cordova(2), spain 2008
何か書こうとするが
なかなか言葉が出てこない状況が続く
きっとしばらくそうだろう
去年の個展の能書きを今あらためてみるにつけて
私はもはや違う生き物のようでもある
言葉をあまり書かないということは
一つの良い状況なのかもしれないが
忘年会と称する酒の宴もたくさんあってつまるところはきっと
あわただしくて忙しい気持ちになって
疲労困憊していることにも十分気付かないまま
言葉を書けないでいるだけだ
そうして日々が過ぎていくうちにも
個展は私を少し先へ連れて行ってくれたようで
そこへいくための言葉がさらに追いつかないように
また日々は過ぎていく
事細かに書こうとするなら
分析的事項はたくさんあるのだが
逐一書いていてはかえって方向が定まらない
重心がどのように動くかが大事とおもう
重心の動く方向性を見いだすのは言葉ではなく
経験と鍛錬と猛省による
音についてはさしあたり
今の限界点も端的にわかったから
練習とともに重心を下げる方向がむしろ大事だろう
写真はもう少し自らの可能性と技術を勉強して
言葉によって自己批判を強めるべきだろう
その推移をそれとして大事にしつつ
根幹をどうするのか
その大きな重心の動きを感ずるべく
今は日常をおくるべきだ
それはある意味において後退することで
言葉から身を引くことであるかもしれない
前進しようとすると後退する
後退するといつのまにか前進している
個展を反省し反芻することも
もはや前向きにしかあり得ない
私にとってたとえ否定的なものことも
私を限定することへと通じ
否定が肯定へと返上され
述語が再び主語となって
前向きに捉えることがいくらでもできる
何かを良い方向へと変えていく原動力となりうるのは
否定の裏返しの表現よりも
否定を否定する力
すなわち肯定する力動そのものだろう
少なくとも身体のどこかでそう信じて
そのように生きる人におしえられて
これまで生きてきたのは
自分なりの財産といってもよいだろうか
個展からというもの
師走という時期を過ごしてわかるのは
人と人の関係が変化すると
すべてが動きだし
同じことも大きく変わってくるということ
そういう単純なことが
様々に身にしみるようになる
本質的に前向きになることのなかにいるために
さらに後退して視野を広くもつことが
今の私には必要と思う
体力も次第にピークを超えてくる年齢
それと意識できないような予期しない身体の免疫の低下を
急に招いてくることもある
身体が徴候を知らせてくれるとき
頭は無理せずにおこうと言う
考えなければと思って考えることは辛い
そういうことはもういい
堂々と身体で生きることに専念していきたい
しかし本当に身体が辛いと身体が思っているとき
意外にも不意に真に近い言葉が書けるときがある
先日の飲み会のまえにブックオフで何とはなしに買った中国詩選集
そのなかでもことのほか心を動かされたのは
はるか昔の中国の詩人
陶淵明との出会いだった
高校生のときに漢文で読んだ微かな記憶がある
名高い「飲酒」など読むと
陶淵明が詩に書いている言葉も
そうして書かれた真の言葉のように思えてくる
その詩に今の心境を重ねることはできるが
陶淵明自身の心境には無論なれない
だが開かれた創造性はそういうものとしてあるのではない
漠たる未来への希望がそこはかとなく芽生えて
心が和らぐ本当の詩
心が和らぐことは痛みを緩和し
痛みが緩和されることが心を和らげ
痛みを痛みそのものとすることで
痛みから距離をおくことができるようになる
その空間に自らを後退させて
細部としての痛みに再び入り込むことで
痛みは徐々に痛みではなくなる
痛みそのものが痛みという言葉から遊離してくる
そこに一つの緩和作用と
身体全体に響きわたり緩衝しあう心がある
陶淵明と出会った時期をほぼ同じくして
知っていそうで知らなかった何かに再び
まるでみえない力に吸い込まれるように
一つの巨大なコントラバスの弓に出会った
他の手元にある弓の音色はすべてこの弓にある
といっても過言ではない
弓の歴史としても格段に古い
したがって少しづつ
ほとんどの弓を手放すことになるだろう
名としての価値
道具としての価値優劣など
とうに超えて
あらゆる価値をもはや
すでに超えたものとして
そこにあってたたずんでいる
そうした遙かなる場所へと
この身体が導かれていく
まるで陶淵明のような弓
一つの楽器に一つの弓
そうでいて無数の音色と響き
それだけ鍛錬できて
遠くまでいけるように感じる
その理想的で究極的な相性は
ものごとがいかに単純でなおかつ大きいものか
そういう真の明快さへと
私を連れていってくれるように感じる
陶淵明が田舎に住んで詩に書くのは
そうしたとてつもなく大きな何か
並ではない鍛錬を経たのちに
ただ詩をそして音を
かみしめて楽しむこと
それは例えば
痛みと病の緩和へと導かれるような音
だろうか
こう書いているうちに
疲労した身体がそろそろやめておけと言い出す
明日は迷ってしまうくらいいろんなことがあったのだけれど
今年最後の仕事が終わったら他との関係を断って
年の仕事治め一年よく生きたと信じて
本当の休息をいただこう
陶淵明には「飲酒」ならぬ「止酒」という詩もあると知って
クリスマスの当直の夜もある種の落ち着きをはらって
だるさもまた楽しく過ごすことができる
その詩によって心は
痛みをはるかにこえて満たされる