熊野 kumano (11) 2010
人口が70億を超えた。黙する自然から言えば遷移にすぎないだろうが、これだけで人間にとっての環境への影響は計り知れない。そして人口が減少に転じることはしばらくはないといわれる。世界のなかで、国の内部で生じていることとおなじように、地球全体のなかにおいても押し付けられた価値のもとで大きな格差が次々と生まれている。宇宙へ居住空間を拡大したとしてもさらに格差は広がる一方だろうことは想像に難くはない。
熱帯雨林でさえ適切に人間が管理しなければならない時代、市場経済は地球に蔓延し、すでに一部では自己破壊を迎えるほどにまで成長した。膨張した風船はそうしているうちに割れ、世界は割れた風船の破片が飛び散るように多極化し、混乱するにちがいない。その先にはどういう事態があるのだろうかと考える。
人口減少と宇宙への居住空間の拡大、それが現実的困難ともない人類にとって最善の道でないとすれば、第三の道、すなわち余裕のある場所に生きるものたちが、他者の為に自己の自由を制限するという道、自己の自由を獲得するための人道としての作為のベクトルは、これから本質的にこうして他者へと向かう方向へと転じ、逆向きとならなければならない。いまの日本にはそういう本質的な契機と動きが、もしかするとあるのかもしれない。
際して、原発事故というとりかえしのつかない失態を経験したこの国は、明治以降の脱亜受欧を根幹とする近代化の行き過ぎへの反省とそれへの単純な自己否定、あるいは都合の良い自然への回帰主義と茫漠たる感情移入をもってしては、現在をやはり乗り越えられない。現在の自然との関わりの実体を見据えながら、自然観を正直かつ謙虚に見直すとともに、現実にはびこるように生じている人間中心の功利主義を真正面から捉え、持てる技術と知恵を人間と自然のために、自然を尊重しつつも自然に最善な形で介入しなくてはならない。
政治は政治的人道として、自ら育てた優れたあらゆる民間の技術を、とりわけ未来を担う子らの命と、自然への作為の方向転換のための知恵として着実に現実に運用すべく、基礎的な情報公開を率先してすべきである。出来事の記憶は風化し忘れ去られ、歴史は旧態依然とした作為としての人道によって今後も書かれるおそれもある。次の時代への責任を少なくとも負うために、勉強し考えなければならないことは山ほどある。しかしながら人生はあまりにも短い。
このようなことを雑多におもいながらも、道元に方法を学びながら、ブッダのいいのこしたことを少し文庫で読んでいる。ブッダは政治から距離をおいている。非常に巧妙にあたかも正論かのごとくやってくる悪のささやき、それは一見正しいようでいて、おそらく一つの落とし穴をもつようなものなのだが、そういう何かを感知し、それを逃れ克服もしながら、自己の道を貫いている。そして悟りを開いてからもその格闘は続く。道元とみているもの聴いているものはやはり異なるように思える。
言葉はとてもやわらかく、その音は非常に豊かで具体的であるようにきこえる。風が具体的な音を木々とともに奏でるように。現代語訳にもよるのだろうが、道元の静寂と沈黙のダイナミックな運動と静止から生ずる音のあり方、風そのものののなかに入るということとは対照的に、風が木々とともにそよぐ音を、ブッダは言葉につぶやいているように聴こえてくる。
道元は無音という音のあり方と直に連関する一方で、ブッダはいまここに流れている決してやまない音楽であり、それは永遠に吹き流れ続ける音、そういう感じが強くある。それは音や音楽を超えた世界に染みわたる声であり、沈黙と静寂をも包み込み、変化し続けるという不変を示しているように思える。
与えられた見せかけの自由をもてあそぶこともなく、 自己の求める自由をも超えて、ブッダの言葉の時空にはそうした根源的な自由、不自由と表裏一体のぎりぎりの自由だけがただ、広大にただよっている。それも自己と密着することによって自己からはなれ、自然と他者への慈しみに満ちて、具体的であるように聴こえる。ふと口からもれた、そういう言葉としての声。
音を奏でることの意味が、ブッダの言葉によってわかるのではないかとほのかな期待、ありもしない空想を、どうしようもなくいまここに寄せる。だがそれは自分勝手な絵空事とも思われない。私にとって自分が音を出す意味は何か、そのことをどうしても、生きているあいだに大きな意味において納得したいがため。
音を出すことの背景を知ることのない限り、私は真に私ではいられない気がいつもいつもするのだが、そうしたものは以前のように自分自身への焦燥感としてはあらわれないようだ。こういう状況であっても、過去から未来を学ぶことによって、いまここに生きていることへ微かな希望をいだいているのだろうか。ブッダという人はあたかも未来からやってくるようだ。