出雲崎 izumozaki(9)2010
キーボードのドミソの和音が
いつにもまして
吐きたくなるほどきたなく聴こえる
勝手に何の脈絡もなく子供がならすキーボードの電子音の音の羅列の方が
はるかに興味深く聴こえる
一音のなかの揺らいだ微小変化から
ある境界面に浮上する音の輝きが
何かを指し示そうとしているのではなく
ある密度をもった音の重なりを背後に背負っていると感じられたとき
一音のなかにも和音のようなものがきこえだす
単に音と音の羅列とその組み合わせや
音の前後との関係ではとらえきれない動きが
ある自然の導いた流れのなかにある
そうした時間ではない時
一音の中の複数の音の重なりとでも言うべき
時の流れを感じていると
いまここにいることの苦も
苦でなくなってくるような身体になる
それはいうならば
その和音のようなもののなかに浮上した一切れの音の木片につかまり
押され流れていく先に
どこまでいってもみえる岸がないからだろうか
そうだとしても
岸がないとあきらめるように音が消えるのではなく
あきらめようとしたとき
まだあきらめきれてはいないように
たどりつく岸はないということ
そのこと自体に導かれるように動いていく
この音の命のようなものは
何を言おうとしているのだろうか
一音のなかにも複数の和音があり
倍音としての成分に分裂してからのちに重合されて聴かれてくるような音の塊や
音のふるまいを用いた言葉の比喩や政治的意味としてではなく
共鳴するものと共鳴しないものが
それもはっきりしない混沌にちかいなかにあるのだが
さらに複雑に共鳴し
斥け合って
まとまらずに
かといって分散もせずに
そこに多様な渦を巻いて
存在し続ける
それはまさに自然の様態とでもいったらよいのだろうか
これをノイズといってもいいのかもしれないが
人間が弾くという行為を通じた
今ここに生きる人間に課せられた
人間のノイズと自然のノイズが混沌とした場所といえばいいのか
それは恐ろしく不思議なほど静かだ
こうした音はやはりキーボードではでないと思うし
邪念が入ってはやはり聴こえてこないようなものなのだと思うが
おそらく傍目にはいつもと同じ行為をしているに過ぎなくとも
ふとその穴に入ると
自然が脅威なるものであっても
より密度濃く自然というもの
そしてその有り難さと人間の中の自然が深く感じられてきて
人間の罪のような根本が浮きぼりにされてくる
人間の苦は心の迷いがもたらしたものだというが
たどりつく岸がないということ
それが人間の原罪そのものだという根本を
音は言おうとしていたのかと想うと
これ以上何をいえばいいのか
今はこう書いていても
目覚めてみれば原罪などといって大袈裟な意味付けをしていた
あるいは音の主観的な判断に過ぎないのだろうか
だが原罪といったときそれは単なる意味でもないにちがいない
生きるということ死ぬということを想っても
知るということも知らないということも
迷うということも迷わないということも
それぞれ今の私にとっては辛いこと
そんな心なのではあるが
意味付けや判断だけで片付けられないものがやはり残る
早朝に目覚めるとかなりの雨でけだるいこともあるが
やはりこの残っている何かは大きい
そしてその残余のようなものはいま
この身体にとってとてつもなく大きいものとしてあるのだが
微細な音や日常の言葉にもうすでに宿っているという感じがする
写真の視線によって押され定着された何気ない光景のなかに
撮られたそのあとにのこった写真
写真の性質からして
どの写真にも否応なくそういう残余感や残像感のようなものはのこる
だが不意にあらわれた音の木片のように
おのずから写真が語りだすことはめったにないし
それを拾いだしたり表現しようとした果敢な行為のなかにも
かなりの作為を感じるから難しい
ふと撮られた写真のなか
それでもしっかりと撮っている写真のなかにそういう写真があると思うのだが
やはりそういうことはめったにないから
私にはなかなか経験の蓄積ができない
日頃何気なく使っている
たとえば挨拶する言葉とか子供の呼びかける生き生きとした声や
この雨音あるいは排尿の音のなかにすら
何かの重さを背負いつつ浮かんできた木片の肌触りを感じ取っていく
海と空気が接する場所に漂う木片を一つだけでも手に拾って
どこともわからない岸に寄せる迷える心をたよりにして
なるべく自分とむき合うように綴っていくことのなかにふと一枚の写真が選ばれてくる
そういうほうが大事なことではないか
そのような気もするし
そんなことをしているようにも思う