由布院 yufuin(5)2009

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年末に個展をする予定となり写真を選んだりこの日々をどうすればよいかととりとめもない時が続く
私のなかの他者に出会うことは終わらないし現実が変化し続ければ写真もまた終わらない
音は私と全く無関係にあるようでいてなくてはならない水のような空気のようなもので
水を飲まなければ生きられないし空気を吸わなければ生きられない音が無いということは
そのように何か恐ろしいのだが水や空気の充満が生命にとって一であり全であるような形で
全き静寂のなかに充満する音は闇そのものであり
死はブラックホールのように不気味なままで生の姿もあいまいなままある
すべての方法やそれまでの一切合切を捨てるのではなく
一切合切を真に一切合切とすることができるかということのなかに真の道はあるようにみえるが
そうであれば一目で分かる変化というものは虚構にすぎず
何かと何かを結びつけたりぶちこわしたりすることのなかにはなく
微々たる変化の蓄積とその正当な反省のなかにずれをみいだしていくことかもしれない
鴨長明の方丈記のそれまでの文章すべてをほうり出したような結末文そしてその余韻その残されたもの
そのような何かに向かって撮られた写真が削られていき何度も選びなおしていく過程のなかに
身体を酷使することで低下した免疫を生きようと必死な身体が次々と作り替えて再構成される
そうした身体を感じながら昨日とは違った私が今日もここに立っている
離脱していくことは私を大事にすることそのものであり他者との何千回もの会話によって
本能的な底の底の生きる力を感じることへと導かれて明日の私が今日の私ではなく
今日の他者もまた明日の他者ではなくつなぎ止められる今日と明日の心の形は次々と変化していく
そのなかに集結してくるものが物質の偏りとしての命のかたちであり
心はみえずきこえない場所で
自己と非自己のあいだ物質の偏在をいまここに結びつけている
そのような私のなかにどこから音はやってくるのだろうかと思えば思うほど
痛烈でまともな自己否定とともになければならず
巨視的にものごとをみて老木のなかの末梢の末梢にある葉脈の自己をかぎわけ
自己と非自己とのあいだに埋めることのできない溝を掘ることによって
逆説的に非自己とのあいだに心の道を開くことで
自己と非自己を同じ写真と同じ音に観なくてはならない
そのような行為は風が水面をなびいてそこに水があるかどうかわからなかった
その湖面に微かに水面が生じるかのごとく時の止められた一瞬の時の垂直な推移のなかに
身体と心を埋めることによってなされるような何かなのであろうが
わかっているのにこの上なく難しいすなわちわかっていない
これまで生きた私から隔絶されたものが突如として出るものではなく
ただ毎日ここにこうして生きていることを受け入れ毎日作り替えられる自分を見つめるほか
特別なものはなにもない