の話にすぎない
たまに重たい倦怠に包まれるが
あらさがしをするような文書ではないし
逆にペソア特有の視点を見つけ出そうとしても無駄に終わる
ペソアに「私」が何かを求めてしまっては
全く読み方が違ってくるだろう
ともすればペソアそして私への腹立たしさと自己矛盾にしかなるまい

世界の倦怠が倦怠となりつくしても
倦怠と疲労として終わらない様相
そこには全く別なあり方への発露があるように感じる
彼は自らを真に生きたのだ
そして生は理解できないということへの信頼がある
そして彼は彼でないことをよくよく知っている
だから矛盾だらけで脈絡があるようでない
どう読みとくかではなくそのまま読んで感じればよい
それで十分だろう
読む側が私の何かにとらわれていては本当に感じることすらできない
そして私が引きずられるように
受動的に何かを感じとると思っていてさえ
この文書は読めないということすらできる
ペソアもまた「私の感覚すら私のものではない」とどこかで書いていた
異名を使っているからといって疑うことはなにもない
そのままでよいのだ

写真は写真で歩めばよい
音は音で歩めばよい
言葉は言葉で歩めばよい
医は医で歩めばよい
そして私は私で歩めばよい
疲労を疲労そのものとして

すべてはすべてであり
私は私であって私ではない

疲労するのは今の社会が疲弊しているからではない
疲労は身体の疲労そのものだ
私を受け入れるなかに
ペソアはより現実的な夢として訴えかけてくる

そのような「私」に意図されない交差のなかに
全く予測すらつかない偶然への発露がある
その偶然こそが真の必然である
全ては私という限定された心と身体を通じている
本来それで十分なのである

そのような心と身体のあり方
最後はそのことだけがある
何を弾くかということも大事だが
私にとってはるかに大事なのはどう弾くかである
その都度違うということをどこまで大事にして受け入れられるか
そのために何らかの空間が必要だ

端的に言えば
ある空間的限定のなかに
どのように時間的流動性を実らせ
音を自由にさせることができるか
そのおそらく基本的なことすらまだまだできていない
当分はこの修練の繰り返しをしていかなければならないだろう
そしてその先があるだろう

ペソアは十分にペソア自身を生きた
そのことだけが確信された一夜