犬山 inuyama(2)2009
良寛に「余家有竹林」という詩がある
春夏秋冬問わず林立し季節ごとにその姿を変幻自在に変えつつも
その根その心は不動である
そんなような詩である
竹が向かってのびていくのは天であるが
天は竹にとってたどりつくための夢か発見すべき実在か抵抗すべき存在か
そのどれもか天などそもそもないのか
だが土があれば筍がでてきて竹は増える
そして竹は地から浮いたら生きてはいけない
次々と診療にあたっていて否応もなく臨床ということその感覚を鍛えていくと
ヒポクラテスを出すまでもないがテクネーということに通ずる
医学ということと今ここの統一された場において
一つの真理を発現していくための柔軟で粘り強いあり方
私なりに大袈裟にいえばテクネーとはそんなようなことになるかもしれない
科学的手法は西洋医学の依って立つ方法であり
病因に基づくあるいは現象から類推される分類であって
それに乗っ取った実践は現在主要な位置を占めているが
その分類を見極めるのは未だに極めて困難なこともある
一方でこの実践とは別種の乗り越えられるべき困難
まさに現実的な矛盾が大きく介在している
そうした場のなかに常々身を置いている
自然とりわけ他者という別個体の自然を相手にすること
自然とは人間の情念や感情を含むダイナミックなものであること
病いという自然の合目的性の分岐点としての一つの起源を見いだすこと
起源に立ち返ってその人の自然を包括的に想像すること
自らがその場に存在する自然であることを自覚すること
それらが同時に生じている場が臨床だろうか
思いつくままに書けばそのような感覚を抱く
たとえば西田幾多郎が絶対矛盾的自己同一と言い表したものは発見したり目指すべき観念なのではなく
西田の行為と場の論にもきっと通ずるのだろうが
臨床という事態がある限りすでにこれは常に実践されているという点も自覚される
臨床とは包括的にみて何だろうか
どこにあるともわからぬ天に向かって徐々に幹をのばし
毎日地を這い腐るまで土に根を張っていくのみであるが一人になった今
もう一度私の仕事がどういうことなのか深く認識しないといけない
曲がりなりにも小さいながら仕事をしているのであれば遠い先人たちの努力
その本来のテクネーを微力ながら無にするわけにもいかない
そして西洋医学の歴史は困難に次ぐ困難のうえに成立している
すなわち大きな努力とともにある大きな犠牲のうえにあるのだ
川喜田愛郎氏の「近代医学の史的基盤」を再読してみたい
私にとってはこのような勉強は医学生以来だが
こうしたことは大学という場所を離れてみなければできなかっただろう