別府 beppu, japan, 2009
昼には木曽川の近くで鷲が風に舞って鳴いているその声は音楽そのものだ
深い夜の空に煌めくオリオン座の星々は暗闇のなか遠い遠い光そのものだ
私にとってたとえば写真を肯定していくことはやはり自己をそのまま表現することではなく、「こうではなくてこうである」という否定をさらに否定すること、すなわち「こうである」ということだけがのこるような何かとしてあるのではないかと思うことがある。それができるかわからないにしても。否定が否定されたとき表現ということとは似ていても異なる形があらわれてくるように思える。そして死が遠ざけられようとしているいま写真は表現の不可能性を果たしていく宿命さえその役割のなかにもっているようにもみえるが、現実が誰のものでもないという自覚は程度の差こそあれどのような写真をみても呼び起こされるし、作家性とかテーマ性というものはどうしても二の次の問題となっていく。そうしてみると個展などどうしてするのかという思いにいつもいつもどうしてもかられてくる。
食欲や性欲や惰眠をむさぼることを無視して生きることはできないが、注意を怠れば不可能性や否定自体を当の写真に対象化し自己の本能的な欲望にそれらがとりこまれ、表現の世界へと写真がすぐに転化していく可能性があるだろうし、注意しなければならないということはこうではないと何かを少なくとも否定して意識していくことである。そうしてみるとこうした観念のジレンマのようなものを感じつつもそこから本質的に離れるために否定の行為のさらに否定に立つそのようなある種の肯定的な行為や態度が一体どのようにあるのだろうか、そんなふうに最後には導かれていく、そうでなければ社会全体からしたら小さな場といえども、やはりなかなか個展などできるものではない。それはたぶん新しい世界の切り口の写真でもなければ生を直接表現するようなものではなく、自然な力動を磁場のようにそこに帯びつつまた総じて何の変哲もなく時空が否定の否定という過程を経て肯定された場に結果的に異質な何かが佇むような場だろうか。
人間が発明し遠くを詳細に拡大してみようとする双眼鏡を逆からのぞいた風景のようなもの、経験の少なさからくる無垢な心情にすぎないのかもしれないが、過去にどこかでみたような写真そして音のなかにも双眼鏡を逆にしてみれば何か別なすがたかたちがみえてくるかもしれない。それらを鏡とすることでかつて存在しなかったものの可能性がそこにみられる契機となるかもしれない。写真や音が一回限りのものであることと写真や音が記憶や意識や身体や心というものと連関すること。記憶や意識という断面を保持しながらもいまここに何かが生じているような写真という平面そして音という他者と、人間との肯定的摩擦のなかにあるもの。それを導くための否定が否定される場。
斬新なものはなにもないがじっとみてよくきけばそこに生じている反復とずれによってかつて経験したことのなかったものが浮き彫りとなるような音と写真への態度。音でいえばたとえばバッハにおいて作曲された形のなかに即興性でうめつくされた何かを聴くような態度だろうか。さらにいえば診療行為というものに対する真の臨床的態度だろうか。医者の職につきながら少しずつやってきた音楽と写真であるが各々を独立したものとしてやはり私は捉えることはもはやできないし、身のまわりの日常が関与するすべてなしには私という自己が自己においてそして自己からはなれて行為することはできないように思う。
過去の数少ない個展や発表会をふりかえればそこに小さな自分がいる。何かを発表したり行為したりする場は音が自然の絶対的な厳格さにうたれたときに人間にとっての真の音となっていく、そうした弱く小さい自己というものを体感するのと似たような場に自らを自らを通して否応無しに置いていくということにおいてよい契機となりうるのかもしれない。そして過去に数回行ったなかに何か硬質で弾力のあるような感触のようなものがどこか漂っているのはなぜか。そこにも多かれ少なかれ人の真の心の行き交いと出会いそして別れがあるからだろう。それは医者の臨床に直結することがらだし機会があるということに感謝して私はそういう場を大事にしなければならないと思う。