京都 kyoto(6), 2008
雨が降り続いている
今日もまた雨が降っている
雨が地面と草と音を出しているのか
私が雨の音を聞いているのか
音といったとき
それはすでに言葉でもある
私というひとつの有機体にとって
雨はひとつの他者である
雨の音を聞くとき
聞いたその音は
すでに消滅している
おととい聞いた雨の音と
今聞いている雨の音
音を意識したとき
それは私のなかの言葉と否応なしに連関する
言葉はひとつの音なのだが
それを雨そのものととらえたとき
はじめて人の言葉と人の言葉が響きあう
言葉はひとつのエゴである
音という言葉もひとつのエゴかもしれない
だが雨はエゴではない
雨と私の聴覚を通じての摩擦
音の選択ではなくその摩擦自体のなかに言葉以前の音がある
そうした音の響きあいが底辺にひたひたと流れている
その土壌から「あること」の哀しみというべきものが
ひたひたと心にしのびよる
今私の左目はおそらくウイルスに侵されている
結膜は赤くなり涙が否応無しにこぼれ落ちる
明日医者にかかれば休んでそして眼帯をすべきと言われるだろう
今日はサングラスをかけ目をこすらないようにし
目の痛みと音のなかに生きた
岡本太郎美術館へ久しぶりに行きそうした眼で岡本太郎の韓国の写真を見た
太郎は写真家ではなかった
ユージン・スミスは写真家であった
二人は正反対の位置にあるが特に数枚の写真は正反対でありながら共通する何かがあった
北と南といったときそこにはどこか似た響きがあるように
そして催されていた美術家の李禹煥さんの話を聞いた
最後に私は思い切って李さんに質問した
韓国における聴覚文化について
李さんは具体的な話をしてくださった
その場は一つになった
李さんはハンセン病の人が玄関の外にやってきて
自らの苦しみを謡ったという話をした
健康なものたちが私の魂を吸い取り私はこうなった
私は生き返ったらあなた方よりより生きるのだ
そのうたは健康なひとびとへの痛烈な響きだった
その嘆きによってその場は深い深い哀しみに包まれたという
雨の音を聞くことのなかになぜ哀しい響きがあるのか
それは人間が聴くことのできない
大地と海の息吹としての音の根が横たわっているからだ
その音の根
息吹はなぜ哀しいか
そこに死があるからだ
その根は聴くことはできないが
いわば動物がそれをいち早く感じ取るように
人間の心にも響きこだまする
視えないから聴こえないからといっても
視えるから聴こえるからといっても
視ることも聴くこともそうした響きとこだまのなかにある
きこえる音ははかない
そこにみえる風景もはかない
そしてその音と風景は
太古から揺るぎないものであり続けている
その忘れることが決してできないことが
人間のエゴによって忘れ去られようとしている
忘れたつもりになっているとしか言いようのない有様
だがそれはそこにあるのだ
だから忘れることはできない
そこへ戻り新しい聴覚と視覚を練り直すことだ
それは構築することとは違う方法
先へ進もうとしても壁はそれだけ
大きくなるばかりなのかもしれない