犬山 inuyama(12), 2008
いい写真はどうしても撮ってしまうし何でも写真になるものだが作品として残すとなるとまた大分違う
私はスナップ写真を主に撮っていて
わかりやすいいわゆるありがちな写真は撮れてしまうのだが
そういう写真は強度が弱いだけになってしまうことはしばしば経験する
撮影時にこれはいい写真になるだろうと思って撮った写真は
悪くはないけれど実はあまりよくないということの方が多い
いい写真というのは難しいけれど
何か突き刺さってくるものがある(と私が思う)写真だ
その場の感動やコレだと思って躍起になって撮ってしまった写真というのは
実はあまり突き刺さってこない
私ではないもの私のコントロールが効かなかったものが写し込まれている写真がいい
だからといって構図が崩れていればいいとかブレていればいいとかそういう安易なことでもない
でもそれは私が真剣に撮った結果なことには間違いない
そうこうするうちにせっかく撮った写真たちにとてもとても厳しくなっていって
この写真には何か足りないというようなことになっていく
そうして残るのは1000枚懸命にとってもたった2,3枚ということもある
あとは全体の流れを他の写真でつくるか
そこから逸脱させるかというような遊びの精神があってもよいけれど
レベルを落としだすときりがないから
あとは何をどう救い出すかである
そしてこの救い出し作業がいい
じっと写真を隅々までみてはその写真の語ってくる声がきこえるかどうかしばし待ってみる
そうするとはじめに見えてこなかったものがじわじわ見えてくる
そこに本当の写真との対話があるし
撮ったときにさかのぼって空気の匂いをまた味わうことができる
それを何度も繰り返してあるところに不思議と落ち着くのが未だに不思議だ
このなかではこれしかないというようになってくる
前回の個展である方が「この写真はじっくりみるタイプっていうやつ?」と呟いておられたのを耳にした
私の写真はそうなのだろうと思う
ちなみにブログの写真はもっともっと気楽なものでこれはまたこれでいいと思っている
レベルが高い低いということよりも一枚一枚の写真をその写真としてみてみて
その日の体調や経験と合わせて何が抽出されてくるか
あまり統一感がなく日々異なるのもまたよいのだろう