御坊 gobou, 2010
昨今のこと。ここ一、二週間くらいをさかのぼって。
ジョン・ケージがエックハルトに影響をうけていたとケージの解説本で知ったのをきっかけに、エックハルトをまた少し読み返す。自分自身の鏡として。
痕跡ということについて思っている。ありきたりだが、またしてもくりかえし、残像や残響ということ、時間とのこと。ユベルマンのフラ・アンジェリコ論も痕跡の謎から始まっている。
田中晃という人の道元論は出色で、これも平行して読んでいる。道元の奥の深さにますます吸い込まれていく。どれだけ解釈するかということ以上に、どれだけ感じ取って私を私が変化させられるか。実際やっている仕事などの形式は同じでも数年前の私はほとんど姿を消した。
芸術と政治ということについてもっと今つきつめなければならないとどこかで思っている。論理としてではなく、感覚を深めつつどこかで放棄しないこと。これについては、主体と権力の問題を常に抱えこみ、それを超えようとするフランスやイタリアの現代哲学の営為それ自体のうねり、批判に次ぐ批判、その知の文脈や概念の正しさその立場ではなく、言葉の力の生成そのものを参照しがちになる。
ランシエールの哲学は非常に難解だが、よくわからなくても身体に迫ってくる何ものかを捉えながら。日本の専門家によって紹介されている人以外にどんな人がいるのか知りたいのだが、語学ができない。忙しくて体力もあまりないが、斜め読みでも半時間でも集中すればなにがしか得られるという実感だけに支えられて。
お盆休みをとって数日、家族でオキナワへ。以前天候が悪くわたれなかった久高島に数時間だけいくことができた。 神という言葉を私はあまり容易には使えないのだが、ほんとうに神の島のような気がした。
普天間基地の隣、佐喜眞美術館では丸木位里氏の「沖縄の図」が深く心に刻まれる。浜田知明氏の初期作品にも深い感銘を受ける。ずいぶん長い時間そこにいた。カメラはもっていったが、沖縄では今回ほとんど写真をとらなかった。
写真をとってきても原体験自体はあらわせない。写真を写真として、写真からみることに忠実になろうと思っているが、これが音と同様にいつも難しい。 当然のことだが、いろんな本を読んだり考えたりしていると、むかし撮った写真の見方も変化している。