出雲崎 izumozaki(6)2010
学問はいったい何の為にあるのだろうかと、どこか深くで自問している日々でもある。 心がいま苦しい。 学問というものは古今東西、各地で発生してきた「知恵」と言い換えても、本来はそう変わらないはずだ。
日本における学問的権威のような大学に、学生とあわせれば18年間もいたからだと思うが、学問とあえてここで言いたい。 学問の基本構造といった原理的な話ではないけれど、学問が純粋ないわば知恵を離れて、ある種の権威それも非常に狭い視野の権威と、ある種のシステムの内部の動きに癒着していることは、少なくとも一部において否めない事実だ。
学問が人が生きるのに役に立つためだとしたら、人を殺すような学問のあり方はいけない、だが現状を見る限り、その前提がそうではないということだ。そう思わざるを得ないのだが、本当にそうなのか、そうなのか、そうなのか、そんなもんだ、では到底すまない。
アリストテレスはたとえば生とは何か、死とは何かといったようなシンプルな命題に向かい、合目的性ということを強調していたように記憶している。勝手な解釈かもしれないが、アリストテレスの合目的性にならえば、それが一体何の為にあるのか、を問わない学問は学問と言えないと、私はあるときからいままで信念として思ってきた。科学的発見も今の科学の言葉の文脈だけでは到底語れない。
とくにその学問をする職業のなかにいるなら、いろんなことに対する想像力をもたなくてはいけない。1万人に一人が癌になるという統計的事実があったとしても、一度はその一人になってみて想像を働かせてみなければならない。そうすれば本当にいろんなことを考えなければならなくなる。少なくともそういう思いを保つこと。
病気の人をみていると、大袈裟に言えば学問としての「病気」の分析に比重がいって、その人の身になるということが難しくなっていく方向と、大袈裟に言えば個人の人生や尊厳としての「病人」に比重がいって、治療を緩和しつつ、その人の身にならなければいけないという方向とが同時に生まれる。両者は別に対立もしていないので、妥協というあり方ではなく、単純にとはいかないまでも、少なくともその場における最善の方法があるし、どちらも大事なこととしてある。
学問的成果といっているものが、そのときそのケースにおいて、かえって生きることに負担を強いるようなら、やはり勇気をもって撤退するべきだし、成果を適応した方がよりよく生きることにより寄与するなら、それを進めてよいだろうということであるはずが、権力や過度の欲望によって、権威付けとその保持のため、予算の獲得と個人の私腹のため、と言わんばかりの、一部の極度の不自由さから生じた、悪しきふくろ小路のなかで、学問の生命線自体が本当に激しく痛み、歪んでいく。それに知らぬ間に引きずられるように、より大多数の人間にとっての生きるための尊厳もずたずたに引き裂かれていく。こんなことはひどく悲しいことだ。
音楽が好きなのは、たぶん、音楽は身体的な魔力そのものであるし、未知なものに対する畏怖をそもそも備えているからだ。写真は現実を一瞬に凝縮して捉えては、それをじっくりとみることで、ふだんはみることのできない大事な何かを救い出してくれる。想像の力がそこに出現する。
わからないことはわからないと、いざというとき、自分に言いきかせることができるのは、世界のなかに感じている、そのような畏怖の念があるからだ。アインシュタインなど、彼の言い残したものを少し読むと、そうした世界に対する畏怖の念に満ちていたはずだ。いわゆる芸術だけの問題ではない。
いざというとき、わかっているようでも実はわからないような、境界にいるような場所から現実をみつめてみなければ、人間にとって何が大事であるか、本当にはわかってこない。 何もわからないというあり方のような、平地から新しい道をつくっていくのが学問の、人間の勇気というものだろう。わからないということが本当にわかるようにならなければ、そこに立ち戻ることができなければいけない。
わからないから何かできないというのではなく、わからないということを本当にわかり、わからないから、わからないということを、たとえば書いていくということのなかに待たれ、実感される、覚悟のようなもの、そうしたものを蓄えながら、勇気をもたなくてはいけないだろうと思う。何のために、いまここにあるのか。