甲州 koshu (18), 2008
確か2000年か2001年頃だったか
新潟県で催されたアート・トリエンナーレに車を走らせた
それまでよく知らなかったジェームズ・タレルの作品にそのときはじめて出会った
光は波や物質ではなかった
光はただそこにあった
光はゆっくりと変化した
ただ光がそこにあった
眼は光の窓口に過ぎなかった
その場所は
光を心と身体で受け止めることを促していた
いわば対象なき眼の順応を
動物としての人間の自律機能を促していた
場を去る前と後
身体の変化そして開放された身体
光は視覚との関係だけで捉えるべきものではなかった
ポストモダンといわれる思想もその地点から逃れようとして逃れられないようにみえる
言及すればするほどその光はみえなくなる
光はそこにある
すぐそこに
この音にこの写真ーこの写真にこの音
そこには音や光の脳内イメージや思考が必ず介在する
もはや作者のそれがわかるかわからないかということが脳みその中心にあっては全くおもしろくない
音を探るように写真を撮り
楽器を奏でるように写真を選び焼き付け
音を聴くように写真をみる
音や光は静寂やそれらの影として
身体の脇にただそっとしているだけのこともあるし
音や光は決して定まることのない方向でいろいろなかたちで
境界不明瞭にしみ出しては逃げ去る
音をうけいれ光をうけいれ身体を信じる
だが身体を信じることは単純であるようだが最も困難なことである
森林を歩いていると
運良くせせらぎの音と蝶の舞う姿と鳥のさえずりが心地よく聴こえてくるときもあるが
森林は突如として完膚なきまでの自然の厳しさを語る
そのように身体は優しくもあり厳しくもある
完膚なきまでに
それでもなおそのように
音と光に導かれ身体を信じることは
他なるものとの出会いをもたらしてくれる
そこに豊穣な何かがつまっている