犬山 inuyama(9), 2008

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バッハ無伴奏チェロの一部を練習していて、ここ数日考えたことを書き留めておく。自分が生きることが全てだとしたら、何より過程が大事だから、あるときひらめいたり思ったことをそのまま。なぜバッハに惹かれるのかということ。書こうとしたら無限にあるだろう。

楽譜を読んでいるだけでは私の能力ではなかなかみえてこずに、とても覚えきれないような旋律部分を何とかしなければと思って、ある16小節の音符をすべて規則正しい記号にしてみる。

ある行だけうたっていくときれいな旋律
次の行もまたとてつもなくきれいな旋律

その二つが同時に併行しているうえに全体として巨大な響きが存在してきて動いていく。このことは秩序という一つの美の形への探求心をくすぐる。その秩序は数学的科学的な美的好奇心に通ずるだろう。だがそれだけではない。詩的精神がその科学的精神にあくまで拮抗して存在していることがすぐにわかる。

これは平たく言ってしまえば、音楽における極限的な、果てしなく続く頭と身体の体操にちがいない。苦悩の表現や神への賛美よりもまず、人間のもちうる創造性の一つの巨大な形がある。私はその過程を3世紀前にさかのぼって想像して学ぶべきなのである。そんなことはできないと言ってはいけない。それは深く掘り起こせば音楽のみならず科学そして科学に拮抗し科学を癒すべき詩・文学という問題、技術という問題へと導く。この科学と文学と技術という全ての問題がバッハの音楽には入っていて、かつこれらにおさまりきらないところに音楽があるように感じられる。

科学的態度と詩的精神と人間の信念を変奏していくことによって押し出される音楽、それはバッハという人間の生きた現実の映し出された「夢」である。ここのところなぜか「夢」という言葉が自分のここ数ヶ月の具体的経験にぴったりくる。夢というのはいろいろなイメージや意味があって様々に使われてきた言葉だけれど、それは私の外部の現実が同時に私の現実であることによって生ずる、いわば内的に静観され、かつ身体的に動的な夢であり、その力こそが現実を動かして何かが押し出されるような現実の一様態のことであり、私にとっての現実そのもののことである。私が決してどうにかなってしまったのではなく、見方が変化してきたとわかっている自分がどこかにあって、その自分を確実に維持できるような夢=現実である。まだ他に言葉が見あたらないけれど、書き留めるために使おう。

バッハの音楽は無論バッハの生きた時代と切り離せないだろうし、当時の楽器の構造や響きとも無論切り離せないだろう。あらゆることが一挙に配慮されてあるだろう。あらゆる微細な部分が全体のなかの意味をなしていて、それぞれの音のなかに曲のすべてが入っているようにさえ感じるときがある。

そのバッハの夢は今の時代の人間をも動かす強力な夢であることは間違いないのであるが、注意すべきはそれが強力であればあるほど人間や現実とかけ離れた夢想になりがちなことである。夢は現実としての夢であり夢想することではない。それがあくまで人間の達成した現実であり内発的な力をもった夢であったことにその都度立ち戻っていくこと。バッハ以外によって規定されてきた様々な夢想によってバッハを捉えないようにすることである。それは今の自分の夢とバッハという夢の対峙を通してしか成立しないだろう。そしてバッハの音楽は最もそのことを可能にしてくれる音楽であるように思われる。一言で言えば真に開かれている。従ってその端緒はこの一枚のスコアからバッハの夢を私が想像してみることのなかにある。

そういう音楽だから、あるいはそうしてみて想像しながら何人かの演奏家の演奏を聴いてみると、演奏家がどこに力点を置いているのかが想像できてとてもおもしろいし、ものすごく勉強になる。私は科学的精神と詩的精神の拮抗そのものがきこえてくるような演奏がまず好きだった。そういうさしあたりの自分の好みがわかるのもおもしろいし、ずっと聴いていると、他の演奏に照らして自分のなかの他者を発見できるおもしろさがある。とにかくおもしろさが常にある。自分で弾けるものなら弾いてみたいと思う理由は、まずはじめにこんな単純なところにあるかもしれない。

チェロに書かれたものをコントラバスという長い弦と4度の開放弦におきかえてやってみることは、私にとっては本当に相当の技術的困難をともなうけれど、まずはこのコントラバスという楽器におきかえてなおかつバッハにできるだけ忠実にやることだろう。それすらできないかもしれないが、まずは時間をかけて少しずつやってみる。バッハや自分の意図していないものがそこにそのとき出てくる可能性を秘めているかもしれない。その偶然や、はみでたものこそが現代とつながっている気がしてならない。なかなか苦しい楽しさだけれど肩の痛みもいつしか忘れている。あせればあせるだけ遠のく。何とか乗り越えて出来る限り知恵を働かせてやってみることだ。