甲州 koshu (16), 2008
楽器の手入れをすると楽器に命が吹き込まれる。手を入れることは労(いたわ)ることである。
日頃どんなに切迫していて、どうしようもなく多忙な状況があろうとも、他者を労る心がその場面に少しでも残されていたり、それを感じなおしたりする意思があれば、人と人は何とか乗り切れることも多い。労る心とは例をあげればいくらでもあるのだろうが、例えば思うに、
最近の身近な出来事では、眼の見えない方にどのような声と抑揚で、どのような仕方で語りかければよいかを自己の身体が感じ、その方法をその人に導かれつつ一瞬、瞬時に更新していこうとすることである。古来からの例えにあるように、精一杯に咲く花に接して、咲く花の咲く喜びとこれから咲いては散ってゆくであろうはかなさを自己の身体が自己の身体の運命とともに瞬時に感じとり、花を愛でることである。それは自らの身体を何かの鏡として心に留め、その心と身体が変化していくことから始まる。
とてもよく労るためによく感じるためには、その身体としてそのときのいわば最高に機能した身体が必要であり、それにはそれがよく働くための心と身体の技術を要する。そしてそのような、労るために感じるための身体を表出するための過程そのものには、概念や思い込みによる外側からの差別は入り込む余地は極力少ないかもしれない。時に時間もかかることだが、そのようにして過程をふんだ労りの心と身体は理屈抜きで伝わる。理屈抜きで関係を開く。それはおそらく純粋に科学的思考の外側にあって、概念的なココロとカラダの捉え方では説明できない、というよりも説明し尽くせずに何かがこぼれおちる。そのこぼれ落ちる領域に、労るのに必要な身体と心があるからである。とらわれない身体と心のなかにそれはあるといってもよい。
現代において科学技術は必要だが、無論どんな技術でもよいわけではない。西欧思想も今や避けて通れないし東洋にも科学的思考は古くからあった。悲痛な歴史のなかにも、東西を問わず人間が生きのびるための良き知恵は、その時々にあったはずである。
科学的技術は毒にも薬にもなるというが、薬になることや即効薬を目指すだけではもはや不十分である。技術は他者を労るためにある。それは思い考えることの技術であり、音楽の技術である。そして人間にとって火の発明にも匹敵するといわれる写真という技術のなかにあってもよいだろう。 少なくとも私にとって技術がいかにあるべきものかという一般問題は避けて通れない。 それは最先端のハイテクな技術を身につけることから最も遠い技術であり、それはここにある身体感覚をその都度、新たに呼び起こすための基本的な技術なのであろうが、とても単純なことでありながら、おそらく世界が多様であるが故に逆説的にもそれは全く一筋縄ではいかない冒険のようなものである。模索の旅路、それも一里も進んではいないにもかかわらず踏み込んで書けば、今の視覚の時代には写真という技術のなかに、少なからずこのことが必要であるように感じる。