別府 beppu(11)2009
たどりつくことのない
霧のむこう岸
霧は灰色にみえている
手を伸ばす
道具の触れた
霧のむこう岸
竹林の風にゆれる
きしみしなる声がきこえる
曇る空の雲がみえる
江戸の精神性を遺された書や絵画にみていく
そういう時間をこの一ヶ月間
仕事の合間をぬってずっと過ごしている
どういうわけかそうなっているがこれも私という旅において
偶然と必然の一体となった出来事なのだろう
江戸後期は入り口に立つだけでもとても興味深い
こうしてさかのぼっていったら
たとえば空海には何十年後にたどりつけるだろうかと思うなら
たどりつくことはできないのかもしれない
それにしても数百年後の人たちは
二十世紀末から二十一世紀初頭にかけて
この時代を何と呼ぶのだろう
江戸くらいだと直に触れる資料もそこそこあるといってよいし
自分に必要と思われる資料には出来うる限りあたってみる
大事な点は
江戸の人たちを想像してそこにいるかのようにみるのではなく
資料を分析するのでもなく
精神性を想像して真似たり
そこから倫理や教えのようなものを学ぶということでもなく
そうした営為を通じて最後には
現代において江戸時代の特異な人物たち
彼らそのものに自らがなっていくということだ
それは倫理や主客や論理そして鋭い示唆
外側からの視点を保持しつつもそれらを
あくまでも内側から食い破ることだ
そうした姿勢を常に貫いて彼らに接することだ
だがそうすることが本当に可能なほど
生きた色彩が今になってもなお
具体的な絵画などから肌で感じとれるのだから
彼らの営為はもの凄いことだと思われてくる
若沖が寄想の画家なら岸駒は異想の画家だろうか
名のあまり売れなかった絵師の南画などにも
入り方さえ間ちがわなければ
そうした偉大なる個性はみてとれる
ずっとみていると
私の空間的振る舞いは極小し
精神としての私は極大する
空間的環境が変化すれば自己は変化するが
時間的環境の変化に身を置くことによって
精神を新しくつくりかえるという試み
そうしなければならない
人間と手に触れる道具によって世界を間接的に捉える
さらに間という出来事の内部と外部
その間にたってじっとしている
私という人生の旅の否定
私という一つの軸を捨てる
そうしたときもはや行為は行為でなくなるが
そこにもう一つの別種の行いがやってくるように察せられる
どうしてもそのように感じられてきて
何かを待つ
果たせずに死んだとしても
死自体がそうした行いとしてあるに違いない
こうした試みのなかにあろうとする契機は
先月からやはり良寛を捉え直してみたなかにある
これも良寛の遺跡の真偽含めて資料にあたって導きだした
一つの初歩的な懸案にすぎない
しかし以前から良寛和尚はその生き方がどこか奥の方でくすぶっていたのだが
身体として特にその思想の反映される書に導かれたのは
私の生において空間的な変化が時間的変化へと変容し
合一する過程の出来事として捉えられるかもしれない
良寛のようには生きることはできないし
ある種の清貧の倫理が今必要であると強調したとてもはや果たせないだろう
そうしたこととは全く別個の次元において
その生の意識のなかに入りこむことは可能ではないか
そうしたときこの身体がどう動きだすのだろうか
この五月にはやはり越後を訪れよう