由布院 yufuin(2)2009

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東京から木曽川へもどると
粉々にされた木々たちのあと
草のない堤防の残された斜面に
此岸の姿を露にした現の花たちが
突如として出来し
紅々として咲いている
殺された木々たちの
彷徨う墓の在処は
どこか
音色匂う虚明のなか
群生した彼岸花たちは
一声に尋ねる
此岸に密かにしまわれて
そのほころびから咲いた
めのまえの花たちは
あたりの風を呪縛して
あの木々たちのいまここを
その気配のなか
不気味に予兆している

彼岸なき此岸に徹して
耳を澄まし眼を細めて聴くなら
感覚は微細に深まり
百年の生の孤独が
いまここに
同じすがたでやってくる
死は我がものではなく
生は幻視できない
此岸をみて聴き
音の倍音と強弱
光の色めきと濃淡
影と陰
匂いを嗅いで生とむきあい
彼岸の死がいまここに実在するような
想像をはみだしてうまれる幻視の真実へ
此岸の艶めきからうまれる彼岸の彼方へ
そうした場所へとほころび
進み退いては
虚明の響きとともに終わりなくどこかへと
むかっていく

身のまわりのものたちへ
いまここにおいて
最大限の敬意を抱きつつ
この世界に立っていなければもはや
人は存することができない
いまここにあるものたちは
かつてあったすべての失われたものたちの
化身でもあるならば
いまここにくる音の連なりも
そうしたものたちの
いまここへの意味なき必然の音でなければ
いまここの物質的痕跡である写真も
そうしたものたちの
いまここへの意味なき必然のしみ出しでなければ
何のための音楽と写真なのか
現代においてそうしたことが
行為の唯一の根源的意味としてあるのかもしれないそして
行為は意味以外のすべてのためになければならないだろう

なぜ木々は切られたのか
一度植えられた彼岸花を育てる
持続した心
人の手が加わった自然への
人間的理性としての手入れ
そうした為されるべき責務とは
この人間の行為はほど遠い
それでもそうであるならば
自らのなかに答えを求め
問いを発しなければならない
此岸を聴いてみていく
その果てにある形をさがして
ずれと反復のなかで
臨床なるものを
体現し具現化していくことのなかに
自然と真に対峙し
自ずから同時性をともに分け合う
道があるだろうか