熊野 kumano (15) 2010
(つづき 2 )
八村さんの幽霊と対話する日々。ニコンで初めて写真の個展をしたとき、振り返ればそれがたとえ浅いものであったにせよ、一瞬の呼吸感の持続ということが私にとっての大きな課題だった。それは八村さんの書いていることの一部によく似ている。
「ラ・フォリア」を読むと、会ってもいないこの作曲家にただならぬ親近感と自分自身への発見を次々と覚える。氏が死去されたときのすぐれた新聞書評がいくつか本にはさまれていたが(私の両親が切り抜いてはさんでおいたものだろう)、そのなかの気になる言葉「(八村の)すぐれた指摘は、なによりもまず指摘したもの自身にあてはまる」、「人は、自分自身を発見するようにしか他人を発見できないもの」であるのだが、、、。そして、その一つはショパンを引き合いにだしていた。超表現主義などともいわれるようだが、私はむしろバッハと対比したい思いにかられる。
あくまでも気力が充実しているときにその音楽を聴くと、ショパンよりも断然バッハ的に聴こえる。多面体(ポリフォニー)としての音の表出の両極がバッハと八村さんにあるように思えるからだろう。正反対に聴こえることは、両極をむすぶ線があるということでもあろう。 うまく言葉で言えないが、少し書いてみたい。
バッハをたとえ一曲でも何度も練習していると、一回ごとの味わいがある種の色として凝縮してくる。たとえばとてもうまくいく日は、今日は深青色の一曲、今日は薄墨色の一曲というように。バッハを弾くというのに不純でなにか汚い色の演奏もあるが、それでも納得いく場合とそうでない場合もある。
曲のなかでもポリフォニーの低音部、中音部、高音部がくっきりとした和音と旋律で見事に整然と分かれており、時折アクセントのように他の一色が加わってポリフォニー全体の和音の色の雰囲気が変わり、そうして音楽の動きが時間的に豊かにもたらされるようにできている。無論、一音の音色でずいぶん印象が変わるが、空間としてのポリフォニーの構築のなかにその変化があるという印象が全体を支配している。
八村さんの場合、音色がめまぐるしく変わる。一音という音の質感が基礎となっていて、その連なりが色の重なりを意味し、連なりと連なりの間にある無音は、音の連なりの混在された色の残響を残しつつ、それが消える。そして次の色の音、色のつながりがはじまる、その残響と音の開始が無音の間のなかで混在しているような印象だろうか。未来へと進んだ色の音色が、残響が瞬時に次の音色にまたがる。これが未来と現在の音の混在という印象をかもしだすのかもしれない。
その未来は聴き手にとってはおそらく単なる音の記憶なのであるが、たった今、数秒前にこれだけ鳴ったという過去形のなかに、矛盾をはらむように未来からの運動、あるいは未来への解放性(狂気のなかのぎりぎりの自由、釈迦の不自由に隣接する自由にも似ているだろうか)が生じる。そのすぐあとの音がその「未来としての音の記憶」をさらに印象づけ、新たな音のはじまりが今現在となって続く。
音が宇宙へと上へとのぼって希薄となり自由になるのではなく、音は地を這い回り、未来が地に練り込まれるのである。 私には常に音が未来からやってくるように聴こえるのが不思議だ、音が未来から過去へと流れているのだ。
こうした音楽の錯綜した時間のあり方を非常にひきのばして巨視的にみてみれば、 未来の音のあり方のヒントは、 古典を通じてもたらされうるということも理解される。過去をそのまま今に応用するのではなく、過去から他ならぬ未来を学ぶ態度がなぜ大事かということも同時にわかる。