熊野 kumano (5) 2010
ニュートリノが光よりも速い可能性があると新聞にでていた。もし実験が正しいなら、科学的理論のなかでは過去に戻れることになる。ニュートンによって世界の空間的座標軸をもちこんだ把握が行われ、アインシュタインは20世紀に空間に光と時間を組み込んだ新たな相対的な軸を設定したが、心と身体は絶対的な座標をもたなければ、相対的な座標ももたない。まわりに座標のない動く重心が支え、引きつけあい、斥け合う。
道元から学んだことの一つは、心と身体を一つの状態として変化のなかにいかに定位させていくか。それは変化のなかにあるがままにおかれるという一つの実践の方法ともいえるが、方法的実践からの離脱、実践の断続的連続によってこそなされる。音と写真というものの本質そのものにそれを発見しつつ、己にそれを見いだしていけるか。
あいだにあるものは境界をなし、境界にあるがゆえに中庸となって、ものとものの、ものとことの、こととことの隙間にただよっている。逆に隙間が中庸であることの過剰によって微かに存在を呈し、何かの境界をなして、ぼやけてあらわになった境界自体が、先端的、先鋭的、権力的な極端なあり様を避けて、極端に達することによって生ずる力に引き裂かれる心と身体ではなく、引き裂かれた心と身体を、世界の織り地、その襞に漂いながら、一つの動きながら流れる重心として個々を定位させる。その斥力と引力によって自ずから動く、重心がありながらも不安定に漂う世界は、人間の自然における位置を問い直すだろう。
今世紀は、より広大な時空の占有のために技術と人間の夢を追い求めるよりも、心と身体の重心を個々が各々にひきよせながら、闇の世界を生きていく不安定で流動的な過程にある。それは、真理へ向かう科学の方法が問われるよりも現実へ向かう方法のなかに科学を退歩させ、人間の心と身体の現実的実感を確たる背景とした実学として 科学のあり方を位置づけ直す、方法の科学が問われる過程でもある。
宇宙への旅やタイムマシーンの発明に夢見るにせよ、方法において地上の今ここの現実を俯瞰しながら遠ざけ心と身体を分裂させるのではなく、今ここに立つ心と身体、その普遍的問いを内側からなお求め外側からながめるにせよ問いを囲いこまない形、自らが自他を排除しないような隙間に身を寄せる形、闇と光の境界に心身をおぼろげに点滅させあらわれながらこの世界を個々が生きていくことの可能な形を模索していく過程である。