犬山 inuyama(11)2009

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本人が生前望んでいなかったとしても
一つの権力の頂点に立った人の追悼会には数多くの人が集まる
そういう偉大な方が亡くなっても
個人的な付き合いやその位置関係のなかで在りし日の姿が
各々の胸の内で各々の形で思い起こされているに違いない
だがこのときその姿は自分のなかの記憶にすぎないのだろうか
そしてそれは二度とやってこない過去の感傷のうちに溶け込むのだろうか
身体は亡くなっても心のなかにその人が生き続ける
それだけのことなのだろうか
そうではない
人の死は過去ということそのものを提起させる
権力者の死はとりわけそうかもしれない
このとき過去は同時に
いわば時間の犠牲としての姿をみせている

明日の彼岸花は今日の彼岸花だろうか
今日の彼岸花は昨日の彼岸花だろうか
ものごとの変化が時間を本当に規定するのだろうか
そうとも思えない
変化そのもののなかにある大いなる一つの動き
動きという静止
動きの否定としてでなく
時間の否定としてではない
時間が自ら犠牲となって化身した静止体
それが過去というものの感触に近い
時間は動く静止体
そこに一つの世界が存在しているのだ
ノスタルジーとは時間の犠牲
過去の一切の分け隔てのない世界そのものだ
過去が時間の犠牲として
自ずから一つの世界を形成する
その末端かどうかすらわからないどこかに
ある余韻を残しながら今がある

権力機構の全く存在しない人間社会はないだろうが
犠牲は権力の最も凶悪な形式である暴力と様々な意味において対をなしているだろう
決してこの社会のなかで私の時間が犠牲にされたのではなく
犠牲にされた時間すなわち過去への単なる郷愁でもない
本質的で決して回避できない
不可逆的な時間の犠牲
さらに犠牲の不可逆性が
そこにただあるのだと気づく
しかし時間の犠牲としての過去に一つの世界を感じ
その世界の痛みを感じたとき
今という時間の生を分かち合うということが
はじめてあるのではないだろうか
一人の死を追悼することは
その死を悼むことのなかにこのような静止された犠牲としての過去
経験されたそして想像しえたすべてと余白
その総体を受け止め
今ここをみなが分かつことなのではないだろうか

写された写真は過去を今に映しだす
影を撮る行為は過去を時間の犠牲として今に送り返すことだ
それは光の犠牲としての影に再び光を与えること
時間の犠牲としての過去を今に分け与えることではないか
いかなる映像もそのことを離れて何ものをも象徴しないのではないか
音楽や神話は時間を抑制する機械だとレヴィ・ストロースはいったが
音楽は過去、時間の犠牲をどこかにいつも
今の音に象徴しているのではないか
過去が音を通じて
その流された血汗が神話化されるとき
余韻としての一つの未来
静止した時間の姿そのものがあらわれるのではないだろうか