犬山 inuyama(19)2009
重なりについて書いているのだからたたみかけるように書いてみてはどうかと 今日もここに座っている 木戸敏郎氏著の「若き古代」に眼を通していた 本の最初の方 御神楽の現代的意義のなかで 時間の停止と同じ旋律の反復が 実は反復ではなく重複あるいは堆積としてあり 音の堆積は密度を高めていくこととしてあると書いてある この表現法を言い表す用語がないことはこのような表現方法を概念として把握していなかったとされている 驚いて背筋が凍る まさに今感じていることそのものに近い指摘と言及だった 何かを発見できたうれしさを超えた感覚 この本はコントラバス奏者の齋藤徹さんのブログの紹介から昨今教えていただいたものだが 当時絵や書をみようとに躍起になっていたため 興味が及ばずに心を砕けない部分は飛ばして読んでいた それだけ当時は音楽に迷いがあった 時間のない音の空間性の重複という趣旨で 時空の間からみる時空の重なりということとは少しずれてはいるものの 飛躍すれば 数日前 私は腐葉土の手の感触のなかにほぼ御神楽をみていた といっても決して誇張しすぎにはならないだろう 身体とはおそろしい記憶の塊 記憶の重積であった そして土もまた記憶を宿している 頭では想像していてもこうしたものの実感は私のような凡人にそうは経験されないから本当に大事な感覚としていかなければいけない すべては木々が倒されたということから始まっているのだった 重積された記憶と重積された記憶の連鎖 それは時空と時空の空隙に触れることによってもたらされるのではないか ここで思い起こされたのは スペインのアルハンブラ宮殿 同様の感覚が襲ってきていた あのとき 今思えばアルハンブラは世界の堆積したくぼみのような魅惑的で詩的な場所だった どこに存在しているかはっきりしないほどの時空の密度 ガルシア・ロルカがみていたものはそのような生活空間の密度そのものだったはずだ あのときから いや ずっと以前からそうした時空間の濃度というものに魅かれ続けていたのかもしれない 写真にはそれが必ずと言っていいほど写っている フェルナンド・ペソアの世界にも不可思議な時間の堆積をみることができる ここ数年間の写真展ではそんなことはわからないでいた 生死という側面から考えるよりも時間の蓄積されたあるまとまり それらが生死を貫いている そうであれば生死という二分法も人間と自然という二分法も 貫かれた時空の重なり その堆積によって打ち砕かれるのだ 部屋に置いた竹の色の変化が生から死への転換がすぐにはされないことを如実に示しているではないか ある時空と異なる時空のあいだこそが我々の意識の世界なのではないか 身体は身体がわかってはいても理解できていないことを先取りしてやっていく そこに経験していくことが 次々と重なって密度を増す 移動してもそれは変化しながら蓄積し重なり合っていく その時間のまとまりの重なり具合 それはものすごくゆっくりとしていてみることができない この時間的感覚とは相容れないような猛烈な速度であの木々が倒された そのことへの身体的拒否反応がないはずがないのだ ここへきてやっと私が私でいられる気もちがする そしてあの木々の霊魂へ何らかの音を捧げるために 私はどこまでいけばいいのだろうか 音作りはできない もっと待て 時空の蓄積を待て 言葉と写真とともに 私が私になるために意思を強く貫け