犬山 inuyama(17)2009
コントラバスだけ弾いていて あとは生活の機械音のほか 大体が周りの静寂と鳥や竹やぶ あるいは家族の声といった自然の音という状況下において 解放弦の音程に対する耳の高さの感覚もときどきずれてくる もうここまでやってきたのだから自由でよい 大体ソといえばこの高さだ想像することはできるが 個々の演奏家によってコントラバスの解放弦のソといったとき その言葉に対する一音に抱いている内部感覚は違う 耳の特殊な訓練を通じた技としてそれをできうる合わせることによって開ける音の時空間よりも わずかなずれから生ずる隙間のなかに身を投じていく 同様にソとレとラとミの内部感覚は同じ楽器や同じ個人のなかにおいてもかなり異なる性質を含んでいる ガット弦を用いているとまわりの環境や時によってかなりずれてきて その都度音の高さを拾い直すのだが 音のイメージは今でもまるで固定されていないことに気づく すべての音を肯定する気持ちで弾いていくなら弾いてみるまでは何がおこるかわからない こうした不確定さや曖昧さのなかで 一音から始めるという基本をいつもくずさないように弾き始めるのだが 一音の深さは時間を抑制するように抗うだけではなく 時という事態に垂直な性質を含んでいるように思われてくる 我々は時間を抑制して空間から退行し さらにどこかへと行かなければならない時代に生きている 持続された音のなかに徐々に変化の妙や深さを見いだしていくやりかたと共存して 時のまとまりをあらかじめ予兆として感じ取ることで 時とは違ったベクトルに向かうことができないだろうか それは空間的重なりや時間的重なりでもなく 時空を超えてということや 存在の否定された何かから生ずる無のようなもの そこから生ずる神秘 実際そのようなことはあるのだが 空間の入り口と時間の入り口同士を結ぶ線上にどこかにあるようなある感じ それは実は 原初的なものごとを感覚としてまるごとつかみ取るという古い古い土壌の上にある 他ならぬ土は眠っている年月の堆積されかつ循環された過程のなかにあって その感触こそが古い土壌 土を握りしめたあの鮮烈で繊細な感触を 自分にとって絶対的とまでいえるかもしれない解放弦のあの単純にして豊富な音の土壌 解放の音で一度つかむことはできないだろうか つかみとって手放すために 土なら横にあればいつもつかむことができる 庭において雨の日には雨の土を握ってみれば余計にいい 土を大地に返すように音を時空に放り投げたとき 何かの間隙のようなものが姿を現す 間隙から時空の重なり あるいはとなりの隙間をみることは我々の今を我々の将来からみることだろうか そんな予感がしているのに 土に親しんでいくような生活などどれほどしていなかったか 宇宙飛行士が地球に帰り畑を耕しているという心境もわかるような気もする それだけ頭の空想が働いたといえばそうかもしれないが 失敗もあるが静かで苛烈な思いをして何かを徒然の極のように書いて そうして弾いていけば それなりの発見と予兆の到来もあるだろうかと あやうく不安定な綱の上に立ちつつもどうにか 今ここを信じながら今日もまた竹とともにある